70.父と最後の。
朝の王都は、いつも通りの喧騒に包まれていた。
石畳を打つ靴音。
露天から漂う焼き菓子の甘い香り。
行き交う人々の笑い声。
変わらない日常。
その空気を切り裂いたのは、幼い叫びだった。
「号外! 号外だよ!」
王都中央通りを、新聞売りの少年が駆けてくる。
「ルーインハイト公爵家の大罪発覚!
ヴォルクハルト・ルーインハイト、王命により処刑――!」
一瞬、時が止まった。
ざわ、と、遅れてどよめきが広がる。
「……処刑?」
「本当なのか……?」
少年は、息を整える間もなく、紙束を掲げる。
「二重帳簿による国庫横領! 領内での不正課税、長年に渡る民からの搾取!
本日未明、すべての罪が認められ、即日執行!」
人々は、言葉を失った。
王国屈指の大貴族。
王家の重鎮。
その名が、ただの「罪人」として、街に投げ捨てられる。
――ヴォルクハルト・ルーインハイト、処刑。
―――――――――
湿った空気が、肺の奥まで染み込む。
鉄とカビの匂いが、鼻腔を刺す。
揺れる松明の光が、石壁に歪んだ影を刻んでいた。
「……ようやく来たか」
鉄格子の奥。
腕を組み、冷え切った視線を向ける男。
ヴォルクハルト・ルーインハイト。
――私の父。
「あら……随分と、惨めな姿ですわね」
私の言葉に、男の口元がわずかに吊り上がる。
「ほざけ」
低く、唸るような声。
「約束を破ったな。
私の悪事を告げない。そう、誓ったはずだ――裏切り者」
「ええ」
静かに、頷く。
「"公爵令嬢である限り"――そう、約束しましたわ」
その瞬間。
男の表情が、はっきりと歪んだ。
「……言葉遊びか、クズが」
男は鉄格子を、強く掴む。
「地位を失えば約束は無効? そんなこじつけが、通ると思っているのか!」
「通りますわ」
淡々と、言い切る。
「貴方が、そう教えたじゃないですか。
条件をつけ、契約を結び、不要になれば切り捨てる。私は貴方のやり方を、そのままなぞっただけよ」
「黙れ!」
鉄格子が、激しく鳴った。
「――ここまで、育ててきてやったのは誰だと思っている!」
吐き捨てるような怒声。
「公爵令嬢として、何不自由なく生きられるよう、整えてやったのは――
すべて、私だ。それを、裏切るだと? 恩を仇で返すとは……!」
怒りに歪んだ顔が、鉄格子越しに迫る。
その熱に、私は一歩も退かず、静かに見返した。
「何を、言っているのかしら」
淡々とした声で告げる。
「私の地位も、衣食住も、奪ったのは――貴方でしょう」
告げた瞬間、男の顔が、さらに醜く歪む。
「ああ……"お前の父ではない"、でしたか」
ふと、小さい頃に投げつけられた言葉を、なぞるように口にする。
「今まで私のことを、一度でも娘だと思ったことは?」
「……っ」
男は、言葉を失った。
「まあ、私も」
わずかに、唇の端を持ち上げる。
「貴方のことを、父親だと思ったこと……ありませんけれど」
みるみる男の顔が、歪む。
「……この、出来損ないがぁッ!!」
怒号と共に、鉄格子が激しく揺れた。
鎖の鳴る音。
枷を引きずり、掴みかかろうとするように、男が前へと出る。
「貴様が……貴様が、すべてを壊した!! お前さえ――お前さえいなければ!!」
唾を飛ばし、喉が裂けるほどに叫んでいる。
血走った眼で、私を睨みつけていた。
――哀れね。
そう思った瞬間、胸の内は驚くほど静まり返っていた。
これ以上、言葉を交わす意味はない。
私は、ゆっくりと踵を返す。
「……待て!」
背後で、怒声が弾ける。
鎖の擦れる音。鉄格子が、再び荒々しく揺れた。
「逃げるのか! 最後まで、聞け!!」
狂ったような叫び。
けれど、私は振り返らない。
「この! 悪魔の子め!!」
一歩。
「お前が……お前が、すべての元凶だ!」
二歩。
「私の人生を、返せ!!」
三歩。
その声は、次第に遠ざかる。
湿った石床を踏む、私の足音だけが、静かに響いていた。
扉の前で、ほんの一瞬だけ、立ち止まる。
「……さようなら。お父様」
小さく、誰にも届かないほどの声で、そう告げる。
それが――
父と呼ばれた男へ向ける、最初で最後の言葉だった。
扉が、重く閉じる。
金属の音が、地下牢に虚しく反響し、やがて、闇に溶けていった。
私は、もう振り返らない。
二度と。
石畳を踏む音だけが、長い廊下に淡く響いていた。
湿った空気から抜け出したはずなのに、胸の奥に沈んだ重さは、まだ消えない。
「……」
隣を歩くセシル様は、何も言わない。
ただ、いつもよりわずかに歩幅を緩め、私に合わせている。
「……ここまで、連れてきてくれて、ありがとうございます」
足を止め、一礼をした。
「……いや、いい」
セシル様も立ち止まり、私へと視線を向けた。
「……顔色、悪いぞ」
ぽつりと、そう言われた。
「……大丈夫ですわ」
反射的にそう返すと、セシル様は、わずかに眉を寄せた。
「大丈夫な顔じゃねえだろ」
責めることでも、呆れることでもなく。
ただ、事実を述べるような声だった。
重い沈黙が落ちる。
セシル様が小さく息を吐いた。
「無茶、しすぎだ」
低く、抑えた声。
「……お前は、いつもそうだ」
堪えるような、苦しさを含んだ声。
「一人で、全部背負おうとする」
わずかに、セシル様の拳が握られる。
「……それで、平気な顔をされると」
一瞬、言葉が途切れる。
「……腹が立つ」
その声だけが、少しだけ、感情を帯びていた。
私は、ゆっくりと息を吸った。
「……すみません」
「謝れって言ってるわけじゃねえ」
即答。
そして、ほんのわずかに距離を詰める。
「俺の前でくらい」
低く、すぐ耳元で囁くような声。
「強がるな」
その一言が、胸の奥に、静かに沈んだ。
次の瞬間、ふわりと、体が引き寄せられる。
驚く間もなく、視界が、彼の胸元で塞がれた。
抱きしめ方は、強くない。
けれど、逃がさないと伝えるような、確かな腕。
彼の鼓動が、耳のすぐそばで――静かに、でも確かに響いている。
「……無理、してるくらい」
囁くような声。
「分かるに、決まってるだろ」
そのまま、額が、そっと、
私の髪に触れた。
ほんの一瞬。
吐息が、絡むほどの、近い距離。
「全部、背負うな。少しくらいは……俺に、預けろ」
胸の奥が、きしむ。
言葉にしたら、きっと、崩れてしまう。
だから、何も言えず、ただ……その胸元の衣服を指先で、きゅっと掴んだ。
それだけで彼の腕の力が、わずかに、強まる。
「……ほら」
低く、掠れた声。
「そういうとこだ」
責めるようでいて、どこまでも優しい声。
「お前は……」
彼は、一瞬言葉に詰まる。
「……ずるい」
その呟きに、心臓が、大きく跳ねた。
しばらくして、名残を断ち切るように、ゆっくりと、距離が離れる。
残った温もりが、妙に現実感を伴って、胸の奥に残る。
私は、戸惑いのまま、セシル様を見上げた。
彼は、一瞬だけ視線を逸らし――
それから決意を帯びた瞳で、真っ直ぐに私を捉える。
「必ず、迎えに行く」
低く、静かな声。
その言葉は、どこか、重く。
そして、まるで――確定事項のようで。
……迎えに行く?
その意味が、すぐには理解できず、私はわずかに首を傾げた。
「……迎え、に?」
問い返すと、セシル様はそれ以上は答えず、ただ私の頭に、軽く掌を置いた。
「余計なこと、考えんな」
不器用な仕草。
けれど、その声はたしかに、優しかった。
「今は、俺を信じてろ」
その一言に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……分かりまし、た」
小さく、頷く。
まだ知らない未来を、その言葉ごと、彼に預けるように。
――迎えに行く。
その真意を、私が知るのは、もう少し先のことだった。




