62.彼女に近づかないことね。
あれから、いくつかの日が過ぎていった。
放課後の図書室は、静まり返っていた。
夕刻の光が、高い窓から斜めに差し込み、書架の影を長く伸ばしている。生徒の姿はまばらで、奥の閲覧席には、ほとんど人影がない。
わたしは、窓際の席に腰掛け、開いたままの本に視線を落としていた。
――もっとも文字など、ほとんど追っていない。
背後に、気配が近づく。
「……ネメシア様」
控えめな声。
「貴女が来たってことは、そういうことよね。クロエ様」
顔は上げずに応じる。
「報告してちょうだい」
クロエは、周囲を一度だけ確認してから、私の斜め後ろに立った。
「……本日、ルミナが西棟の階段脇で、セレフィーナ様の取り巻きたちに……呼び止められていました」
ページをめくる音が、小さく響く。
「……内容は……成績、身分、交友関係……"姉の威を借りている"という言葉も」
指先が、紙の端をきつく押さえる。
「……なるほど。浅はかだこと」
声色は、崩さない。
「あの子は?」
「い……言い返しません、でした。それから……ネメシア様の名前も……使いませんでした」
一拍。
「……め、"迷惑をかけるから"と」
喉の奥が、微かに詰まる。
――本当に、愚かなほど優しい。
「……やっぱり、そうするわよね」
本を閉じ、ようやく顔を上げる。
「それで?」
「……今後も……続くと、思われます」
クロエ様は断言をした。
「相手は……手応えを得ています。抵抗されないと、分かれば……必ずエスカレートすると思います」
「分かったわ」
私は、静かに立ち上がった。
「それなら――」
一歩、通路へ。
「ここで、終わらせるわ」
言い切った声に、微かな揺らぎもなかった。
クロエ様は一瞬、何かを言いかけて――けれど、すぐに口を閉ざす。
その視線が、私の覚悟を測るように静かに細められた。
守ると決めた。
だから、汚れることも、嫌われることも、躊躇わない。
曲がり角を抜け、温室へと続く回廊へ向かう。
ガラス越しに差し込む夕陽が、床に長い影を落としていた。
その光の中へ、迷いなく歩み出る。
私は、人の行き交う放課後の学園を逆行するようにして、温室へと向かった。
温室の扉を押し開けた瞬間、湿った空気と花の香りが肺に流れ込んだ。
この場所は、校舎の中心から外れているせいで、どこか隔絶されている。
視線を巡らせて、すぐに見つけた。
中央の花壇脇。
背を囲むように立つ三人の令嬢と、その中心にいる――淡い色。
ルミナ。
伏せられた視線。
強く握りしめられた指先。
動かない足。
……やはり、ここだったのね。
「……ずいぶんと、楽しそうですこと」
私の声が、温室の空気を切り裂いた。
ぴたり、と会話が止まる。
二人が、弾かれたように振り向く。
「ネ、ネメシア様……?」
一人の令嬢が、明らかに声を上ずらせた。
私は歩みを止めない。靴音を、わざと響かせる。
逃げ場を与えない速度で、距離を詰める。
「その様子ですと」
ルミナの横へ並ぶ形で立ち、視線だけを令嬢たちに向ける。
「ただの"雑談"では、なさそうね」
空気が、張り詰める。
温室の中で、花の葉が擦れる音さえ、やけに大きく聞こえた。
「ち、違いますわ……! 私たちはただ……」
「ただ?」
言葉を遮る。
「成績、身分、交友関係」
淡々と告げる。
「次は何を話す予定だったのかしら。"姉の威を借りている"でした?」
その瞬間、二人の顔から血の気が引いた。
……隠すつもりもないのね。
「貴方たち」
声を低く落とす。
「よくもここまで好き勝手にできたものだわ」
一歩、踏み出す。
「――誰の許可を得て?」
令嬢の一人が、かすかに後退る。
けれど、背後は花壇と壁。逃げ場は、もうない。
「ネ、ネメシア様……その……」
「答えなさい」
静かに、けれど逃げ道を与えない声で告げた。
「――私よ」
一瞬の沈黙。
その刹那、私は確信する。
――セレフィーナ。
背後から声が聞こえ、振り向くと彼女は立っていた。
セレフィーナは、取り巻きたちの元へ歩きながら告げる。
「貴女が、表に出てくるなんて思わなかったわ」
セレフィーナは、小さく微笑んでいた。
私は、ルミナの前に半歩だけ立つ。完全に庇う位置。
「この子に手を出すということは――」
冷たい視線で、セレフィーナたちを射抜く。
「私に、喧嘩を売るという意味よ」
告げた言葉に、空気が凍る。
その空気を壊したのはセレフィーナだった。
「……どうして、そこまで庇うのかしら?」
その声には、あからさまな苛立ちと、抑えきれない感情が混じっていた。
私は、花々に囲まれた温室の中央で、ゆっくりと振り返る。
背後では、怯えるように立ち尽くすルミナと、庇うように寄り添うクロエ様。
そしてその向かいに、取り巻きを従えたセレフィーナ。
「あら、私は庇っているつもりはないわ」
「嘘」
即座に噛みつく。
「まあ、いいわ。そんなことよりも……」
セレフィーナに瞳は鋭くなる。
「貴女のせいで、何度邪魔されたと思っているの」
「……邪魔?」
「ええ。邪魔よ」
セレフィーナは苛立ちを隠そうともせず、吐き捨てる。
「セシル殿下は、貴女ばかりを見る。婚約者の私を差し置いて、よ」
空気が、ぴりりと張りつめた。
――なるほど。
「それで、ルミナに当たった、と」
淡々と告げると、セレフィーナは肩を強張らせた。
「気に入られている貴女が悪いのよ」
「……」
「だから」
彼女は、ルミナをちらりと見やる。
「貴女、この子を大事そうにしているじゃない」
その一言で、胸の奥がきしりと鳴った。
「だから、壊したくなったの」
セレフィーナは、くすりと笑う。
「その方が、ずっと効くでしょう?」
その瞬間。
――頭の中で、何かが、完全に切れた。
私が、ルミナを大切にしている。それを、知った上で。
わざわざ、そこを……。
「……そう」
声が、驚くほど静かだった。
「つまり」
一歩、踏み出す。
「貴女は、"私に苦しんでほしくて"ルミナを傷つけた」
セレフィーナは、唇を歪める。
「ええ、そうよ。だって――」
「私が苦しむ姿を、見たかった。……そう言いたいのね?」
被せる。彼女は、少しだけ怯みながらも、頷いた。
「……ええ」
その瞬間。私の中で、何かが、完全に決まった。
ああ。
この女は――。
「……そう」
私は、彼女に向かって微笑んだ。
けれど、その笑みは自分でも分かるほど、冷えていた。
「それが、王太子妃候補のやること?」
その言葉にぴくり、と。
セレフィーナの喉が鳴った。
「自分の婚約者の心が離れそうだから。腹いせに、弱い立場の少女を痛めつける」
淡々と、事実だけを並べる。
「随分と、醜いわね」
「……!」
セレフィーナの顔が歪んでいる。
私は彼女に近づく。
「この件、彼が知ったらどう思うのかしら?」
「……やめなさい!」
セレフィーナの声が、震え始める。
「"ただの婚約者"と"気に入られている私"……どちらの言葉を信じると思う?」
そんなの明白だ。
だからこそ、その言葉は彼女に響いた。
「安心なさい。今は"まだ"話さないわ」
静かに告げると、セレフィーナの瞳に、はっきりとした恐怖が浮かんだ。
「……今は?」
「ええ。今は、ね」
私は、わざと一瞬だけ間を置く。
「"今なら"、貴女の未来は守ってあげる」
ぴしり、と空気が張りつめる。
「どういう、意味……?」
「そのままの意味よ」
彼女の耳元へ、わずかに身を屈める。
「王太子妃候補という立場も、名家の令嬢という誇りも――。
私一人の気分で、簡単に揺らぐ」
低く、囁く。
「忘れないことね。ここは学園よ。
貴女の家の影響力が、絶対じゃない場所」
「……っ」
「優等生の仮面の裏で、弱いものを虐める。それを、彼が"美しい"と思うかしら?」
ゆっくりと、距離を取る。
セレフィーナの拳が、震えながら握りしめられた。
悔しさと、怒りと、屈辱。
それらが、混ざり合った歪な表情。
「……それは、脅しなのかしら?」
「忠告よ」
淡々と、切り捨てる。
「もう二度と、ルミナに近づかないこと。破れば――」
もう一度、微笑む。
「その時は、遠慮なく――奪ってあげますわ」
沈黙。
温室の中で、花の香りだけが、やけに甘く漂っていた。
やがて、セレフィーナは唇を噛み締めながら言った。
「……分かった、わ」
その声は、屈辱に零れている。
「覚えておきなさい」
私は、背を向ける。
「これは、警告であって、慈悲でもある」
歩き出しながら、最後に一言だけ残した。
「――次は、ないわ」
虐められたら、我慢せずに身近な人に言いましょう。




