64.怒りと戸惑い。
数ヶ月が過ぎ、学園での居心地は、目に見えて悪くなった。
机の中に入れられる汚物。
切り裂かれるノート。
わざとぶつかられる肩。
足を引っかけられ、転ばされる日々。
……懐かしいわね。
不意に、そんな感想が浮かんでしまう自分に、小さく苦笑する。
思い出すのは、幼い頃。
公爵は、私を見なかった。
使用人たちは、私を人として扱わなかった。
食事を抜かれることも、冬の夜に廊下へ立たされることも、服をボロボロにされることも。
――すべて、日常だった。
これくらいで、心が折れるほど……私は、柔じゃないわ。
放課後。
人気のない渡り廊下。
「……ずいぶん、余裕ですのね」
振り返ると、そこにはセレフィーナが立っていた。
その背後には、いつもの取り巻きたち。
「普通なら、泣きだしてもおかしくありませんわ」
「そうかしら?」
軽く首を傾げる。
「このくらい、慣れておりますの」
一瞬、セレフィーナの表情が歪む。
「……強がりを」
「信じなくて結構よ」
淡々と告げる。
「貴女の嫌がらせ、正直に言って……生温いのよ」
静寂。
取り巻きたちの息が止まるのが、はっきりと分かった。
「もう少し、頭を使えば?」
微笑む。
「私を潰したいのなら。
――その程度じゃ、無理よ」
セレフィーナの指先が、かすかに震えた。
「……後悔なさるわ」
「ええ」
頷く。
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ」
すれ違いざま、わざと肩が触れるほど近くを通り抜ける。
その背後で、荒い呼吸が聞こえた。
……それでいいのよ。
もっと、こちらに意識を向けなさい。
ルミナから、目を逸らし続けるために。
夕暮れの回廊。
石畳に落ちる影が、重く伸び、背後から足音が追ってくる。
「……ネメシア」
この声は、ユリウス殿下だ。
私は、呼び止められても、すぐには振り返らなかった。
「待ってくれ」
足音が近づく。
「最近、様子がおかしい。いや――前から、ずっとだ」
「そう」
ようやく立ち止まる。
「それで?」
振り返った私の視線に、温度はない。
ユリウス殿下は一瞬、言葉を失い、動揺を隠しきれないまま私の袖に目を落とした。
裂けた布。
うっすらと滲む赤。
「……誰にやられたの」
「殿下には、関係ないですわ」
即答。
その冷たさに、彼の眉が寄る。
「関係ない、なんて言わないでくれ」
「言わせてもらいます」
私は、淡々と切り捨てる。
「殿下が、口を出す筋合いはありません」
「ネメシア」
彼は、苛立ちを帯びた声で続ける。
「君は――」
「ユリウス殿下」
しかし、私は遮る。
その声は、低く、静かに。
「ルミナが虐められていた時。
殿下は、どこにいましたか?」
空気が、凍る。
「……それは」
「答えてください」
一歩、詰める。
「その場にいました? 気づいていました? ……それとも、見て見ぬふりかしら?」
「違う……!」
「いいえ」
きっぱりと、断じる。
「結果は同じです。助けなかった。
それが、すべてです」
ユリウス殿下の唇が、かすかに震える。
「……気づいたときには、もう」
「遅かった?」
鼻で、小さく息を吐く。
「ええ、そうでしょうね。……私は、貴方なら助けると、信じていたのに」
その言葉に、彼の目が大きく揺れる。
「……すまない」
絞り出すような声。
「気づくのが、遅れた。だが――」
「謝罪はいりません」
即座に、切る。
「謝られても、何も変わらない」
彼の言葉が、宙に落ちる。
「それに、殿下が今、その言葉を向けるべきは――私ではありません」
一歩、距離を詰める。
視線は、真っ直ぐに彼を射抜いた。
「守る相手を、履き違えないでください」
空気が、張りつめる。
「私ではなく。
貴方の婚約者である――ルミナを、守るべきです」
ユリウス殿下の目が、大きく揺れる。
「……ネメシア」
「それと。私は、誰かに守られる立場ではありません」
きっぱりと、断言する。
「そんなもの、とうの昔に捨てています」
視線をそらさずに、言い切る。
「けれど、あの子は違う」
指先が、わずかに強く握り締められる。
「ルミナは、誰かに守られるべき存在です。たとえそれが、姉である私であろうと。
――未来の夫である、貴方であろうと」
沈黙。
「殿下が本当に、彼女を想うのなら」
声は低く、冷たい。
「私を案じる前に。
彼女の傍に、いてください」
ユリウス殿下は、何も言えなかった。
その沈黙に、私はもう興味を失う。
「……これ以上、私に構わないでください」
そう言い捨て、踵を返す。
背後から、呼び止める声は――もう、聞かなかった。
ユリウス殿下とはあれから数日、何も話していない。
それでも私の日常は、いつも通りだった。
視線。
囁き。
遠慮のない好奇心と、露骨な悪意。
それらを意識の外へ追いやり、回廊を歩いていた時だった。
「ネメシア」
呼び止める、低い声。
振り返ると、そこにいたのはセシル殿下だった。
「……何か?」
事務的に応じる。
「最近、妙に静かだと思ったら……今度は、あからさまに荒れているな」
視線が、私の手首へと落ちる。
包帯だ。
「……誰の仕業だ」
「殿下に、お答えする義務はありませんわ」
通り過ぎようとする。
が、手首を掴まれた。
「離して」
声は低く、鋭い。
「……心配なんだよ」
その一言に、足が止まる。
一瞬だけ。胸の奥に、熱が走り――すぐに、冷やす。
――いる。
気配を感じる。背後、柱の影。
そこにはセレフィーナの取り巻きの一人ね。
私は、わざと小さく息を吐き、セシル殿下へと一歩、距離を詰めた。
「まあ! セシル様が心配なさってるの?」
彼の胸元に、指先が触れるほど近く。
顔を上げ、間近で視線を絡め取る。
「こんな気にかけてくださるなんて……とても嬉しいですわ」
セシル殿下の瞳が、わずかに揺れる。
背後の気配が、ぴくりと跳ねたのを感じた。
……いい反応ね。
思わず口元が歪むのを、必死で押し殺した。
「……随分と、余裕そうだな」
低く、少し呆れたような声。
次の瞬間、掴まれていた手首を、ぐっと引き寄せられた。
「――っ」
思っていた以上の力。一瞬、バランスを崩し、そのまま彼の胸元に触れそうになる。
「何してるんですの」
「それはこっちの台詞だ」
間近で、セシル殿下が笑う。
「人前で、そんな距離まで詰めてくるとは……」
一瞬、言葉を探すように間を置き。
「勘違いしそうになる」
「……勘違い、とは」
「俺に気があるのか、とか」
さらりと、言い切る。
……この人、本当に警戒心というものが、ない。
「まさか」
そう切り捨てるはずだった言葉が、喉の奥で止まった。
近すぎる距離。真っ直ぐすぎる視線。
妙に、調子が狂う。
「……殿下は、単純すぎますわ」
そう告げると殿下は、あからさまに不機嫌そうな顔をした。
「……さっき」
低く、短く。セシル殿下がそう言って、私を見下ろした。
「呼び方が、違った」
「……何のことですの」
とぼけると、彼は小さく鼻で笑う。
「白々しい」
ぐっと、距離を詰められる。
「ネメシア」
その声だけで、背筋がわずかに強張る。
「もう一度、呼べ」
それは、命令口調だった。
「……セシル殿下?」
わざと、そう呼ぶ。
次の瞬間。
「違う」
即座に否定。
「殿下はいらない」
「随分と、横暴ですのね」
「知っているだろ」
当然のように言い切る。
「言い直せ」
一瞬、言い返そうとして。けれど背後の気配を思い出し、わざと視線を伏せた。
「……セシル、様」
低く、小さく。
それだけで、彼の表情が一変した。
「は」
彼は愉快そうに、喉を鳴らす。
「素直じゃないくせに、可愛いな」
「――失礼ですわ!」
頬が熱くなるを感じる。
「褒めてる」
「褒め言葉の基準が狂っています」
「俺基準だからな」
あっさりと告げた。
「その呼び方、やめるなよ」
そう言って、ようやく距離を離れる。
私は、わずかに早くなった鼓動を、悟られないように胸に押し込み、そっと息を整えた。
「それでは――」
「待て」
私は、この場所から一刻も早く離れようとすると、セシル様から止められた。
「さっきの話だ」
低い声。
「傷」
短く、それだけ。
「誤魔化したままにする気か?」
視線が、逃がさないと告げている。
「……存じませんわ」
「嘘」
即断された。
「お前が本当に知らない時は、そんな目をしない」
息が詰まる。
――鋭い。
「答えろ」
命令の声色。
けれど、私は視線を伏せたまま、唇を閉ざす。
「……」
沈黙。
一秒、二秒。
やがて、舌打ちが落ちた。
「……仕方ねえ。そのうち、言わせるからな」
断言。
私は、彼を視線に戻す。
「覚悟しておけ」
その瞳は怒りでもなかった。
奥に、心配しているようなものを感じた。
彼はそれだけを告げて、踵を返す。
去り際、ふと立ち止まり、振り返った。
「――無茶はするな」
低く、短く。
それだけ言い残し、セシル様はその場を後にした。
私は、しばらく動けずに立ち尽くす。
「……本当に」
小さく呟いてから
「……厄介ですわ」
誰にも聞こえない声で、そう付け足した。




