58.面倒な人……。
回廊に出た瞬間、音が変わった。
舞踏会のざわめきは厚い扉に遮られ、足音だけがやけに響く。
私は、止まらなかった。
理由を考える前に、身体が先に動いている。
――どうして、私は逃げているの。
問いは浮かぶのに、答えが追いつかない。
追われている自覚だけが、背中に張り付いている。
靴音が、ひとつ増えた。
……速い。
振り返らなくても分かる。
「ネメシア」
低く、苛立ちを含んだ声。
けれど、それよりも強いのは――確信。
私は、反射的に足を止めてしまった。
次の瞬間、手首を掴まれる。
強くはない。逃げられないと分かっている、ちょうどいい力。
「っ……」
引き寄せられ、壁際に追い込まれる形になる。
距離が、近い。
「俺が、戻るまで動くなって言っただろ」
視線が、上から落ちてくる。
逃がす気のない目。
「……そう、言ってましたね」
息を整えながら、そう返す。
声が少しだけ乱れているのが、自分でも分かる。
「じゃあ、なんで逃げる」
責める調子でも、問い詰める声でもない。
――ただ、面白がっている。
「さあ?」
私は、掴まれた手首を見下ろす。
「足が勝手に動いただけですわ」
そう告げると、セシル殿下は一瞬だけ目を細めた。
そして、口の端を上げる。
「はは」
短い笑い。
「言い訳にもなってねえな」
手は、離れない。
視線を合わせないまま、答える。
「……私は、了承した覚えはありませんわ」
事実を言っただけ。
感情も、配慮もない。
その瞬間、掴まれた手首から、じわりと熱が伝わってくる。
力は強くない。
けれど、逃げる選択肢が残っていないと、身体が理解してしまう程度の力。
「……離してもらえます?」
声は、思ったよりも落ち着いている。
――本当に?
「嫌だね」
即答だった。
迷いも、考える間もない。
「離したら、お前また――」
視線が、私の顔から足元までを一度なぞる。
「逃げるだろ」
その声は断定だった。疑問ですらない。
「逃げませんわ」
「いーや」
即座に、被せるように返される。
「逃げるね」
短く、断定される。
「……では、何が望みなんですか」
私は、小さく息を吐いた。
すると、セシル殿下は一瞬だけ黙り込んだ。
考える素振りなど、普段は見せない人が。
視線が、天井の装飾へと逸れる。
舌で歯の裏をなぞるような、癖のある間。
「……あー」
短く、気のない声。
そして。
「俺と踊れ」
あまりにも唐突で。
あまりにも単純な答え。
「……は?」
思わず、間の抜けた声が出た。
自分でも驚くほど、綺麗に思考が止まる。
「踊れ、って。聞こえただろ」
当然だと言わんばかりの顔。
――忘れていたが、この男はこういう感じだった。
「なんで、そうなるんですか」
少し遅れて、ようやく言葉が出た。
問いというより、困惑に近い。
するとセシル殿下は、片眉を上げた。
「は?」
「……踊れ、だなんて」
私が言い終える前に、彼は鼻で笑った。
「お前さっき言っただろ。形式上、まずは婚約者と踊れ、って」
その言葉に、私は一瞬だけ言葉を失う。
「……確かに、言いましたけれど」
「だろ」
当然だ、と言わんばかり。
「だから、終わった。形式は守った。これで文句はねえだろ」
理屈としては、確かに間違っていない。
……間違っていない、けれど。
「……それと、私を追いかけてまで誘う理由は、別ですわ」
そう告げると、彼の視線がわずかに鋭くなる。
「そこまでする理由を、聞いても?」
逃げずに、真正面から言った。
もう一度捕まえられるのは、御免だったから。
セシル殿下は、少しだけ黙り込む。
さっきと同じ、短い間。
顎に手を当てるのでも、視線を逸らすのでもなく。
「……あー」
先ほどと同じ気の抜けた声。
「言わねえ」
即答だった。
「……え?」
思わず、また同じ声色が出る。
「秘密だ」
口の端を、楽しそうに歪めて。
「理由なんて、教えたらつまんねえだろ」
問いを、軽く踏み潰す言い方。
逃げでも、拒絶でもない。
――隠す、という選択。
「……随分と、勝手ですわね」
呆れたように言うと、彼は満足そうに笑った。
「今さらだろ。嫌なら、また逃げてみろ」
挑発とも、冗談ともつかない声。
私は、返す言葉を探しかけて――やめた。
この人に、理屈は通じない。
「……本当に、面倒ね」
そう吐き捨てるように言うと、セシル殿下は、ますます楽しそうに笑った。
「褒め言葉だな」
その笑いに、これ以上隠す気はなかった。
一歩、距離を取ろうとした――その時。
「セシル」
名を呼ぶ声が、回廊に落ちた。
低く、落ち着いていて。
さっきまでの張りつめた空気とは、質の違う静けさを連れてくる声。
私は、反射的にそちらを見る。
そこにはユリウス殿下が、回廊の入口に立っていた。
人の気配を連れてこない、けれど確かにそこにいる存在感。
「……ユリウス殿下」
呼ばれたセシル殿下は、舌打ちをした。
「早えな」
「君がいないからね」
それだけで、状況を察していると分かるやり取り。
視線が、一度だけ私に向けられる。
問いかけでも、確認でもない。
――無事か、という目をしていた。
「……少し、話していただけです」
自分でも以外なほど、平静な声が出た。
逃げる必要も、助けを求める必要もない。
そう示すための言葉。
ユリウス殿下は、わずかに頷いた。
「そう」
それ以上、踏み込まない。
セシル殿下の方へ視線を戻す。
「君を探してる人がいるよ」
視線は、セシル殿下へ向けられている。
「……誰だ」
面倒そうに、短く返す。
ユリウス殿下は一瞬だけ考えるようにしてから、淡々と言った。
「さっきから、君の名前を呼びながら会場を回ってる人たち。次は一緒に踊れるかもって、ずいぶん楽しそうだったよ」
言外に、はっきりと伝わる。
――熱心な"ファン"だ。
セシル殿下は、露骨に顔をしかめた。
「……ああ、あれか」
舌打ちまではしないが、限りなくそれに近い息。
「本当に、面倒くせぇ」
そう吐き捨てるように言ってから、掴んでいた私の手首を、乱暴ではないが雑に離す。
「お前のせいじゃねえからな」
誰にともなく、そう言い残す。それから一度だけ、私を見下ろした。
さっきまでの面白がる目とは違う、苛立ちと未練が混ざった、短い視線。
「次は、逃げんなよ」
それだけ言って、踵を返す。
歩き方は早いが、明らかに気が進んでいない。
足音が遠ざかり、回廊に静けさが戻った。
「……大丈夫?」
ユリウス殿下の声は、さっきよりも少し低かった。
「ええ」
即答する。
「ご親切に、ありがとうございます」
それは社交辞令でもあるし、本音でもある。
ユリウス殿下は、小さく肩をすくめた。
「これでも双子だから、セシルのことはよく知っているからね」
返事の代わりに、私は小さく息を吐いた。
遠くで、次の曲の前触れが鳴る。
舞踏会は、何事もなかったかのように続いていく。
けれど私は知っている。
今の一幕だけで、十分すぎるほどの噂が生まれることを。
そしてきっと、"セシル殿下が誰かを追いかけていた"。
その話だけが、面白おかしく残るだろう。
――本当に、面倒ね。
けれど、それもこちらの都合に合わせるだけよ。
心の中でだけ、そう呟いた。




