79.彼の真相。
数日後。
熱は下がり、身体も軽くなった。
あの日のことが夢だったかのように、私は再びセシル様の執務室に立っていた。
窓辺の光は柔らかく、机には山のような書類。
「次」
いつもと変わらない声。
私は一礼し、新しい書類を差し出す。
「南部領の報告書です。至急の印が」
「置け」
短い指示。
私は机の脇に回り、書類を整える。
距離は一定。
あの日の手の温度が、嘘のように。
セシル様は何も言わない。
私も何も言わない。
「本日の夜会の確認を」
必要な報告だけを、簡潔に。
「出ない」
即答。
「……承知いたしました」
淡々と応じる。
髪をめくる音の合間、ふと視線を感じた。
セシル様がこちらを見ていた。
あの日と同じ瞳。
いや。少しだけ、違う。
確かめるような視線だ。
「体調は?」
唐突だった。
「問題ありません」
即答する。
「もう熱は出しません」
少しだけ皮肉を混ぜた。
すると彼は、わずかに口角を上げる。
「そうか」
それだけなのに、胸の奥がひどく落ち着かない。
午後。
執務が一区切りついた頃。
他の侍従たちが退出する。部屋に残るのは、私とセシル様だけ。
静寂が落ちた。羽ペンを置く音がやけに大きく響く。
「ネメシア」
名を呼ばれただけなのに、背筋がわずかに強張る。
「はい」
「今夜」
視線が絡む。
「部屋に来い」
鼓動が一拍遅れる。
あの日、"元気なときに話す"と言っていたこと。
私は完璧な微笑を浮かべた。
「分かりました」
けれど。
部屋を出たあと、胸の奥がひどく騒いでいることを私は自覚していた。
今夜は、何を話すのか。
あの続きを。それとも――
私はゆっくりと、指先を握りしめた。
―――――――――
夜。
静まり返った回廊を抜け、私はセシル様の私室の前に立った。
軽くノックをする。
「入れ」
低く、落ち着いた声。
扉を閉めると、外界の音が消えた。
室内は柔らかな灯りに包まれていた。
セシル様はソファに腰を掛けていた。
公務の衣装ではない、少しだけ寛いだ姿。
それだけで、胸がざわつく。
「……失礼します」
一礼する。
侍女としての礼。
「そこに立ってないで」
顎で、隣を示す。
「座れ」
命令。
私は一瞬だけ迷ったが、従う。
距離は保ち、隣に腰を下ろそうとした――
その瞬間。
彼の腕が伸びる。
「……っ」
引き寄せられ、視界が揺れた。
気づいた時には、私は彼の膝の上にいた。
「セ、セシル様……!?」
思わず小さな声が漏れた。
背中に腕が回り、腰には手が置かれている。
完全に逃げ道がない。
セシル様は肩越しに私を見下ろす。
彼の口元が、ほんの少し緩んだ。
「嫌か?」
……ずるい。
嫌ではないと知っていて聞いてくる。
私は視線を逸らした。
「……いや、ではありませんが……」
腰に回る腕が、わずかに強まる。けれど、苦しくはない。
「……なぜ、このような」
照れを隠すように問いかけた。
すると彼は、少しだけ真顔になった。
「言っただろ」
低く、静かに。
「離れないと」
胸が跳ねる。
「だから、離さない」
断言だった。
腕が、きゅっと私を引き寄せる。
背中が彼の胸に触れる。強く、鼓動が伝わる。
「セシル様……」
名前を呼ぶ声が、少しだけ柔らかくなった。
「顔が赤いな」
「灯りのせいです」
「そういうことにしておこう」
彼は楽しげな声音だった。
腕が緩む気配はない。
私は観念して、力を抜いた。彼の胸に背を預ける形になる。
悔しいほどに、落ち着く。
「このままでいさせろ」
その言葉に私は、小さく頷いた。
セシル様は片手を伸ばし、テーブルの上の書類を取る。
「これを見ろ」
私は膝の上に座ったまま、差し出された紙束を受け取った。
整然とまとめられた一覧。
目を落とす。
……瞬間、息が止まった。
横領、裏取引、違法徴税、騎士団への不正介入。
並ぶ家名は、どれも貴族派に属する有力貴族たち。
「……これは」
声が低くなる。
「セシル様の派閥の方々では?」
「そうだ」
迷いのない返答。
私はもう一枚、めくった。
証拠の映し、金の流れ、証言。
徹底的な証拠。
「なぜ、これを」
少なくとも、侍女に見せる類のものではない。
王家の内部資料。下手をすれば、国家転覆に繋がる。
セシル様は、私を抱いたまま静かに言う。
「悪質な連中をあぶり出している」
淡々と。
私は、ゆっくりと問いかける。
「……なぜですか」
セシル様は私の腰に回した腕を、ほんの少し強めた。
「分からないか」
低く、静かに。
「ユリウスのためだ」
胸の奥が揺れた。
「俺は王になる気はない」
はっきりとした断言。
「いずれ王座に立つのは、あいつだ」
言葉を失う。
「ユリウスが王になった時」
セシル様の声は、驚くほど静かだ。
「足を引く連中は、残しておけない」
私は息を呑む。
つまり、彼は弟のために自分の手を汚していた。
私は書類を閉じる。
「……ユリウス殿下は、ご存知なのですか?」
「いや」
即答。
「知らなくていい」
少しだけ声が低くなる。
「知れば、あいつは止めるからな」
セシル様の言葉に、納得をした。
たしかにユリウス殿下なら、そうする。
私はゆっくりと視線を落とした。
「……セシル様は」
言葉を選ぶ。
「ご自身が悪者になるつもりですか?」
「ああ」
迷いはない。
私は、そっと問う。
「それを、なぜ私に?」
一瞬、沈黙。
暖炉の火が小さく鳴る。
セシル様は、腕をわずかに強めた。
「お前は同じだからだ」
胸が、ひとつ強く打つ。
「妹が幸せになるなら」
低い声。
「自分がどうなっても構わないと、そう言っていただろ」
息が止まる。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
彼の瞳は、真っ直ぐだった。
「……俺も、ユリウスが幸せになるのを願っている」
彼の声が、わずかに低くなる。
「だから」
彼の手が、私の顎に触れた。
そっと、上を向かせる。
「お前のことは気づいたら、目で追っていた」
強い瞳。
「好きになった理由など、後付けだ」
心が、揺れた。
私は、小さく問いかける。
「……では、セレフィーナ様は」
ほんの少しだけ、声が固くなった。
セシル様の目が、静かに細められた。
「セレフィーナの家は、貴族派の中でも最も力がある」
事実だけを述べる口調。
「表向き、俺は貴族派の筆頭だ。
ならば、その頂点と繋がるのが最も効率がいい」
合理的で冷静。
「婚約は、駒だ」
断言。
「俺が王位を望んでいると周囲に思わせるための」
私は息を呑む。
「では……」
「情はない」
私の言葉を遮るように彼は、即答した。
迷いも、濁りもない声。
「利用しているだけだ」
淡々と。
ずっと疑問だった。
ルミナが聖女の力を覚醒した時――婚約者候補としてなぜ彼が拒んだのか。
――平民だから。
それは貴族派が掲げる思想。
そして昔、セシル様は平民を好ましく思っていない、と耳にしたことがあった。
けれど、今まで見てきた彼に、そんな素振りはない。
ルミナと話している時、嫌っているように見えなかった。
……ぶっきらぼうではあるけれど。
彼の行動が、ユリウス殿下のためなら……。
「だが」
セシル様の声に、はっとなる。
「お前は違う」
視線が、深くなる。
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
「……セシル様」
「俺と同じ、悪を引き受ける覚悟を持った女を」
彼の額が、わずかに私のこめかみに触れた。
「俺の傍に置きたいと思った」




