76.大切な物だから。
紅茶の湯気が、ゆっくりと揺れている。
他愛のない話題が一巡したあと、私は何気ない様子で口を開いた。
「……学園は、どう?」
問いかけた瞬間、クロエ様の指先がわずかに止まる。
ルミナは、少しだけ首を傾げた。
「どう、って?」
「変わりはないかと聞いているの」
できるだけ平坦に。
ルミナはふっ、と笑った。
「うん。特に何もないよ」
それはあまりにもあっさりとした返答だった。
クロエ様が控えめに補足する。
「皆様……その……以前より、ルミナに声をかけることが増えました」
「増えた?」
「うん」
ルミナが肩をすくめる。
「みんな、優しいの」
その言い方に、わずかな皮肉が混じる。
「心配してくれてるみたい」
カップの縁をなぞる指先は、どこか落ち着かない。
「"かわいそうな妹"、って思われてるのかもね」
軽い口調。
けれど、部屋の空気がほんの少しだけ冷える。
「……そう。それだけならいいわ」
ああいう女が、いないのなら。
それだけで十分だ。
「……やっぱり、そこまでお姉様は考えてたのね」
ルミナは、こちらを真っ直ぐ見た。
「何度もお姉様を擁護する言葉を言っても、みんな"姉を庇うなんて、優しい人"だの"広い心を持っている"……って言われるわ」
私はその言葉を聞きながら、ゆっくりと紅茶を口に運ぶ。
温度はちょうどいい。
「だからね」
ルミナの声は静かだった。
「これも、お姉様の用意した場所なんだなって……思ったの」
策略、とまでは言わない。
けれど、私が悪役になることで守られる未来がある。
私はカップを置いた。
小さな音が、やけに大きく響く。
「そんな大層なことを考えてるわけじゃないわ」
私は淡々と告げる。
「私が勝手に選んだだけよ」
ルミナは、少しだけ唇を尖らせた。
「……ふぅん」
明らかに納得していない声。
「でもさ」
カップを両手で包んだまま、ちらりとこちらを見る。
「少しくらい、頼ってくれてもよかったのに」
軽い口調だった。
けれど視線は真っ直ぐ向いている。
「断罪されたときだって」
さらっと言う。
「ユリウスは知ってたんでしょ?」
私は一瞬だけ視線を止めた。
「でも私は、何も知らなかった」
ルミナは、頬を少し膨らませる。
怒っているというより、拗ねている。
「お姉様が悪者になることも、全部ひとりで背負うつもりだったことも」
言いながら、カップの縁を指でなぞる。
「知っていたのに、何もさせてもらえなくて」
ちら、と上目遣い。
「ちょっと寂しかった」
その言い方は、責めていないことが分かる。
ただ、事実をぽつりと置いただけ。
私は、ほんのわずかに視線を伏せた。
「……巻き込みたくなかったの」
静かに答える。
「貴女は、何も知らなくていいと思った。
……いいえ、違うわね」
自分で言って、首を振る。
「姉だから守りたい。――それだけよ」
視線を落とす。
「これは私のわがまま。貴女のため、なんて綺麗な理由じゃないわ。私が、そうしたかっただけ」
ルミナが小さく瞬きをする。
「貴女まで悪く言われるのが嫌だった。疑われるのも、巻き込まれるのも、全部。
だから、勝手に全部背負ったの。最低な姉ね」
ルミナは、少しだけ悲しそうな表情をする。
「……それなら」
その声は、どこか柔らかい。
「お姉様が勝手に背負うなら……私は勝手に、お姉様の味方でいるだけよ」
その一言で、胸の奥に張りつめていたものが、わずかにほどけた。
「……知っているわ」
小さく答える。
「だから安心していたの」
ルミナが瞬きをする。
「え?」
「貴女は、私を嫌わないと。そう思っていたの」
勝手な確信だった。
冷たくしても、距離を置いても。
きっと理解してくれると、どこかで甘えていた。
「とても不思議に思っていたわ」
どれだけ距離を置いても、彼女は私を信用していた。
いくら姉とはいえ……。
すると、ルミナはじっとっこちらを見つめた。
それから、ふいに首を傾げる。
「……答えはそれよ」
ルミナは、私の耳元を指さす。
クロエ様もつられて視線を上げ、はっと小さく息を呑んだ。
そこに揺れているのは、華奢な金色のピアス。
小さな赤い石が、光を受けて淡くきらめく。
「外したことないよね」
静かな指摘。
昔――ルミナの誕生日。
得意げな笑みで差し出された、小さな箱。
『ネメシアの瞳の色。前から、きれいだなって思ってたの』
そう言って渡された、贈り物。
私は、無意識に耳元へ触れる。
「……気まぐれよ」
とっさにそう言った。
ルミナが余裕な笑みを浮かべる。
「嘘」
即答。
「ずっと着けてるの、知ってるんだから」
その声音は、ほんの少し弾んでいた。
「私のことをどれだけ冷たくしても、それだけは外してなかった」
ルミナは、懐かしむように視線を伏せた。
「それ見てたらね」
小さく笑う。
「嫌われてないって、分かった」
胸の奥が、ひどく静かになる。
私は、言い訳を探すも……見つからない。
このピアスは外せなかった。
似合うからでも、習慣だからでもない。
ただ――外す理由がなかった。
「……それとこれとは別よ」
それは弱い否定だった。
ルミナは楽しそうに目を細める。
「ふふ。じゃあ、私もわがまま言うね」
「なに?」
「お姉様が守るって言うなら、私は信じる」
真っ直ぐな視線。
「だって、お姉様を信じるのが妹でしょ?」
その言葉に、空気が柔らかくほどけた。
私は小さく息を吐いた。
――守るつもりだった。
けれど、守られていたのは私のほうかもしれないわ。
「……あの」
クロエ様の声が挟まる。
「わ、私は……その……」
言葉を探すように視線が泳いでいる。
「お二人が……仲違い、なさっていなくて……よかった、です」
それは消え入りそうな声だった。
けれど、そこには本心しかない。
ルミナがくすっと笑う。
「心配してくれていたの?」
「う、うん……少し、だけ……」
私は、ほんのわずかに口元を緩めた。
「……クロエ様にも、たくさんご迷惑をかけましたね」
静かにそう言うと、クロエ様ははっと顔を上げた。
「め、迷惑なんて……!」
彼女は、慌てて首を振る。
その仕草があまりにも必死で、思わずルミナが小さく笑った。
私はゆっくりと言葉を続ける。
「ルミナが陰で何を言われているか、誰が何をしているか……貴女は全部私に、知らせてくれていたでしょう?」
クロエ様の肩がぴくりと揺れる。
「ルミナを助けてくださっていたことも、知っています」
ルミナの前に立つ小さな背中を、私は見ていた。
「私が冷たい姉を演じている間に、貴女はルミナの隣に立ってくれていた」
静かに目を伏せる。
クロエ様はしばらく言葉を失って、それからぎゅっと胸元で手を握りしめた。
「……でも、私は……」
声が震えている。
「ルミナが泣きそうなのを見るのが嫌で……それだけで……」
「それだけで十分です」
私はやわらかく遮った。
その時、ルミナがくすっと笑った。
「クロエはね、すごいんだよ。お姉様が怖い顔をしていても、ちゃんと信じてたの」
「ちょ、ルミナ……!」
慌てるクロエ様を横目に、ルミナは私を見る。
「二人がいてくれて、私は幸せだわ」
そして、満面の笑みでそう告げた。
窓の外では、午後の陽射しがやわらかく庭を照らしていた。
侍女が静かに新しい紅茶を注ぎ、香りがふわりと広がった。
笑い声が、穏やかに重なる。
この時間は、確かに私の宝物だった。




