65.いつも助けられてばかりね。
途中、セレフィーナ視点あります。
セレフィーナからの露骨な嫌がらせが、ぱたりと止んだ。
怪我を負うことも、廊下で囁かれる声も、背中に突き刺さる視線も、いつの間にか消えていた。
それは、安堵より先に、違和感をもたらす。
……おかしいわね。
あの人が、何もせずに引き下がるはずがない。
むしろ、ここまで綺麗に消える方が、よほど不気味だった。
私は、回廊の窓から差し込む光を眩しそうに眺めながら、歩みを進める。
そういえば、以前よりもセシル様が近くにいることが多くなった。
話しかけてくることもあれば、少し離れたところから視線を感じていた。
……まさかね。
セレフィーナたちの、嫌がらせが少なくなったことと関係がないと、そう思いたかった。
でないと、セシル様の自慢げな顔で馬鹿にされそうだったから。
ふと、周囲を見回した。周りの人たちは舞踏会の話題で、もちきりだ。
誰と踊るのか。
衣装はどうするのか。
第一曲目の相手は、誰になるのか。
浮ついた声。弾んだ笑顔。
その中で私だけが、冷めた水の中にいる。
……嵐の前の静けさ、という言葉があるけれど。
まさに、それだ。
何も起きない日々ほど、警戒すべきものはない。
私の身に降りかかる悪意など、どうでもいい。
問題は――
その刃が、再びルミナに向けられる可能性だ。
それだけは、絶対に許さない。
指先を、無意識に握りしめる。
――舞踏会。
それは、社交界の縮図であり、人の欲と嫉妬と計算が、最も濃く渦巻く場所。
何も起きないまま、終わるはずがない。
むしろ。
……そこで、何かが起きる。
そんな確信だけが、胸の奥に重く沈んでいた。
―――――――――
教室の窓から、校庭を見下ろしていた。
遠く、回廊を歩く二つの影。
淡い銀と、青。
――ネメシア。
そしてそのすぐ隣を歩く、セシル殿下。
指先に、じわりと力がこもる。
「……なんでなのよ」
小さく吐き捨てる。
ここ最近。
ネメシアを追い詰めようとすれば、必ずと言っていいほど、セシル殿下が近くにいる。
偶然?いいえ、そんなはずはない。
授業の合間でも、昼休みでも、放課後でも。
まるで監視するように、常に視界の端にいる。
「……どうして、あなたが」
婚約者は、私でしょう。
そう心の中で叫んでも、現実は変わらない。
ネメシアに向けられる、あの視線。
警戒と、苛立ちと――そして、庇護。
それらが混ざった、あまりにも分かりやすい感情。
「……ふざけないで」
唇を噛みしめる。
私は、セシル殿下の婚約者よ。
彼の正妻となるべき存在なの。
それなのに。
「……どうして、あんな女を」
あんな、噂まみれの。
冷酷で、傲慢で。
妹を虐げると囁かれる女を。
――私よりも、気にかけるの。
胸の奥で、どろりとした感情が渦を巻く。
ネメシアを傷つければ、彼は必ず反応する。
そうすれば、この座が揺らぐ可能性がある。
だから、できない。
取り巻きたちを使っても、影で何かを仕掛けても、すぐに察知される。
「……屈辱だわ」
爪が、掌に食い込む。
彼は、堂々とネメシアを守る。私は、軽く動けない。
立場がある。
体裁がある。
評判がある。
だから――余計に、あいつが憎い。
「……でも」
ふと、脳裏に一つの光景が浮かぶ。
舞踏会。人の流れ。仮面と、混雑。
――視線も、気配も、誤魔化せる。
「……ふふ」
口元に、ゆっくりと笑みが浮かんだ。
学校行事の舞踏会。
教師の目は届きにくく、生徒たちは浮き立ち、誰がどこに消えたかなど、気にも留めない。
「……閉じ込めてしまえばいいのよ」
一人きりに。
誰にも気づかれず、誰にも助けを呼べず、逃げ場のない場所へ。
温室の奥。使われていない旧倉庫。封鎖された回廊。
いくらでも、選べる。
「……舞踏会なら」
セシル殿下の目を、振り切れる。
彼の手から、ネメシアを完全に奪える。
胸の奥が、ぞくりと甘く震えた。
「……楽しみだわ」
そう。
あの女が、どんな顔をするのか。
誇り高いその仮面が、砕ける瞬間を――
私は、誰よりも近くで、見たい。
―――――――――
舞踏会当日。
控室へ続く回廊は、すでに華やぎに満ちていた。
遠くから聞こえる音楽。
笑い声。衣擦れの音。
舞踏会の開始まで、あとわずか。
私は一人、壁際を歩いていた。
……騒がしいわね。
この浮ついた空気は、どうにも性に合わない。
「ネメシア様」
不意に、背後から声をかけられる。
振り返ると、見覚えのある顔。
セレフィーナの取り巻きの一人だった。
「セレフィーナ様が、少しお話をなさりたいと」
「……今から?」
視線を細める。
「すぐに始まるはずだけれど」
「ほんの少しだけ、とのことです」
一瞬、考える。
――逃げる理由はない。
「案内しなさい」
そう告げると、彼女はほっとしたように息をつき、歩き出した。
連れられた先は、普段ほとんど使われていない旧温室棟の奥。
舞踏会の動線から、意図的に外された場所。
……今度は、何をされるのかしら。
足を踏み入れた瞬間、微かな違和感。
湿った空気。閉ざされた静寂。人の気配の、薄さ。
「ここ? 誰もいないじゃない」
そう告げると、彼女は一瞬だけ、視線を伏せた。
「……誰も来ませんわ」
次の瞬間。
背後で、重たい音。
――ガンッ。
反射的に振り返る。
分厚い扉が外から閉められ、鍵が回る音がした。
「……なるほど」
吐き出すように、呟く。
「随分と、古典的ね」
扉の向こうから、複数の足音が遠ざかっていく。
こんな事をするのは、
セレフィーナ。そして、その取り巻きたち。
最初から、対話など存在しなかった。
「閉じ込められたわね」
扉に触れた指先を、ゆっくりと引く。
冷たい木の感触だけが、やけに鮮明だった。
……くだらないわ。
彼女たちは、舞踏会という日に私を閉じ込めて、悲しませる手段でしょうけれど。
舞踏会なんて、私の居場所はない。
どうせ言っても、向けられるのは――
避ける視線。ひそひそとした囁き。腫れ物に触れるような距離。
「……無意味なことね」
いえ……。行かなくて済んだということに意味はあるかもしれない。
私は、小さく息を吐き、背中を壁に預ける。
ここに閉じ込められたからといって、困ることなど……。
一つ、あるとすれば――ルミナの安否。
けれど、あれほど釘を刺したのだから、ユリウス殿下は近くで守ってくれるだろう。
……気を使わなくて済むわね。
床に腰を下ろし、膝を抱える。
ドレスの裾が、冷たい石畳に広がった。
時間の感覚が、曖昧になる。
遠くから、微かに音楽が届いてくる。
笑い声。拍手。歓声。
――世界は、何事もなかったように回っている。
私がいなくても。何も、変わらない。
そう思った瞬間。
――ガチャリ。
静寂を裂く、金属音。
顔を上げる。
閉ざされていた扉が、ゆっくりと開いた。
眩しいほどの光が、暗い温室に流れ込む。
逆光の中に立つ、人影。
「……ここにいたか」
低く、少し苛立ちを帯びた声。
「探した」
聞き慣れた声に、喉が詰まる。
「……セシル、様」
彼は周囲を一瞥し、舌打ちをした。
「閉じ込めるなんて、随分と回りくどい真似をする」
そして、まっすぐ私を見る。
「――なぜ、助けを求めない」
責めるようでいて、どこか困ったような声。
私は一瞬、言葉に詰まった。
「……出る理由が、ありませんので」
そう答えると、セシル様は一瞬、言葉を失ったように口を閉ざした。
次の瞬間、盛大にため息を吐く。
「……本当に、お前ってやつは」
そう言いながら、私の腕を取る――かと思いきや。
「……まあ、いい」
あっさりと、手を離した。
「え?」
拍子抜けして瞬きをすると、彼はそのまま私の横へ腰を下ろした。
「連れ出すのも面倒だ」
当然のように言い放つ。
「俺も、ここにいる」
「……なぜ?」
「舞踏会なんて、儀式みたいなものだろ」
吐き捨てるとうに言って、腕を組む。
「誰と踊るだの、どこに挨拶するだの、全部うんざりだ」
一瞬、視線が私に向く。
「それに――」
少しだけ、言葉を選ぶ間。
「お前がここにいるなら、なおさらだ」
胸の奥が、微かに跳ねた。
「……私など、いてもいなくても同じですわ」
「違う」
即答。
「お前は――」
言いかけて、ほんの一瞬、言葉に詰まる。
それが珍しくて、思わず目を瞬いた。
「……必要だ」
低く、短く。
けれど、はっきりと。
「俺にはな」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「殿下、それは……」
「言い直せ」
遮られる。
「……セシル、様」
「よし」
満足そうに、口元を緩める。
「お前がいないと、退屈で仕方ない」
肩をすくめ、軽く言う。
けれど、その視線は、真っ直ぐ私を捉えていた。
「それに」
一拍。
「無理して、笑って、平気なふりして……勝手に、全部背負い込む」
低くなる声。
「そういうところが……放っておけない」
一瞬、呼吸を忘れるところだった。
「……余計なお世話ですわ」
「知るか」
即答。
「俺がそう思った。それで十分だろ」
そう言って、ふっと視線を逸らす。
「だから、今はここにいろ。俺の目の届く場所で」
命令口調なのに、どこか不器用な優しさが滲む。
「……退屈な舞踏会より、こっちのほうがマシだろ」
その言葉に胸の奥が、静かに熱を帯びた。
閉じ込めるような事を、してはいけません。




