表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢の願い  作者: なむそ
《貴族学校》

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

61/94

58.面倒な人……。

 



 回廊に出た瞬間、音が変わった。

 舞踏会のざわめきは厚い扉に遮られ、足音だけがやけに響く。


 私は、止まらなかった。

 理由を考える前に、身体が先に動いている。


 ――どうして、私は逃げているの。


 問いは浮かぶのに、答えが追いつかない。

 追われている自覚だけが、背中に張り付いている。


 靴音が、ひとつ増えた。

 ……速い。


 振り返らなくても分かる。


「ネメシア」


 低く、苛立ちを含んだ声。

 けれど、それよりも強いのは――確信。


 私は、反射的に足を止めてしまった。

 次の瞬間、手首を掴まれる。

 強くはない。逃げられないと分かっている、ちょうどいい力。


「っ……」


 引き寄せられ、壁際に追い込まれる形になる。

 距離が、近い。


「俺が、戻るまで動くなって言っただろ」


 視線が、上から落ちてくる。

 逃がす気のない目。


「……そう、言ってましたね」


 息を整えながら、そう返す。

 声が少しだけ乱れているのが、自分でも分かる。


「じゃあ、なんで逃げる」


 責める調子でも、問い詰める声でもない。

 ――ただ、面白がっている。


「さあ?」


 私は、掴まれた手首を見下ろす。


「足が勝手に動いただけですわ」


 そう告げると、セシル殿下は一瞬だけ目を細めた。

 そして、口の端を上げる。


「はは」


 短い笑い。


「言い訳にもなってねえな」


 手は、離れない。

 視線を合わせないまま、答える。


「……私は、了承した覚えはありませんわ」


 事実を言っただけ。

 感情も、配慮もない。


 その瞬間、掴まれた手首から、じわりと熱が伝わってくる。

 力は強くない。

 けれど、逃げる選択肢が残っていないと、身体が理解してしまう程度の力。


「……離してもらえます?」


 声は、思ったよりも落ち着いている。

 ――本当に?


「嫌だね」


 即答だった。

 迷いも、考える間もない。


「離したら、お前また――」


 視線が、私の顔から足元までを一度なぞる。


「逃げるだろ」


 その声は断定だった。疑問ですらない。


「逃げませんわ」

「いーや」


 即座に、被せるように返される。


「逃げるね」


 短く、断定される。


「……では、何が望みなんですか」


 私は、小さく息を吐いた。

 すると、セシル殿下は一瞬だけ黙り込んだ。


 考える素振りなど、普段は見せない人が。

 視線が、天井の装飾へと逸れる。

 舌で歯の裏をなぞるような、癖のある間。


「……あー」


 短く、気のない声。

 そして。


「俺と踊れ」


 あまりにも唐突で。

 あまりにも単純な答え。


「……は?」


 思わず、間の抜けた声が出た。

 自分でも驚くほど、綺麗に思考が止まる。


「踊れ、って。聞こえただろ」


 当然だと言わんばかりの顔。

 ――忘れていたが、この男はこういう感じだった。


「なんで、そうなるんですか」


 少し遅れて、ようやく言葉が出た。

 問いというより、困惑に近い。


 するとセシル殿下は、片眉を上げた。


「は?」

「……踊れ、だなんて」


 私が言い終える前に、彼は鼻で笑った。


「お前さっき言っただろ。形式上、まずは婚約者と踊れ、って」


 その言葉に、私は一瞬だけ言葉を失う。


「……確かに、言いましたけれど」

「だろ」


 当然だ、と言わんばかり。


「だから、終わった。形式は守った。これで文句はねえだろ」


 理屈としては、確かに間違っていない。

 ……間違っていない、けれど。


「……それと、私を追いかけてまで誘う理由は、別ですわ」


 そう告げると、彼の視線がわずかに鋭くなる。


「そこまでする理由を、聞いても?」


 逃げずに、真正面から言った。

 もう一度捕まえられるのは、御免だったから。


 セシル殿下は、少しだけ黙り込む。

 さっきと同じ、短い間。

 顎に手を当てるのでも、視線を逸らすのでもなく。


「……あー」


 先ほどと同じ気の抜けた声。


「言わねえ」


 即答だった。


「……え?」


 思わず、また同じ声色が出る。


「秘密だ」


 口の端を、楽しそうに歪めて。


「理由なんて、教えたらつまんねえだろ」


 問いを、軽く踏み潰す言い方。

 逃げでも、拒絶でもない。

 ――隠す、という選択。


「……随分と、勝手ですわね」


 呆れたように言うと、彼は満足そうに笑った。


「今さらだろ。嫌なら、また逃げてみろ」


 挑発とも、冗談ともつかない声。

 私は、返す言葉を探しかけて――やめた。

 この人に、理屈は通じない。


「……本当に、面倒ね」


 そう吐き捨てるように言うと、セシル殿下は、ますます楽しそうに笑った。


「褒め言葉だな」


 その笑いに、これ以上隠す気はなかった。

 一歩、距離を取ろうとした――その時。


「セシル」


 名を呼ぶ声が、回廊に落ちた。

 低く、落ち着いていて。

 さっきまでの張りつめた空気とは、質の違う静けさを連れてくる声。


 私は、反射的にそちらを見る。

 そこにはユリウス殿下が、回廊の入口に立っていた。

 人の気配を連れてこない、けれど確かにそこにいる存在感。


「……ユリウス殿下」


 呼ばれたセシル殿下は、舌打ちをした。


「早えな」

「君がいないからね」


 それだけで、状況を察していると分かるやり取り。

 視線が、一度だけ私に向けられる。

 問いかけでも、確認でもない。

 ――無事か、という目をしていた。


「……少し、話していただけです」


 自分でも以外なほど、平静な声が出た。

 逃げる必要も、助けを求める必要もない。

 そう示すための言葉。


 ユリウス殿下は、わずかに頷いた。


「そう」


 それ以上、踏み込まない。

 セシル殿下の方へ視線を戻す。


「君を探してる人がいるよ」


 視線は、セシル殿下へ向けられている。


「……誰だ」


 面倒そうに、短く返す。

 ユリウス殿下は一瞬だけ考えるようにしてから、淡々と言った。


「さっきから、君の名前を呼びながら会場を回ってる人たち。次は一緒に踊れるかもって、ずいぶん楽しそうだったよ」


 言外に、はっきりと伝わる。

 ――熱心な"ファン"だ。

 セシル殿下は、露骨に顔をしかめた。


「……ああ、あれか」


 舌打ちまではしないが、限りなくそれに近い息。


「本当に、面倒くせぇ」


 そう吐き捨てるように言ってから、掴んでいた私の手首を、乱暴ではないが雑に離す。


「お前のせいじゃねえからな」


 誰にともなく、そう言い残す。それから一度だけ、私を見下ろした。

 さっきまでの面白がる目とは違う、苛立ちと未練が混ざった、短い視線。


「次は、逃げんなよ」


 それだけ言って、踵を返す。

 歩き方は早いが、明らかに気が進んでいない。

 足音が遠ざかり、回廊に静けさが戻った。


「……大丈夫?」


 ユリウス殿下の声は、さっきよりも少し低かった。


「ええ」


 即答する。


「ご親切に、ありがとうございます」


 それは社交辞令でもあるし、本音でもある。

 ユリウス殿下は、小さく肩をすくめた。


「これでも双子だから、セシルのことはよく知っているからね」


 返事の代わりに、私は小さく息を吐いた。

 遠くで、次の曲の前触れが鳴る。


 舞踏会は、何事もなかったかのように続いていく。

 けれど私は知っている。

 今の一幕だけで、十分すぎるほどの噂が生まれることを。


 そしてきっと、"セシル殿下が誰かを追いかけていた"。

 その話だけが、面白おかしく残るだろう。


 ――本当に、面倒ね。

 けれど、それもこちらの都合に合わせるだけよ。


 心の中でだけ、そう呟いた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ