67.やっと……。
三年生になってから、止まっていた嫌がらせが、静かに動き出した。
けれど、それ以上に目立ったのは――
私の、反撃だった。
水をかけられれば、皆の前で突き倒す。
悪意ある言葉を浴びせられれば、同じ言葉を、何倍にもして返す。
囲まれれば、逃げず、逆に踏み込む。
容赦はしない。
遠慮もしない。
ただ、叩き潰す。
結果、泣くのはいつも相手だった。
「やりすぎよ……」
「そこまで、する必要がある?」
「怖い……」
囁きは、次第に私へと向けられていく。
――私が悪であるほど、好都合。
学園の視線は、完全に私だけを向いた。
「ネメシア・ルーインハイト」
その名はいつしか、"学園で最も関わっていけない令嬢"として、定着していった。
回廊のざわめきの中で。
私はまた一人、泣かせた。
震える肩。
こぼれ落ちる涙。
周囲の視線が、一斉に私へと集まる。
――いつものことよ。
冷ややかな視線。怯え。嫌悪。
すべて、計算通り。
その中で。
「……お姉様」
聞き慣れた声が、空気を裂いた。
はっとして振り返るより先に、その姿を視界が捉えてしまう。
……ルミナ。
人混みをかき分けて、こちらへ向かってくる。
「……やめて」
息を切らしながら、私の前に立つ。
「これ以上、そんなことをしたら……」
「……何しに来たの」
低く、遮る。
一瞬、彼女の言葉が止まった。
「お姉様を……止めに来たの」
かすれる声。
「これ以上、そんなことをしたら……。お姉様は悪くないのに……」
その言葉に、胸の奥がきしりと、音を立てる。
「……そんな気持ち、やめなさい」
冷えきった声で、切り捨てる。
「目障りよ」
ルミナが、息を呑む。
「貴女のその"優しさ"も、"心配"も、全部」
一歩、距離を詰める。
「私には、邪魔でしかない」
「……どうして……」
静かに、問い返す。
「私が、貴女の問いに答える義務でもあると?」
視線を細める。
「貴女が泣こうが、傷つこうが――
私には、関係ない」
ルミナの唇が、かすかに震える。
「……嘘よ」
かすれた声で告げた。
「そんなこと、思っていないくせに……」
「思っているわ」
即答。
「だから、二度と来ないで」
突き刺すように、言い切る。
そして私は、彼女の返事を待つこともなく、踵を返した。
「お姉様――」
その声が、背後で震えた。
けれど、私は振り返らない。
聞かない。聞いてしまえば、足が止まる。
だから、歩き出す。
靴音が、回廊に冷たく響く。
「……待って……!」
追いすがる気配。
それすら、無視する。
振り切るように、速度を上げる。
背後の声が、やがて遠ざかる。
完全に聞こえなくなったところで、ようやく足を止めた。
――けれど、振り返らない。
「……ごめん、なさい」
誰ともなく、呟いた。喉の奥が、ひりつく。
胸の奥に、重いものが、静かに沈んでいった。
―――――――――
朝の空気は、ひどく澄んでいた。
雲一つない青空。
まるで、今日という日を祝福するかのような、出来すぎた天気。
――皮肉ね。
窓から差し込む光を眺めながら、静かに制服に袖を通す。
指先の動きは、驚くほど落ち着いていた。
震えも、迷いも、ない。
鏡に映る自分は、いつもと変わらない。
感情を殺した、無表情な令嬢。
……これで、やっと。
馬車はすでに用意されていた。
御者は何も言わず、視線も合わせない。
揺れる車内で、膝の上に組んだ指先を見つめる。
震えてはいない。迷いも、ない。
ただ、ひどく静かだった。
窓の外を流れていく街並み。
いつもと変わらない朝。
けれど、私だけが違う時間を生きている。
学園の門が、ゆっくりと近づいてくる。
馬車が止まり、扉が開いた。
ざわめき。無数の視線。潜められた声。
一斉に、私へと向けられる。
そのすべてを受け止め、私は静かに地面へ足を下ろした。
――さあ。
終わらせましょう。
―――――――――
きらびやかな音楽が、広間を満たしていた。
シャンデリアの光。
華やかなドレス。
笑顔と祝福の声。
卒業を祝う、最後の夜。
――けれど。
その中心で、空気だけが異様に、張りつめていた。
私の正面。
そこに立つのは、セシル様。
そして、その腕に絡むように寄り添う、セレフィーナ。
彼女は、微笑んでいた。
上品に。優雅に。
――その瞳の奥に宿るのは、隠しきれない勝利の色。
まるで、すべてを掌握した者だけが浮かべる、余裕の笑み。
ほんの一瞬、視界が絡む。
セレフィーナの口角が、わずかに吊り上がった。
――勝った、と。
そう、はっきり告げるように。
その少し後ろには、ユリウス殿下の姿。
唇を噛みしめ、苦しげにこちらを見つめている。
そして、その隣に立つ、ルミナ。
揺れる瞳。
今にも泣き出しそうな表情。
音楽は、止まる。
ざわめきは、波が引くように消えていく。
広間の視線が、すべて、私に集中した。
セシル様は、周囲など一切気に留めず、真っ直ぐ私だけを見据えた。
「……やっとだな」
低く、愉しげに。
獲物を追い詰めた捕食者の声。
一歩、踏み出す。
その靴音だけで、空気が震える。
「ルーインハイト公爵令嬢、ネメシア」
私の名を呼ぶ声は、冷酷で、断定的で――
逃げ道など、一片も許さない。
「随分と、好き勝手やってくれたじゃないか」
薄く、口角が上がる。
「――そろそろ、終わりにしてやる」
ざわ、と、広間が揺れる。
彼は、壇上へと上がり、見下ろすように、私を見た。
「俺が」
一瞬の間。
「お前を、断罪する」




