71.ルミナの本当の。
あの人が処刑されてから、いくつかの日が過ぎていた。
私は公爵家の裏の仕事に深く関わっていた。
何かしらの罰を受ける覚悟は、とうにできている。
それなのに――
いまだに、私の処遇は決まっていない。
いえ……そんなことよりも。
私には、どうしても気がかりなことが、一つだけあった。
湿った空気の中に、規則正しい足音が響いた。
「ネメシア」
鉄格子の外に立っていたのは、ユリウス殿下だった。
松明の揺れる光が、その穏やかな横顔を淡く照らす。
「面会の準備が整ったんだ。……王城へ移送する」
一瞬、胸が小さく跳ねる。
「王城、ですか」
「そう。君に会いたいと願う者がいる」
短い沈黙の後、ユリウス殿下は、柔らかく微笑んだ。
「君が、ずっと気に掛けていた人たちだ」
その一言で、理解した。
――来たのね。
私は、静かに頷いた。
―――――――――
案内されたのは、謁見の間にほど近い、小さな応接室だった。
扉がゆっくりと開いた。
そこにいた三人の姿を認めた瞬間、胸の奥が、きつく締め付けられた。
「――お姉様!」
最初に駆け寄ってきたのは、ルミナだった。
飛び込むように、細い身体が胸元にぶつかる。
勢いのまま、ぎゅっと抱きつかれ、息が一瞬詰まった。
「……ルミナ、服が汚れてしまうわ」
牢から出て間もない身なりだ。
埃と冷気を含んだ外套は、とても清潔とは言えない。
けれど、ルミナは首を振り、さらに強く腕に力を込めた。
「そんなの、どうでもいい……!」
震えた声だった。
「お姉様が……無事なら、それでいい……」
小さく嗚咽を漏らしながら、離れようとしない。
その温もりに、胸の奥が、じんと熱を帯びた。
「……そう」
そっと、背中に手を回す。
その向こうに、二つの影が見えた。
静かに佇む、サビーナ様と……ヴァルディオ侯爵。
彼と視線が合う。
私は、ゆっくりと顔を上げ、わずかに口元を緩めた。
「……上手く、いったようですね」
その言葉に、ヴァルディオ侯爵は、深く頷いた。
「――ああ。すべて、君のおかげだ」
真っ直ぐな眼差し。
「本当に……ありがとう」
その一言には、長い歳月と、抑えきれない感謝が、静かに滲んでいた。
応接室にあるソファに、私たちは腰を下ろした。
私の隣には、ルミナがいる。
今までのこともあって、離れたくないらしい。
ぴったりと腕に絡みつくように、身を寄せてくる。
目の前には、ヴァルディオ侯爵とサビーナ様が座っている。
室内に満ちる静けさの中、二人は私たちの様子を、どこか微笑ましそうに見つめていた。
ヴァルディオ侯爵は一度、深く息を整え、静かに頭を下げた。
「……来るのが、遅くなってしまった」
それは低く、誠実な声。
「諸々の手続きに、どうしても時間がかかってな。もっと早く、君の元へ来るべきだった」
その言葉に、私は小さく首を振る。
「構いませんわ」
顔を上げたヴァルディオ侯爵の瞳に、僅かな安堵が浮かぶ。
私は改めて、三人の姿を見渡した。
寄り添うように座る、サビーナ様とヴァルディオ侯爵。
そして、私の隣には、ルミナ。
――ああ。
「……ここに、揃っているということは」
静かに、言葉を選んだ。
「ああ」
ヴァルディオ侯爵は、迷いなく頷いた。
そして、ほんのわずかに口元を緩める。
「私たちは――家族になれた」
その一言が、ゆっくりと、胸に染み渡っていく。
――家族。
そうなるまでに、どれほどの時間と、どれほどの痛みがあったのかを、私は知っていた。
以前、ヴァルディオ公爵に聞いた話だ。
サビーナ様とヴァルディオ侯爵は、偶然のように出会い――恋に落ちた。
しかし、彼女は平民で、踊り子。
一方で、彼は侯爵。
身分の差は、あまりにも大きい。
互いに想い合いながらも、簡単に越えられる壁ではなかった。
それでも、侯爵は決意した。
地位を捨ててでも、彼女と共に生きると。
その覚悟を胸に、すべてを整理するため、しばらく距離を置こうと決めた――その矢先。
サビーナ様は、忽然と姿を消した。
何の痕跡も残さず。
何の知らせもなく。
それから侯爵は、長い年月、彼女を探し続けた。
そして、私と出会った。
私は彼からルミナの面影を感じ、この話を聞いた。
だから私は、デビュタントの日。
彼を、密かに招いた。
誰にも悟られぬように。
ただ、真実を、その目で見せるために。
煌めく舞踏会の片隅で、侯爵は、
長い年月探し続けた女性と、その間に生まれた娘と――
初めて、同じ空間に立った。
あの瞬間の、彼の表情を、私は忘れない。
――そうして今。
ようやく、この三人は、同じ場所にいる。
サビーナ様は、そっと息を吸い、膝の上で手を重ねた。
「……お話し、いたします」
その声は穏やかで、けれど、微かに震えていた。
「セドリック様と……しばらく、お会いしないでいた頃のことです」
視線を伏せ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ある日、突然……ヴォルクハルト様の手の者に、攫われました」
空気が、凍りつく。
「理由も告げられぬまま、連れて行かれた先は……郊外の、別荘でした。
逃げることも、助けを呼ぶことも許されず……ただ、生きることだけを強いられる日々。
そこで……ルミナを、身ごもりました」
ルミナが、ぴくりと肩を震わせる。
「しばらくしてから……私は、公爵家へと迎え入れられました。その後のことは、貴女も知っている通りです」
沈黙が訪れる。
その静けさが、何よりも雄弁だった。
ヴァルディオ侯爵は、俯いたまま、拳を固く握りしめている。
「……すまない」
絞り出すような声。
「私が、もっと早く……」
「いいえ」
サビーナ様は、首を振った。
「貴方を、責めたことは、一度もありません。
ただ……もう一度、会いたかっただけです」
その言葉の余韻が、静かに部屋に満ちる。
けれど私は、そこで一つ、息を整えた。
「……失礼を承知で、お聞きしますわ」
視線を、ヴァルディオ侯爵へと向ける。
「血縁判定は――正式に、なさいましたか?」
一瞬、空気が張り詰めた。
感情だけで結ばれた再会ではない。
貴族社会において、それを"事実"として成立させるには、証明が必要だ。
ヴァルディオ侯爵は、ゆっくりと頷いた。
「ああ。王城神殿にて、王家立ち会いのもと、〈血糖鑑定の儀〉を」
低く、確かな声。
「結果は、揺るぎない」
そう言って、視線をルミナへと向ける。
「この子は――間違いなく、私の娘だ」
ルミナが、はっと息を呑む。
私の腕に力が入るのが分かった。
「……魔法陣が、完全に重なった、その瞬間……」
サビーナ様が、静かに語る。
「神殿の司祭様が、はっきりと告げてくださいました。
『ヴァルディオ侯爵家、直系の血脈』だと」
その言葉に胸の奥で、何かが静かにほどけていく。
――あの人の血でなくて、良かった。
身分も、血も、存在も。
すべてが正しく、証明された。
「……そう」
私は、静かに頷いた。
「それなら、何の問題もありませんわ」
ヴァルディオ侯爵は、わずかに目を細める。
「君には、本当に感謝している」
その声は、深く、誠実だった。
「君が動いてくれなければ、私は――一生、この二人に辿り着けなかった」
私は、小さく首を振った。
「私は、必要なことをしただけです」
ただ――
あの地獄を、終わらせるために。
あの男を、確実に、葬るために。
心の奥で、静かにそう呟いた。
サビーナ様は、しばらく俯いたまま、指先を強く絡めていた。
やがて、意を決したように、そっと顔を上げる。
「……ネメシア」
その声は、ひどく小さく、震えていた。
「今まで……私は、貴女のことを……何一つ、守って差し上げられませんでした」
膝の上で、指がきつく握りしめている。
「助けることも、庇うことも……何も……」
言葉が、そこで途切れる。
「……申し訳、ありません」
その謝罪に、私は静かに首を振った。
「いいえ」
はっきりと告げた。
「謝る必要は、ありません」
サビーナ様が、驚いたように目を見開く。
「貴女は、ただの"被害者"でした」
静かに、けれど確かな声で。
「私と同じように、あの人に人生を奪われた――」
サビーナ様の瞳が、揺れる。
「ですから……どうか、ご自身を責めないでください」
その言葉に、サビーナ様は、息を詰める。
そして、静かに、涙を零した。
「……ありがとう、ございます」
それは掠れた声。
私は、小さく頷いた。
すると、隣にいるルミナが、ぎゅ、と強く手を握ってきた。
「……お姉様」
その呼び方に、胸の奥が、ちくりと傷んだ。
「……もう」
私は、小さく息を吐く。
「私は、もう貴女のお姉様じゃないのよ」
静かな声。
事実を、淡々と告げたはずだった。
「血も、もう……繋がっていない」
その言葉に、ルミナの指が、ぴくりと震えた。
視線を逸らしながら、続ける。
「……だから――」
「嫌です」
被せるように、きっぱりとした声。
驚いて、顔を上げる。
そこには、真っ直ぐにこちらを見つめる、強い瞳。
「血が繋がっていなくても」
掌を優しく包まれる。
「一緒に過ごした時間が、消えるわけじゃない。
守ってくれたことも。抱きしめてくれたことも。夜、そばにいてくれたことも」
それは一つ、一つ、噛みしめるように告げていた。
「全部、無くならない……だから」
そして、きっぱりと。
「私にとって、ネメシアは――」
小さく、息を吸う。
「ずっと、お姉様だわ」
胸が、強く締め付けられた。
「……ルミナ」
「血なんて、関係ない」
彼女は、涙を滲ませながらそれでも、笑う。
「だって、私は……」
ぎゅっと、私の手を握りしめた。
「お姉様の妹でいるほうが、ずっと、幸せなんだから」
――ずるい。
そんなことを言われたら。
私は、小さく苦笑して、そっと彼女の額に、自分の額を寄せた。
「……困った子」
「今まで私を困らせてたから、仕返しよ」
彼女は小さく舌を出した。
思わず、笑みが零れた。
「……私の負けね」
「ええ。私の勝ち」
二人で、小さく笑う。
そこには、もう血の繋がりも、立場も関係ない。
ただ、確かにそこにある――
姉妹の絆だけが、残っていた。




