74.専属侍女として。
王宮侍女として働く日々は、正直、想像以上に忙しい。
朝は夜明け前から動き、セシル様の身支度を整え、執務の準備をし、書類と予定と人の波に追われていた。
気を抜けば、あっという間に一日が終わってしまうほどだ。
それなのに――
「……どうして、私は今、セシル様の膝の上に座っているのかしら」
静かな執務室。
書類の擦れる音と、羽ペンの掠れる音。
そのすぐ隣で、私は、当たり前のように抱え込まれていた。
強く抱きしめられているわけではない。
けれど、逃げ出せるほど、緩くもない。
「落ち着くからな」
そう言って、セシル様は何でもないことのように筆を走らせる。
……意味が分からない。
「セシル様、執務中です。侍女を膝に座らせる理由にはなりません」
そう抗議してみるものの、
腰に回された腕は、むしろ少しだけ力を増した。
「何のために、お前を俺の専属にしたと思ってる」
低く、当たり前のような声。
「……私の生活の為、では?」
以前、言われた言葉で返すと、鼻で笑われた。
「半分はな」
そして、もう半分は、と言外に告げるように。
「俺の視界の中に置いておくためだ」
きっぱりと言い切られて、言葉を失う。
「お前、すぐ無茶するだろ。勝手に背負い込むし、勝手に突っ込む」
膝の上に座らされたまま、軽く額を小突かれた。
「だから、こうして捕まえておく」
「……捕まえる、って」
「もう、お前をあんな目に合わせたくない」
私の望みだったはずなのに。
それでも――彼の声は、少しだけ掠れていた。
「だから――
お前は俺のそばにいろ」
背中に触れる体温が、じわりと沁みる。
私はその膝の上で、そっと息を整えた。
――王宮侍女として働く日々は、確かに忙しい。
けれど。
想像以上に、とんでもない男の専属になってしまったらしい。
羽ペンの走る音と、紙をめくる乾いた音。
その規則正しさに、少しずつ心臓の鼓動も落ち着いてきた。
そのとき。
――コンコン。
扉を叩く音。
「失礼いたします」
静かな声とともに、執務室の扉が開いた。
入ってきたのは、年配の男性使用人と、若い侍女が一人。
書類の追加と、お茶の準備だろう。
そして、その視線が。
――私と、セシル様を見た。
「……っ!」
一瞬、思考が停止した。
膝の上。
抱え込まれた姿勢。
距離、ゼロ。
その距離が、あまりに近いことを。
今さら思い出した。
「……っ、セシル様……!」
慌てて身を起こそうとするが、腰に回された腕が、わずかに力を込められた。
「そのままでいい」
低く、平然とした声。
「よ、よくありません……!」
頬に、かっと熱が集まる。
使用人たちが一瞬だけ動きを止め、すぐに視線を伏せたのが分かった。
「……失礼いたしました」
使用人たちは、何事もなかったかのように、完璧な所作で頭を下げる。
けれど、その声は、ほんのわずかに揺れていた。
これ以上見られたくなくて、私はセシル様の胸元に顔を押し付けた。
「……見られました……」
小さく、情けない声だった。
「当たり前だ」
彼はむしろ、少し楽しそうな声だった。
胸元に顔を埋めたまま、私は小さく息を吸った。
「……噂になりませんか」
声が、わずかに震える。
「さっきの……あの様子……」
使用人たちの、ほんの一瞬の動揺。
あれが、頭から離れなかった。
「ならない」
セシル様は、まるで気にする素振りもなく、即答だった。
「王宮の使用人は、見たことを口外しない。
――正確には、できない」
羽ペンを置き、顎に指をかけて視線を上げさせる。
「ここは王宮だ。余計な噂を流した人間が、どうなるかくらい……分かるだろ」
「……」
「即刻、解雇。
悪質なら、二度と表の職には就けない」
静かな声。
けれど、その裏にある権力の重さが、はっきりと伝わる。
「だから、心配するな」
そう言って、私を引き寄せる腕に、少しだけ力が籠もる。
「ここには、噂で人を判断する者はいない」
――それは、慰めの言葉なのだろうか。
胸が、きゅっと締めつけられた。
「噂になるのは、俺が許した時だけだ」
「……それは、それで困ります……」
思わず零すと、セシル様は楽しそうに口角を上げた。
「お前は、俺のだ」
揺るぎも、迷いもない断言だった。
「誰にどう見られようと、俺は構わない」
その言葉に、胸の奥が、ひくりと跳ねた。
「……っ」
否定すべきだと、頭では分かっていた。
けれど。
その独占と執着が、どうしようもなく心を掴んで離さない。
「……もう……」
小さく零すと、セシル様はくっと喉を鳴らした。
「照れている顔も悪くないな」
「見ないでください……!」
そう言いながらも、逃げられない。
――その日の執務が一段落した頃。
セシル様は、書類の束の中から、一通の封書を取り出した。
「……これ」
何気ない仕草で、差し出される。
淡い色の封蝋。上品で柔らかな筆跡。
ひと目で分かる。
「……ルミナから……?」
私がそう呟くと、セシル様は小さく頷く。
「今朝、届いていた」
そっと、封を切る。
そこには変わらない丁寧で優しい文字。
『近いうちに、ぜひお茶をご一緒できたら嬉しいです。
お時間が許すようでしたら、侯爵家で』
短いけれど、変わらずあたたかい言葉。
胸の奥がふっと緩む。
「……久しぶりね」
思わず、そう零していた。
忙しさに追われ、気づけばゆっくり話す時間すら取れていなかった。
「行くんだろ」
隣から、静かな声。
「……ええ」
即答だった。
セシル様は、わずかに目を細める。
「……その日なら都合がつく。俺が送る」
その言葉に、胸が小さく跳ねた。
「ですが……お忙しいのでは?」
問いかけると、セシル様は一瞬、視線を逸らした。
「……外せない用事がある」
低く、短い返答。
それだけで、軽い予定ではないと分かる。
「侯爵邸までは送る。
だが……中までは同行できない」
わずかな沈黙のあと、付け足すように告げられた。
「……分かりました」
少しだけ残念に思った自分に驚く。
けれど同時に、彼がそうしてまで時間を作ろうとしてくれたことが、素直に嬉しかった。
「ちゃんと帰って来い」
何気ないようで、命令のようで。
けれど、その声はどこか柔らかかった。
「はい」
小さく呟くと、セシル様は満足したように目を細めた。
「楽しんでこい」
あまりにもあっさりしていて、思わず瞬きをする。
「……なんだ、その顔は」
彼は怪訝そうに目を細めた。
「いえ……セシル様がそんなこと言うなんて、思わなかったので」
セシル様は一瞬だけ眉を上げ、すぐに小さく息を吐いた。
「俺を何だと思っている」
「……独占欲の強い方かと」
思い切って言えば、くっと喉を鳴らす。
「否定はしない」
あっさりと認められて、言葉に詰まる。
「だが」
ほんのわずかに、声が和らぐ。
「お前が笑っているなら、それでいい」
一瞬、言葉を失う。
「……」
「お前が行くと決めた場所に、俺が口を出す理由はない」
その横顔は、静かで揺るぎがなかった。
「……ありがとうございます」
小さく頭を下げる。
「ああ」
それだけ。
セシル様は再び書類へと視線を落とした。
羽ペンの音が静かな執務室に戻る。
けれど先ほどまでとは違う。
そこにあるのは、捕まえられている感覚ではなく――
見送られている、という安心だった。




