59.戦いましょう。
中庭は、昼下がりの光に満ちていた。
噴水の水音だけが、一定の間隔で空気を切っている。
「ネメシア様」
呼ばれた声は、張りも感情もない。
だからこそ、逃げ場がない。
振り返ると、そこにいたのはセレフィーナ様だった。
取り巻きはいつもの二人。距離を保ち、けれど確実に退路を塞ぐ位置。
――ああ、なるほど。
私は内心で小さく息を吐いた。
面倒事は向こうからやってくる。
「お時間、よろしいかしら」
その言葉は、"断る"という選択肢は、最初から置かれていない。
「ええ。構えませんわ」
私が微笑むと、セレフィーナ様はそれに応じない。
視線だけを、まっすぐにこちらへ向けた。
「数日前の舞踏会でのことです」
前置きは、それだけ。
噴水の水音が、やけに大きく聞こえる。
「セシル殿下が……貴女を追いかけていた、という話を耳にしました」
語尾は落ち着いている。
声も、表情も、完璧に制御されている。
――怒っている。
それは、はっきりと分かった。
声を荒げない怒りほど、質が悪いものはない。
「追いかけていた先で」
一拍。
「何をしていらしたのかしら」
問いは、短い。
けれど、逃げ道をすべて塞ぐには十分だった。
以前の私なら、ここで曖昧に笑って、無難に言葉を返した。
――でも。
もう、そうする理由がなかった。
私は、少しだけ首を傾げる。
「さて」
間をおいて、穏やかに答える。
「"追いかけていた"という表現自体、ずいぶん情熱的ですわね」
取り巻きの一人が、わずかに息を呑む気配がした。
セレフィーナ様は、眉一つ動かさない。
「事実関係をお聞きしているのです」
「事実、ですか」
私は、くすりと笑った。
「でしたら簡単ですわ。
セシル殿下がいらして、私が立ち去った。それだけ」
視線を、真っ直ぐ返す。
「それ以上でも、それ以下でもありません」
言い切った瞬間、"取り繕う"という選択肢が、完全に消えた。
私はようやく気づく。
――ああ。
理解されなくても構わない。
彼女たちにとって都合の良いネメシアを、演じ続ける必要はないのだと。
沈黙が落ちる。
噴水の水音だけが、変わらず響いていた。
「……ずいぶん、余裕でいらっしゃいますのね!」
声を荒げたのは、セレフィーナ様ではなかった。
背後に控えていた取り巻きの一人が、耐えきれないといった様子で一歩踏み出す。
「セシル殿下が追いかけてこられた、ということの意味が――
本当に、お分かりにならないのですか?」
早口で、勢いだけはある。
けれど、言葉はどこか噛み合っていない。
「ええ! そうですのよ!」
別の取り巻きも、口を挟んだ。
「セシル殿下がですよ? 殿下が! わざわざ、後を追われたんですのよ?」
まるで、重大な証拠を突きつけるかのような様子。
私は、思わず瞬きをした。
「……それで?」
静かに問い返す。
「それが、何を意味するのかを、ぜひ教えていただきたいのだけれど」
取り巻きたちは、ぴたりと止まった。
「え……?」
「え、だから……」
互いの顔を見合わせる。
どう説明すればいいのか、本人たちも分かっていない。
「ほら、つまり……あれですわ!」
最初に噛みついてきた令嬢が、声を張り上げる。
「婚約者がいらっしゃる殿下を、そんなふうに……! 追いかけさせるなんて、普通ではありませんもの!」
――ああ、なるほど。
「"追いかけさせた"」
私は、その言葉をなぞるように繰り返した。
「つまり、殿下が自分の意思で動いたのではなく、私が操った、と?」
「そ、そういう意味では……!」
勢いで否定仕掛けて、言葉が詰まる。
「……あ、でも……結果的には……」
「ええ、結果がすべてですわ?」
別の令嬢が、よく分からない援護を入れる。
私は。ほんの少しだけ首を傾げた。
「随分と、便利な理屈ですのね」
声は穏やか。けれど、空気は冷える。
「殿下が動けば、私の責任。殿下が追えば、私の落ち度」
小さく息を吐く。
「では、殿下が転んだら、私が押したことになるのかしら?」
「……っ!」
取り巻きの二人は、言葉を失う。
しかし、苦し紛れに言い返す。
「そ、そういう揚げ足取りではなくて……!」
「揚げ足ではありませんわ」
私は、にこりともせず微笑む。
「皆さまが、きちんと考えずに噛み付いているだけよ」
その瞬間、取り巻きたちの顔が一斉に赤くなる。
「な……!」
「失礼ですわ!」
――やっぱり単純ね。
私は、もう一度だけ視線をセレフィーナ様に向ける。
彼女は、何も言わず、ただ静かに冷たい瞳でこちらを見ていた。
だからこそ、はっきりと言う。
「ご安心なさって」
丁寧で、冷たい声。
「私はもう、誰かに良い顔をするつもりはありませんから」
私は一礼をした。
「それでは」
説明も、謝罪も、譲歩も置かずに、踵を返す。
「ああ、そうでした」
言い忘れていたことあり、私はセレフィーナ様に視線を向けた。
「そんなに心配なのでしたら、セシル殿下を縄でも鎖にでも繋いでくださいな」
そう告げ、私は歩き出す。
背後では……。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
「まだ話は――!」
そんな声が飛ぶけれど、足は止めない。
私は中庭を後にした。
―――――――――
数日後。
学園の空気が、どこかおかしかった。
視線が、長い。囁きが、途切れる。
そして――私が近づくと、話題が変わる。
「……また、あの話ですか」
誰に向けるのでもなく、心のなかで呟く。
最初は、ただの断片だった。
――舞踏会で、セシル殿下が誰かを追いかけたらしい。
――しかも相手は、ネメシア令嬢だったとか。
そこまでは、事実だ。
けれど。
「聞きました?ネメシア様、セシル殿下を呼び止めたそうですわ」
「いいえ、逆よ。殿下が"放っておけなくなった"って」
「婚約者がいるのに?まあ……だからこそ、なのかしら」
言葉は、尾ひれをつけて増えていく。
――逃げた、はずが。
――追われた、はずが。
いつの間にか。
――誘ったのは、私。
――振り回しているのも、私。
そんな筋書きに、書き換えられていた。
「……随分と、都合のいいお話ですこと」
図書室の窓際。
本を読むふりをしながら、耳に入ってくる声を流す。
「ユリウス殿下と踊って、その後はセシル殿下を独占ですって」
「欲張り過ぎではなくて?」
「やっぱり、裏がありますわよね。あの方、最初からセレフィーナ様たちにいい顔してたし……」
――いい顔をしていた。
その言葉に、ほんの少しだけ可笑しくなる。
ええ。
たしかに、そうしていた。
すべてはルミナを守るために、悪い芽は内側から壊さないといけませんから。
けれど。
「……もう、必要ありませんもの」
私に視線を集めておけば、ルミナは守られる。
彼女には、ユリウス殿下がいる。
闇が強くなれば、光も強くなるように。
それに、セレフィーナ様たちの事は……十分に知った。
「悪役に仕立てるなら、好きになさい」
静かにページをめくる。
噂は、勝手に熟して、勝手に腐る。
その中心に据えられた私が、何も動かなくても。
そして、分かっている。
この歪んだ噂が、誰の怒りを刺激するかも。
――セレフィーナ様。
きっと、次は直接くる。
それなら、その時はその時よ。
私は本を閉じ、静かに立ち上がった。
さあ、ここからが幕開けよ。




