78.これも熱のせい。
王宮の回廊は、夕刻の光に沈んでいた。
高い窓から差し込む橙色が、磨き上げられた床に長い影を落とす。
足音が、ひとつ。
規則正しく、静かに。
私は歩きながら、無意識に指先を握りしめていた。
『お姉様』
ルミナの声が、ふいに蘇った。
お茶会の終わり際。
クロエ様が席を外したあと、ルミナが静かに言ったのだ。
『セシル殿下、裏があるかもしれないよ』
私は眉を寄せた。
『裏?』
『うん。だって、婚約を動かさないまま、お姉様にあんな態度』
責める声ではなく、心配する声だった。
『本気でも、そうじゃなくても。どちらにしても、計算がある気がする』
ルミナは真剣だった。
いつもの柔らかな笑みはなくて。
『だからね、お姉様。気をつけて』
そして、今。
王宮の静寂の中で、その言葉がやけに重く響いた。
裏があるかもしれない。
けれど、私は足は止めない。
セシル様は王族だからこそ、婚約は政略でもある。
軽率に動けない立場。
それは分かっている。
だけど、婚約が早まるという噂。
今日、セレフィーナと会う約束。
それなのに、距離を詰めてくる態度。
――計算。それとも。
私は小さく息を吐いた。
「……考えすぎね」
その呟きは、回廊に溶けた。
――帰ってきたら、俺のところへ来い。
低い声が、耳の奥に残っている。
命令口調なのに、どこか甘さを含んだ声。
真実を知るために、行かない理由はない。
セシル様の執務室へと向かっていた。
扉の前で、ほんの一瞬だけ息を整えた。
ノックをしようとした、そのとき。
中から、笑い声が聞こえた。
柔らかく、澄んだ声。
扉はわずかに開いている。
視界の端に、金糸のような髪が映った。
――セレフィーナ。
セシル様の腕に、自然に絡められた細い腕。
それを拒まないセシル様の姿。
距離は近い。
親密な、婚約者の距離。
胸の奥が、ひゅっと冷える。
何もおかしくない。
二人は、婚約者なのだから。
わかっている。
……分かっているのに。
――話がある。
その言葉が、急に怖くなった。
彼の口から何を言われるのか。
告げられたとき、私は何を思うのか。
「……今日は、やめましょう」
私は静かに手を下ろした。
用事があるのは向こうだ。
婚約者との時間を邪魔する必要はない。
侍女として、正しい判断。
踵を返す。
歩き出した途端、こめかみがずきりと痛んだ。
一瞬、視界が揺れる。
……疲れているだけよ。
額の奥がじわりと重く感じた。
部屋に戻って、休もう。
回廊の灯りが滲む。
胸の痛みも、頭の重さも。きっと――。
「……考えすぎたわ」
誰に言うでもなく、小さく呟いた。
自室の扉を閉めた瞬間、ようやく深く息を吐いた。
その息が、少しだけ熱を帯びていることに、まだ気づかないふりをした。
―――――――――
いつの間にか、眠っていた。
熱が、ゆるやかに身体を包んでいる。
まぶたの裏が暑い。
遠くで、誰かが名前を呼んだ気がした。
「ネメシア様」
やわらかくて懐かしい声。
視界がぼんやりと開く。
窓から差し込む白い光。
子供の頃の部屋だ。
「まだ起きてはいけませんよ」
額に、ひやりとした感触。
濡れ布巾。そして、優しく撫でる指。
「リサ……」
幼い声が、自分のものだと気づく。
丸い小さな手が、布団の上から伸びる。
リサは、穏やかに微笑んでいた。
「熱があるのですから、寝ててください」
「でも……」
「だめです」
きっぱりと言うが、声音は優しい。
彼女の手が、頬に触れる。
あたたかい。
石鹸と、少しの花の香り。安心する匂い。
「大丈夫です。私がついています」
その言葉に、胸の奥がほどけた。
「……そばに、いて」
幼い私は、そう言っていた。
弱くて、素直に。
リサは迷いなく頷く。
「もちろんですよ」
その手が、私の指を握った。
しっかりと離れないように。
夢の中の私は、目を閉じた。
安心したまま、温もりに包まれて。
―――――――――
瞼が、重い。
ゆっくりと意識が浮かび上がる。
視界がぼやけて、天井が揺れて見える。
身体が熱い。
「……起きたか」
すぐ近くから低い声が落ちた。
「……セシル様……?」
声がかすれていた。
彼は、いつもの冷ややかな表情ではない。
少しだけ、眉が寄っていた。
「熱がある」
短く言う。
「お前は頑張りすぎだ」
その声音は、驚くほど穏やかだった。
私は瞬きをした。
夢ではない。
「……どうして」
「昨日、来なかっただろ」
わずかに口角が上がる。
「様子を見に来たら、これだ」
呆れたようで、どこか安堵の声。
セシル様は、寝台の脇に置かれた水差しに目をやった。
「水を持ってくる」
そう言って、身を離そうとする。
その瞬間、考えるより先に手が動いた。
彼の袖を、掴んでいた。
布越しに伝わる体温で気づく。
「……行かないで」
自分でも驚くほど、弱い声。
指先に力はない。
けれど、離したくなかった。
セシル様は止まり、視線が落ちてくる。
熱のせいで、頭がぼうっとする。
自分が何を言っているのか、分からない。
「……ネメシア」
低く、名を呼ばれた。
いつもより柔らかくて、静かな声。
袖を掴んだまま、私は目を閉じた。
セシル様は一瞬だけ黙り、それからそっと私の手を包み込んだ。
指と指が、重なる。
しっかりとした体温を感じた。
「安心しろ」
静かで、揺れない声。
「お前から離れない」
言葉は短い。
私はゆっくりと目を開ける。
焦点の合わない視界の中で、彼の輪郭だけがやけに鮮明だった。
「……でも」
掠れた声が、勝手に溢れる。
「セシル様は……」
喉が痛む。
言ってはいけないことだと分かっているのに。
「セレフィーナ様と……」
ルミナたちから聞いた噂。
「婚約が、早まるって……」
視界が滲むのは、きっと熱のせい。
「昨日も……会っていらしたのでしょう」
責めているわけではない。
私には責める資格はないのだから。
それでも――
「私は……」
言葉が詰まった。
胸の奥が、ひどく重い。
「……何なのか、分からなくなります」
侍女?気まぐれの相手?
それとも……。
握られた手に、無意識に力が入る。
弱くて、情けない。
「セシル様には、婚約者がいるのに……」
小さく、震える吐息。
「どうして、あんなふうに……」
強引なのにいつも優しく微笑んでいる貴方は、どうしていつも期待させてくるの?
最後までは、言えなかった。
言えば壊れてしまう気がして。
セシル様は、すぐには答えなかった。
やがて、低い声が落ちる。
「……本当のことは」
私は、無意識に息を止める。
「お前が元気なときに話したかった」
胸が、ひとつ打った。
「こんな状態で言えば、弱っているところに付け込んだみたいだろう」
少しだけ、苦笑の気配。
その声音が、胸の奥を柔らかく撫でる。
付け込む。
そんな人ではないと、知っている。
「だが」
彼の指が、そっと私の頬に触れた。
熱を確かめるように。
「誤解されたままは、嫌だな」
視界が近づく。
そっと、額に触れる何か。
一瞬。けれどたしかに、唇の感触。
胸が、ひどく静かになる。
「俺のことを信じろ」
低い声が真っ直ぐ落ちた。
「ずっと惚れているのは、お前だけだ」
ただその声に、頭が真っ白になった。
握られた手に、力が込められる。
「ネメシア。俺が求めてるのは、お前だ」
視界が滲む。
期待など、持ってはいけない。
けれど――。
「……ずるい」
こんな言葉、普段は絶対に言わない。
「そんなふうに言われたら……」
信じたくなる。
信じたくなってしまう。
握られた手を、私は離せなかった。
……離したくなかった。
胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
それでも、完全には委ねられない自分がいた。
だけど。
「……信じても、いいのですか?」
弱くて情けない問い。
縋るような問いを、私は本来しない。
しばらく沈黙が落ちる。
けれどこの空気は、重くなかった。
握られた手の温度が、離れないから。
ゆっくりと、セシル様が息を吐く気配を感じた。
顔を上げると――
彼は、ほんの少しだけ微笑んでいた。
どこか、穏やかで柔らかい表情で。
そんな顔をする人だと、私はまだ知らなかった。
「信じろ」
声は引くのに、柔らかい。
「俺は、お前を裏切らない」
静かな断言。
胸の奥が、じわりと温かくなる。
彼の指が、私の髪に触れる。
額にかかる髪を、そっと払う。
その仕草が、やけに優しい。
「今は余計なことを考えるな」
少しだけ、からかうように。
「熱のときに考えたことは、大抵ろくでもねえ」
……ひどいわね。
けれど、否定はできない。
唇がわずかに緩む。
「寝ろ」
短い命令。
けれど、手は離れない。
「俺はここにいる」
それだけで、胸の奥の不安がゆっくりと溶けていく。
瞼が重い。
私は、握られた手をわずかに握り返した。
離れないことを、確かめるように。
「……少しだけ」
掠れた声。
「そばにいてください」
自分で言って、また頬が熱くなる。
けれど彼は笑わなかった。
「最初からそのつもりだ」
低く、静かな声。
安心が、身体を包む。
意識が、ゆっくり沈んだ。
最後に感じたのは、手の温度と穏やかな視線だった。




