77.安心と不穏。
午後の応接室。
すでにいくつかの菓子が並んだ卓へ、さらに一人の使用人が静かに歩み寄った。
銀盆の上には、追加の菓子箱。
「追加でございます」
低く、落ち着いた声。
私は顔を上げる。
無駄のない所作。
背筋の伸びた立ち姿。
そして――聞き覚えのある声。
ゆっくりと視線を上げ、目が合う。
一瞬。
ほんの一瞬だけ、時間が止まった。
「……お久しぶりでございます。ネメシア様」
抑えた声。
けれど、その響きは変わらない。
「……久しぶりね」
そう答えてから、私は静かに言葉を添える。
「でも私は、もう平民よ。……クロード」
あの家の執事長だった人。
彼はわずかに目を伏せ、それから整った礼を取った。
「承知しております」
彼は顔を上げる。
揺らぎのない視線。
「今はヴァルディオ侯爵家の執事でございます。
ですが――かつての主に報いることは、禁じられてはおりません」
胸の奥に、懐かしい温度が灯る。
沈黙の後、私は問いかけた。
「二重帳簿、税の不正。
王家があれほど正確に把握していたのは……貴方ね」
内部にいた者でなければ、あそこまで辿り着けない。
私の問いに、クロードは否定しない。
「受けた借りを、返したまでにございます」
それだけ。
ただ、当然のことをしたという顔だった。
その時。
「ねえ、お姉様」
隣で菓子を覗き込んでいたルミナが、ふと顔を上げる。
「クロードさんだけじゃないのよ」
無邪気な声。
「前の屋敷にいた人たち、みんな……ちゃんと別の場所で働いてるの」
私は、視線を向ける。
「ヴァルディオ侯爵家にも、何人か来てるの」
一拍。
「これも、お姉様が考えてくれたんでしょう?」
ルミナの瞳は、真っ直ぐだった。
ただ、確かめるような眼差し。
私は一瞬だけ視線を逸らし、紅茶の取っ手に指をかける。
「……どう捉えてもいいわ」
湯気が、ゆらりと立ちのぼる。
「偶然かもしれないし、ただその人達の運が良かっただけかもしれない……」
カップを唇に運ぶ。
ほんのわずかに、頬が熱い。
「貴女がそう思いたいなら、それでも構わないわ」
照れ隠しのように、紅茶を一口。
静かにカップを戻す。
ルミナは数秒、じっと私を見つめ――
ふっと、柔らかく笑った。
「うん。じゃあ、そう思っておく」
クロードの気配が、ほんのわずかに和らぐ。
部屋の空気は穏やかで、甘い菓子の香りが満ちている。
ただ――守りたかっただけ。
その本音は、胸の奥にしまったまま。
私は何も言わず、もう一度紅茶に口をつけた。
穏やかな空気の中、ルミナは早くも菓子箱を覗き込んでいる。
興味深そうに眺めるその横顔を見て、私はふと思う。
「……そういえば」
何気ない口調で切り出した。
「貴女、いつの間にユリウス殿下とあんなに仲良くなったのかしら?」
ぴたり、とルミナの手が止まった。
「えっ」
「あれほど砕けて話しているの、初めて見たもの」
紅茶を一口含む。
「前より、いい雰囲気みたいだし……」
ルミナの頬が、じわりと赤くなる。
「そ、そんなこと……」
「あるわ」
きっぱりと告げた。
クロードが、気配を消すように一歩下がるのが視界の端に映る。
ルミナは視線を泳がせ、指先で菓子の包み紙をいじる。
「……その、いろいろあって」
「いろいろ、ね」
「お姉様!」
講義の声。
けれど、その瞳はどこか柔らかい。
クロエ様はルミナの様子を見て、微笑ましい表情をしていた。
「ちゃんと……話したの。私も、ユリウスも」
小さな声。
「だから、その……前よりは」
言葉を探すように俯く。
「……少しだけ、素直になれただけよ」
耳まで赤い。
私はそれを眺め、ふっと息をつく。
「そう」
それ以上は追求しない。
ただ、静かに言った。
「なら、安心ね」
ルミナは一瞬きょとんとし、それからふわりと笑った。
「……うん」
その返事は、さきほどまでよりもずっと真っ直ぐだった。
ひととき、穏やかな沈黙が落ちる。
ルミナは包みを開き、小さく一口かじる。
「おいしい……」
その声は、どこか安堵を含んでいる。
そして。
「お姉様こそ、セシル殿下から変なことされてない?」
その言葉に、わずかに詰まる。
「……変なこと?」
聞き返しながら、嫌なほど鮮明に思い出す。
廊下で呼び止められ、手首を軽く取られたこと。
逃げ道を塞ぐように壁際へ追い込まれ、笑われたこと。
そして――朝の馬車のできごと。
近い。
とにかく、近い。
指先が触れる。
吐息がかかる。
低い声が、鼓膜のすぐそばで震える。
私は無意識に背筋を伸ばした。
「前に言ってたでしょう?お姉様のことを、"好きな女"だって」
胸の奥がどくりと鳴る。
かちゃり、と小さな音。
ルミナがはっとする。
「お姉様?」
「……なんでもないわ」
すぐに持ち直した。
深呼吸をひとつ。
「変なことはないわ」
少しだけ視線を逸らす。
「ただ、距離が近いだけよ」
そう言って、ようやく紅茶を口に運ぶ。
熱が喉を通る。
ルミナはじっと、私を見ていた。
「お姉様、動揺してる」
即座に否定する。
「してないわ」
言い切った瞬間、ルミナはじっと私を見つめたまま動かない。
数秒。
それから、ゆっくりと口角が上がる。
「……本当に?」
「本当に」
「殿下に壁際に追い込まれても?」
一瞬、呼吸が止まる。
「……」
「耳元で話しかけられても?」
「ルミナ」
今度ははっきりと低く呼んだ。
ぴたり、と空気が張る。
けれど次の瞬間――
「あはは」
ルミナが堪えきれないように笑い出した。
肩を小さく震わせながら、目元を拭う。
「ごめんなさい、お姉様」
くすくすと笑いが止まらない。
「その顔、珍しくて」
「……どんな顔をしているの、私は」
「ちょっと困ってて、ちょっとむきになってて」
にこりと笑う。
「いつもより余裕がないの」
言葉が詰まる。
ルミナはさらに柔らかく続ける。
「お姉様の心を乱す相手なんて、そうそういないから」
その声には、からかいと同じくらい、どこか嬉しさが混じっていた。
「だから、つい」
いたずらが成功した子どものような顔。
私は小さく息を吐いた。
「……ルミナ、本当に生意気になったわね」
「お姉様に似たの」
さらりと返される。
思わず視線を逸らした。
頬の熱はまだ引かない。
「珍しいだけよ」
静かに告げた。
乱れているわけでわない。ただ、想定外なだけ。
ルミナはまだくすくす笑っていたが、やがてふっと表情を落ち着けた。
「でもね、お姉様」
ルミナの声が少し落ち着いた。
「殿下が本気なのは、分かるの」
私は視線を上げた。
「軽いふりしてるけど、本気の人の目をしてる」
胸の奥が、わずかにざわつく。
「……それで?」
「それならどうして、婚約をそのままにしてるのかなって」
それは、静かな疑問だった。
「王族の婚約は簡単に動かせるものではないわ」
淡々と返す。
「うん。分かってる」
ルミナは頷く。
そして、少しだけ視線を逸らした。
「今日も、セレフィーナ様と会うんでしょう?」
その言葉に私は一瞬、瞬きを忘れた。
「……誰から聞いたの?」
先に出たのは、その問いだった。
ルミナは小さく息を吐く。
「ユリウスよ」
静かに。
「今日、庭園での約束を聞いたって」
具体的すぎる。
私は視線を落とした。
知らなかった。
少なくとも、私には伝えられていない。
ルミナは、その沈黙を見逃さなかった。
「……やっぱり、知らなかったんだ」
それは、確認の声だった。
私はゆっくりとカップを持ち上げる。
「セシル様の予定は、私に逐一伝えられるものではないわ」
平坦に。
「婚約者と会うのは当然のこと」
何もおかしくない。
そう言い切ったあと、わずかな沈黙が落ちた。
その静けさの中で、クロエ様が小さく指先を重ねた。
言うべきか迷っている仕草。
「……あの」
遠慮がちな声。
私は視線だけを向けた。
「どうしたの、クロエ」
「その……学校でも、少し噂になっておりまして」
言いながら、視線がわずかに揺れている。
「どんな噂かしら」
できるだけ穏やかに促す。
クロエ様は一瞬、ルミナを見て、それから私に戻した。
「セシル殿下とセレフィーナ様のご婚約が……早まるのではないか、と」
部屋の空気が、ほんの少し重くなる。
「正式な発表が近いのでは、と……。最近、両家の従来が増えているそうで」
最後の方は、少し小さくなっていた。
傷つけたくない。でも隠したくない。
そんな声音。
私はゆっくりと息を整えた。
「……そう」
それだけを告げた。
「それが事実なら、喜ばしいことね」
私は視線を紅茶に落とした。
何もおかしくないじゃない。
婚約者と会い、婚約が早まる。
――当然のはずなのに。
指先だけが、ほんの少し冷たく感じた。




