66.逃げれない。
温室の中は、静かだった。
遠くから、かすかに舞踏会の音楽が流れてくる。
それが、まるで別世界の出来事のように感じられるほどに。
「……なあ」
静寂の中、セシル様が口を開く。
「お前を傷つけているのは――セレフィーナだろ」
空気が、ぴたりと止まった。
一瞬、心臓が強く脈打つ。けれど、表情には出さない。
「……何のことでしょう」
淡々と、いつもどおりの声。
「しらばっくれるな」
呆れたように息を吐いた。
「いつも近くにいるやつらが動いているのも、怪我の場所も、タイミングも全部、あいつがやりそうな手口だ」
視線が、鋭くなる。
「なぜ黙っている」
……まだ、答えられない。
答えれば、余計な火種になる。
それと、誰にも迷惑をかけたくない。
「……セシル様の知ることではありませんわ」
静かに、そう返す。
しばしの沈黙。
セシル様は私をじっと見つめ――やがて、ふっと力を抜いた。
「……まあ、いい」
あまりにも、あっさりと。
思わず、目を瞬く。
「無理に吐かせるのは、無理なことが分かった。言わないってことは、お前なりの理由があるんだろ」
興味を失った、というより。
それ以上、踏み込まないと決めた声。
「お前は、そういう女だ」
一瞬、胸がざわつく。
「……後ほど、お話ししますわ」
そう告げると、彼はわずかに目を細めた。
「"後ほど"、な」
念を押すように言ってから、ふっと息を吐いた。
「――なら、別の話をしよう」
「別の話?」
「お前の妹」
その一言で、空気が変わる。
「ルミナ……だったか?」
名を呼ばれ、思わず指先に力が入った。
「……何か?」
探るような視線。
「お前、あいつのことになると、途端に周りが見えなくなるな」
「失礼ですわ」
即座に否定しかけて、言葉を飲み込む。
……否定はできない。
セシル様は、そんな私の反応を見逃さなかった。
「……ほらな」
小さく鼻で笑う。
「ずっと、疑問だったが」
ふっと、声の調子が落ちる。
「お前は、あいつのことをどう思ってる」
「……妹ですわ」
短く、端的に。
「それだけで、十分でしょう」
視線は逸らしたまま。
「守るのに、理由はいりません」
セシル様は、しばらく私を見つめていた。
「……それで、自分がどうなってもか?」
低い声。
「傷ついて、貶されて、悪評を背負って……それでもか?」
一瞬、言葉に詰まる。
けれど、すぐに答えは出た。
「ええ」
迷いなく。
「あの子が、幸せでいられるなら」
淡々と告げる。
「それで、十分ですわ」
空気が、静まる。
セシル様は、しばらく黙っていた。
からかうような笑みも、いつもの軽口もない。ただ、真っ直ぐな視線を向けていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……なるほどな」
それだけだった。
深く追求することも、否定することもない。
「そういう答えが出てくるなら」
肩をすくめ、軽く笑う。
「お前が、ここまでやる理由も、分かる気がする」
それは、納得の声だった。
「……」
「ま、厄介な生き方だが」
いつもの調子に、少しだけ戻る。
「嫌いじゃない」
そう言って、視線を逸らす。
――ずっと。
私のやり方に、理解されることも、肯定されることも、諦めていた。
けれど隣にいる彼は、拒否ることも、否定することもなく。
私を――受け入れてくれた。
その事実に、私は胸の奥がぎゅっと握り締められているかのような感覚になった。
――ああ、そうね。
私は、それ以上、何も言わなかった。
遠くで、音楽が鳴り響いていた。
舞踏会はまだ、終わっていない。
セシル様は、ほんの一瞬だけその方向を見やり、すぐに私へと視線を戻す。
「……そういえば」
思い出したように、低く言う。
「去年の舞踏会で、俺はお前を誘ったな」
胸が、わずかに跳ねる。
「そして、見事に振られた」
「……覚えていらしたのですね」
「忘れるか」
鼻で笑う。
「逃げたからな」
「逃げてません」
私は、即座に遮った。
彼は、笑みを浮かべる。
「じゃあ」
有無を言わせぬ様子で、彼は立ち上がり、手を差し出す。
「踊れ」
「……命令ですの?」
「そうだ」
即答。
「どうせだ。お前と踊りたい」
言い切った言葉に、私は一瞬、言葉を失う。
「……ここで?」
「ここがいい」
視線を絡めたまま、逃がさない。
「誰にも邪魔されない。礼儀も、気遣いも――全部いらん」
一拍。
「俺の相手をしろ」
あまりにも堂々としていて、反論の糸口すら見当たらない。
「……横暴ですわね」
「はは」
悪びれずに。
「今さらだろ」
差し出された手は、動かない。
私は、観念したように小さく息を吐き、そっと指先を重ねた。
「……一曲だけです」
「十分だ」
満足そうに、口角を上げる。
温室の中、柔らかな光に包まれながら。
ゆっくりと、二人は踊りだす。
温室の石床に、静かに足音が重なる。
「……」
私は、無意識に足元を気にしていた。
「何だ」
即座に、気づかれる。
「……いえ」
「また踏む気か?」
にやり、と彼は笑う。
「一年前は、ひどかったな」
「……忘れてください」
「無理だな」
楽しそうに言い切る。
「三秒に一回、俺の足を踏んでいた」
「……っ」
「しかも、謝りもしない」
「ちゃんと、謝りましたわ!」
「心がこもっていなかった」
「失礼な……!」
むっとして睨むと、彼はますます楽しそうに目を細める。
「だが」
ふっと、声の様子が変わる。
「今は、踏まないな」
一歩、二歩と。確かに、踏まない。
「……成長したな」
低く、柔らかい声。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「誰のおかげだと思っている」
「……セシル様が、無理やり練習に付き合わせたからでしょう」
「当然だ」
悪びれずに。
「俺が踊りたい相手が、下手なままなのは困る」
さらりと、言う。
「だから、仕込んだ」
「言い方……」
「事実だ」
手のひらに、わずかに力がこもる。
「それに」
一瞬、視線が絡む。
「下手なままなら、こうして近づく口実がなくなるだろ」
「……!」
「今みたいに」
さらに、距離が縮まる。
吐息が、触れそうなほど。
「――な」
心臓が、嫌なほど大きく鳴る。
「……からかわないでください」
「からかっていない」
低く、笑う。
「俺は、正直なだけだ」
くるり、と軽く回される。
視界が一瞬揺れ、体制を立て直した瞬間。
「ほら」
耳元で囁かれる。
「ちゃんとついて来い。逃げるな。
――俺から」
「……っ」
言葉が、喉の奥で詰まる。
逃げるな。
その一言が、胸の奥に強く落ちた。
……無理よ。
この人から逃げずにいられるほど、私は強くない。
指先に伝わる体温。
腕に感じる確かな力。
間近にある、息遣い。
それらすべてが、思考を奪っていく。
どうして、こんなにも……。
ただ踊っているだけなのに。
心臓の音が、うるさくて。
視線を合わせれば、引き込まれそうで。
「……逃げませんわ」
そう答えながら、胸の奥では、まったく別の声が響いていた。
――逃げたい。
この人から。
この温度から。
この、どうしようもなく惹かれてしまう感情から。
一歩、踏み出す。
合わせるように、彼が動く。
完璧に噛み合う動き。
……息が、苦しい。
こんなにも自然に、寄り添えてしまうことが。
こんなにも、心地よいことが……怖かった。
このまま、手を離せなくなったら――。
胸の奥が、きしんだ。
―――――――――
舞踏会が、終わった。
自室の扉を閉めた瞬間、張り詰めていた緊張が、わずかにほどけた。
――けれど。
胸の奥には、まだ消えない熱。
……困ったわ。
あの距離。あの声。
あの、熱を帯びた命令。
『俺から』
その一言が、未だに、心の奥で微かに響いていた。
……忘れなさい。
自分に言い聞かせる。
あれは、一時の錯覚よ。
そうでなければ、困る。
誰かに心を許す余裕など、私にはない。縋る資格も、最初から持っていない。
それでも――。
体の奥に残る温度を、振り払うように、私は深く息を吐いた。
机へ向かい、無意識に視線を落とした、その先。
一通の手紙が、置かれていた。
見覚えのある封蝋。差出人は、ない。
「……」
指先で、そっと縁をなぞる。
封を切らずとも、内容は分かっていた。
短い一文。
――準備は、整いつつある。
それだけで、十分だった。
私は、深く息を吸い。静かに、吐いた。
「……始めましょう」
机の上の手紙を、そっと引き出しにしまい、私は、静かに立ち上がった。
次に進むために。
誰もが、悪と思えるように――。
次の話は、急展開になります。




