56.5 この感情に名前を。
ユリウス視点
彼女の手を取った瞬間、空気の温度が変わった。
ネメシアの指は、驚くほど冷たい。
緊張のせいか、それとも元々そういう体質なのか。
その冷たさが、なぜか妙に意識に引っかかった。
――細い。
そう思ったことに、自分で少し驚く。
これまで、誰かの手の感触をここまで意識したことはなかった。
音楽が流れ出し、自然とステップが始まる。
彼女の動きは正確で、無駄がない。
けれど完璧ではなく、ほんのわずかな硬さがある。
それが、彼女の理性と緊張をそのまま映しているようで――
目が離せなくなった。
視線を逸らそうとしても、気づけばまた追っていた。
ドレスの揺れ。
呼吸のリズム。
伏せられたまつ毛。
どれも、今まで意識したことなどなかったはずなのに。
……おかしい。
自分の中で、何かが確実に変わっていた。
これが、恋なのか?
その問いが、ふと浮かぶ。
だが、すぐに打ち消した。
感情を即座に恋だと定義するほど、単純ではいたくない。
ただ――
彼女と踊っている、この時間が、驚くほど"自然"なのだ。
緊張はある。
周囲の視線も痛いほど感じる。
それでも、心の奥が静かだ。
守るべき王子としての立場も、政治的な打算も、一瞬、遠くに退いていた。
ここにあるのは、ただ一人の相手と向き合う感覚。
それが、どうしようもなく心地よかった。
――これが、知りたかったこと。
舞踏会で踊りたいと思った理由。
確かめたかった、"何か"の正体。
それは、彼女の隣に立ったとき、自分がどうなるのか、だった。
そして今。
答えは、完全ではない。
だが、確実に言えることがある。
彼女の存在は、
自分の感情を静かに揺らしていた。
視線の先で、セシルの姿を捉えた。
壁際に立ちこちらを見ていた。
表情は読めない。
けれど、その視線には、はっきりとした探る色があった。
――やはり、か。
彼がネメシアに興味を持っていることは、以前から感じていた。
だが、こうして向けられる視線を受けて、胸の奥がわずかにざわつく。
不快とも、怒りとも、焦りとも違う。
もっと、言葉にしにくい感情。
――独占欲?
その単語が浮かび、即座に否定する。
そんな感情を持つ資格は、自分にはないはずだ、
ルミナという婚約者が、僕にはいる。
彼女を傷つける選択は、最初から存在しない。
それでも。
ネメシアが、他の誰かのものになる未来を想像したとき、
胸の奥が、微かに締め付けられた。
……厄介だな。
自嘲に近い苦笑いが、内側に浮かぶ。
王子として、感情は常に制御すべきもの。
恋など、優先順位の最後に置くもの。
それなのに――
自分は今、感情の正体を知りたいと願っている。
音楽が終わる。
最後のステップ。
自然な流れで、彼女が一礼した。
拍手が起こり、周囲のざわめきが戻ってくる。
けれど、耳に入る音は、どこか遠かった。
「……お疲れさま」
自分でも驚くほど、声が静かだった。
彼女の手を離しながら、確かめるように、その表情を見つめた。
満足よりも、何かを探すような気持ちが、そこにはあった。
「ありがとう、ネメシア」
彼女は、いつもと変わらない社交用の微笑みで、軽く頷いた。
その仕草が、ひどく遠く感じた。
――この距離。
さきほどまで、確かに隣にいたはずなのに。
こうして手を離した瞬間、彼女はまた、容易に触れられない場所へと戻ってしまう。
ほんの一瞬のためらい。
それから、声を落とした。
「これからも」
一拍。
それは言葉を選ぶ時間。
踏み込みすぎないための、理性。
「また、どこかで一緒に踊れたら嬉しい」
今夜の続きではない。
先の時間へ向けた、静かな誘いだ。
それが、彼女にはすぐに伝わったのだろう。
一瞬、表情が揺れたのが分かった。
――やはり、彼女は鋭い。
「……そうですわね」
わずかに和らいだ視線。
けれど、そこにあるのは受容であって、約束ではない。
「機会がございましたら」
受け取るが、踏み込ませない。
線を引きながらも、拒絶しない。
それが分かるからこそ、胸の奥に、小さな痛みが走った。
――欲が、出ている。
そう、はっきりと自覚する。
彼女の隣に、もう一度立ちたい。
それも、社交や立場を超えた場所で。
だが、今の自分に許されるのは、ここまでだ。
「うん。楽しみにしてる」
それ以上、踏み込まない。
追わない。
それが、僕にできる最低限の誠実さだ。
ネメシアは、静かに一礼し、距離を取る。
その背中を見送りながら、私は胸の奥で、小さく息を吐いた。
――好き、なのか。
それは、まだ分からない。
けれど。
彼女の存在が、自分の心を確かに揺らしていることだけは、否定できなかった。
感情に名をつけるには、まだ早い。
だが、見ないふりをするには、もう遅い。
舞踏会の喧騒の中で僕は、静かにその疑問を抱き続けていた。
それが、これからの自分を、大きく変えていくとも知らずに。
明日は二話投稿します!
11時頃に一話、17時頃に一話の予定です。




