69.二人へのお願い。
湿った空気。
鉄とカビの匂い。
壁に灯る松明の光が、揺らめきながら影を伸ばす。
ここは、地下牢。
「――それで、何を考えているの?」
牢の外。
鉄格子の向こうに立つのは、ユリウス殿下。
揺れる灯りに照らされた、整った横顔。
けれど、その瞳には、明確な困惑と警戒が宿っている。
「君の言うとおりに――」
一瞬、言葉を選ぶ間。
「……庇うことは、しなかった」
私は、わずかに唇を開いた。
答えようとして――
「……待て」
低く、鋭い声が、空気を裂く。
足音。
重く、迷いのない歩調。
鉄格子の前に立ったのは、セシル様だった。
「お前が望んだ通り、地位は剥奪した。
地下牢にも落とした」
冷たい声。
けれど、その奥に、苛立ちと割り切れなさが滲む。
「ここまでは、全部――お前の筋書き通りだろ」
一歩、近づく。
「ネメシア」
名前を呼ぶ声が、わずかに低くなる。
「――約束通り、教えてもらう」
―――――――――
三年生へと進級する、ほんの少し前。
学校の中庭。
新緑が揺れ、春の光が石畳に反射していた。
「――もう、監視は必要ありませんわ」
唐突な私の言葉に、隣を歩いていたセシル様が、足を止める。
「……は?何を言い出す」
振り返ったその顔には、露骨な怪訝さ。
「私が虐められないようにしているのでしょう?」
そう告げると、セシル様は少し視線を逸らし、頬を少しかいていた。
「セレフィーナ様たちに、やりたいことがありますの」
淡々と告げる。
「だから、これ以上裏から見張る必要はありません」
「……何を企んでいる」
即座に、低く問われる。
「ろくなことじゃないだろ」
私は、小さく微笑んだ。
「ええ。
ろくなこと、ではありませんわね」
セシル様の眉間に、深い皺。
「やめておけ」
短く、強く。
「今でも、十分目立っている。これ以上やれば――」
「――だから、です」
言葉を、遮る。
彼の視線を、正面から受け止めて。
「目立つ必要が、あるのです」
「……何?」
「徹底的に、私は嫌われます」
淡々と。
「誰の目にも、はっきりと――"悪"と映るほどに」
セシル殿下の瞳が、わずかに揺れた。
「……正気か」
「ええ」
即答。
「正気ですわ」
一歩、彼に近づく。
「だから」
視線を、逸らさず。
「――卒業の夜、私を断罪してください」
一瞬、周囲の空気が凍りつくのを、肌で感じた。
「……は?」
「身分を、剥奪」
静かに、言い切る。
「そして、地下牢への投獄をしてください」
彼の表情から、血の気が引く。
「ふざけんな」
低く、唸るような声。
「そんなもの――」
「お願いします」
重ねて、深く、一礼をした。
「セシル様にしか、頼めません」
沈黙が流れる。
風の音だけが、やけに大きく耳に響いた。
「……顔、上げろ」
低い声。
促されるまま、ゆっくりと顔を上げると、すぐ目の前にセシル様の姿があった。
「理由は?」
「今は……答えられません」
視線をそらさずに、そう告げる。
「けれど、必ず。終わった後に、すべて話します」
「……そんな」
小さく、吐き捨てるような声。
「そんな曖昧な言葉で」
一歩、距離を詰められる。
「俺に、お前を地獄に突き落とせって言うのか」
鋭さを帯びていたはずの瞳が、ほんの僅かに、揺れた。
「……好きな女に」
低く、掠れた声。
「そんな真似、できるわけがねえ」
その言葉が、胸の奥に、鋭く突き刺さる。
――好き。
その一語だけで、世界が、ぐらりと揺れた。
「……なっ」
息が、詰まった。
心臓が、嫌な音を立てて跳ね上がる。
視線をそらそうとしても、できない。
まるで、縫い止められたかのように。
真正面から向けられる、その瞳が、あまりにも真剣で。
一瞬だけ、すべてを投げ出してしまいそうになるほど、気持ちが揺らいだ。
「そんな頼み、するんじゃねえ」
まるで、立場が逆転したかのような、懇願する声。
それでも。
私は、ゆっくりと首を振った。
「……それでも、です」
声が、わずかに震える。
けれど、逃げない。
「必要なこと、なんです」
一瞬の沈黙。
重い空気の中で、セシル様は視線を伏せ、奥歯を強く噛み締めていた。
やがて、観念したように、低く息を吐いた。
「……分かった」
その一言に、胸が強く締めつけられる。
「ただし」
鋭く、視線が戻る。
「条件がある」
「条件……?」
「俺の言うことを、一つだけ聞け」
有無を言わせぬ口調。
逃げ道のない、王子の命令。
「内容は、今は言わねえ。
だが、必ずだ」
しばらく、迷った。
その沈黙が、ひどく長く感じられた。
そして、私は静かに頷いた。
「……分かりました。必ず、従います」
その答えに、セシル様はわずかに眉を歪めた。
まるで、後悔を押し殺すように。
「……後で、泣き言、言うなよ」
その声だけが、少しだけ、優しかった。
―――――――――
これが、セシル様との約束だった。
そして――。
「僕も、知りたいんだ」
ユリウス殿下とも。
―――――――――
静かな午後。
卒業を間近に控えた学校は、浮き立つ空気と、終わりを予感させる静けさとが、奇妙に混ざり合っている。
中庭の木々は、柔らかな風に揺れていた。
その回廊で、私は呼び止められていた。
「ネメシア」
振り返ると、そこに立っていたのは、ユリウス殿下だった。
いつもより硬い表情。
その瞳には、隠しきれない焦りと、不安。
「……噂を、聞いた」
静かな声。
けれど、その奥には揺れる感情。
「セシルが――君を、断罪するという話だ」
私は、否定しなかった。
それだけで、答えになったのだろう。
ユリウス殿下の喉が、わずかに鳴った。
「……本当なんだな」
「ええ」
短く、肯定する。
沈黙が落ちる。
やがて、迷いを振り切るように、彼は一歩近づいた。
「なぜ、なんだ」
抑えた声。
「君ほどの人が、そんなことを受け入れる理由が……僕には分からない」
「理由なら、あります」
私は、静かに視線を伏せた。
「ただ……それを、今は話せないだけ」
「――ネメシア」
名を呼ぶ声が、苦しげに震える。
「……殿下」
私は、彼に視線を向ける。
「お願いがあります」
私の言葉に、ユリウス殿下はわずかに眉を寄せた。
「当日――」
一瞬、言葉が喉に引っかかる。
けれど、迷いを押し殺し、私は続けた。
「私が断罪される時、どうか……止めないでください」
風が、回廊を抜けた。
木々の葉が、ざわりと揺れ、沈黙を埋める。
ユリウス殿下は、目を見開いた。
「……何を、そんなことを……」
低く、戸惑いを含んだ声。
「君は、自分が何を言っているのか、分かっているの?」
「分かっています」
即答だった。
「だからこそ、殿下にお願いしているんです」
ユリウス殿下の表情が、苦しげに歪む。
「……止めないわけがないだろう」
静かな声。
けれど、強く、揺るぎがない。
「もし……このお願いを聞いてくださるのなら、あの時のことは、水に流します」
「……!」
そう。
私はまだ、ルミナが虐げられていたあの頃、ユリウス殿下が手を差し伸べなかったことを、許せずにいた。
計画のためなら――この手しか、ない。
長い沈黙が、二人の間に落ちた。
ユリウス殿下は、しばらく俯いたまま、動かなかった。
その肩が、わずかに上下する。
何かを、必死に堪えているように。
やがて、ゆっくりと顔を上げた。
そこにあったのは、諦めでも、怒りでもなく――
深い、深い、痛みを耐え抜いた末の微笑だった。
「……君は、本当に」
小さく、息を吐く。
「残酷だ」
それは責める声ではなかった。
どこか、自嘲に似た響き。
「僕が、君を止められないことまで……計算している」
胸の奥が、軋む。
けれど、私は、何も言わない。
ユリウス殿下は、ゆっくりと目を閉じた。
そして、静かに、頷いた。
「……分かった」
その一言が、胸に落ちる。
重く、冷たく。
「当日、僕は――何も言わないよ」
―――――――――
ここまでが、私にできる準備。
ここからは――。
「……それでは」
静かに、息を吐く。
「答え合わせと、参りましょう」




