57.なぜ、逃げているのでしょう。
私は、壁際へと下がった。
人の輪の外、音楽の届き方が少しだけ薄くなる場所。
視線を上げれば、すぐに分かる。
ユリウス殿下は、別の令嬢に声をかけれられていた。
断る様子はない。
自然な所作で手を取り、再び踊りの輪へ戻っていく。
――当然だわ。
王子なのだから。
一曲で終わる方が、不自然。
そう思っているはずなのに、胸の奥がほんのわずかに冷える。
笑顔。
さきほどと同じ、穏やかな表情。
けれど、私に向けられていたものとは違う。
そう理解できるほど、私は冷静だった。
……私には、関係ないわ。
端に立ち、ドレスの裾を整える。
誰とも踊らず、誰にも声をかけられない位置。
役目は、もう果たした。
その時。
「――おい」
低く、ぶっきらぼうな声。
呼びかけというより、命令に近い。
振り向かなくても分かる。
この圧は、一人しかいない。
「ネメシア」
やはり、セシル殿下だった。
正装姿でも、隠しきれない威圧感。
人混みの中でさえ、空気を押し分けて立っている。
「……何かしら?」
自分でも、少し雑だと思った。
以前なら、こんな言い方はしなかったはずだ。
それでも今さら、丁寧に接する理由もない。
案の定、セシル殿下は眉をひそめた。
けれど、次の瞬間――口元が歪む。
……ああ。
このひとは、こういうところがある。
「相変わらず、可愛げのねえ女だな」
叱るような口調。
でも、その声には苛立ちより、どこか楽しげな響きが混じっていた。
一歩、近づいてくる。
威圧されているはずなのに、不思議と身構えなかった。
「前はもっと、余計な気遣いをしてただろ」
言われて、否定はしなかった。
確かに、前は貴族として、王族として。
そういう粋を意識して、距離を測っていた。
「貴方相手に、気遣いはいらないかと思いまして。
それとも――今まで通りがよろしかったですか?」
そう告げると、セシル殿下は私を見下ろす。
その表情に、満足の色が浮かんだように見えた。
「そのままでいい」
その一言で、はっきり分かった。
彼は、怒っていない。それどころか、気に入っている。
……本当に、面倒な人だ。
「お気に召したのなら、光栄ですわ」
肩をすくめて返す。
皮肉も、愛想も、どちらも乗せない。
セシル殿下は、ふっと鼻で笑った。
そして、満足したように顎を引き、私を見下ろした。
「で」
それは当然のように言う。
「俺とも踊れ」
……そう来ますか。
私は、小さく息を吐いた。
答える前に、ふと視線を巡らせた。
舞踏会の中央。
音楽は流れているけれど――
セシル殿下とセレフィーナ様は、まだ踊ってすらいないことを思い出した。
視線を彼に戻し、淡々と告げる。
「殿下。まず、婚約者をお誘いになってはいかがですか?」
一瞬、空気が止まる。
「……は?」
低く、据わった声。
「セレフィーナ様」
言葉を補う。
「彼女、貴方をお待ちですよ」
事実を述べただけ。
セシル殿下は、私をじっと見下ろし――
それから、ふっと鼻で笑った。
「……よく見てるな」
呆れたようでいて、どこか機嫌がいい。
「……いくら学校行事とはいえ」
一拍。
「婚約者を差し置いて、別の女性を先に誘うのは、感心しませんよ」
そう告げると、彼は小さく舌打ちをした。
「こんなことなら、受けなければよかったな」
吐き捨てるような低い声。
「それは、どういう――」
「お前は、ここで待ってろ」
命令口調で、有無を言わせない。
私の言葉が終わる前に、彼は踵を返し、人混みの中へと足早に消えていった。
……騒がしい人ね。
人混みの向こうへ消えていく背中を、私はその場から動かずに見送った。
行き先は案の定、淡い色のドレスに身を包み、取り巻きに囲まれているセレフィーナ様の元。
歩き方は相変わらず乱暴で、配慮という言葉とは程遠い。
けれど、その足取りには迷いがなかった。
――そうするべきだと、理解している足取り。
何か短く言葉をかけたのだろう。
こちらまでは聞こえない。
一瞬、セレフィーナ様が驚いたように目を見開き、それからゆっくりと微笑んだ。
差し出された手。
ためらいのない動き。
――婚約者同士として、当然の所作。
私が口にした言葉は、間違っていなかった。
音楽が変わり、二人が輪の中へ入っていくのを見た。
背中越しにでも分かる。
セシル殿下は、どこか不機嫌そうで。
けれど――逃げてはいない。
「……」
私は気づけば二人を、見ていた。
音楽に合わせて、二人は輪の中を進んでいく。
セレフィーナ様の動きは、非の打ち所がない。
姿勢、ステップ、指先の角度まで、すべてが教本通り。
舞踏会という場において、理想的な婚約者だった。
対して、セシル殿下は合わせている。
主導しているというより、抑えているに近い。
歩幅を詰め、回転を浅くし、相手に合わせて力を削ぐ。
乱暴さも、気まぐれも、すべて影を潜めている。
"婚約者同士"という完成形を、なぞっているだけの踊り。
セレフィーナ様は、時折セシル殿下を見上げる。
微笑みは柔らかく、視線は誇らしげだ。
けれど、セシル殿下の視線は、ほとんど前を向いたまま。
彼女を見る時もあるが、それは確認に近い。
――踏まれないか。
――遅れていないか。
そんな視線。
私は、無意識のうちに指先を握っていた。
ほんの、少しの違和感だった。
練習で自分と踊った時の感触が、脳裏をよぎる。
雑で、強引で、容赦がなくて……。
それでも、崩れる前にかならず支えてくる手。
――比べるつもりなんて、なかったのに。
私は、視線を逸らした。
これは、感情ではない。評価でも、願望でもない。
ただ。
言葉にしようとした瞬間、形を失う何か。
「……ただ、あの人が面白がっているだけよ」
小さく呟いて、自分で否定するように首を振る。
考える必要はない。意味を与える必要もない。
私は、ただの傍観者。
そう言い聞かせながら、それでももう一度だけ、二人の踊りを目で追ってしまった。
踊りが終わり、二人は自然な所作で間合いを取った。
その拍子に――
ふと、視線が合った。
ほんの一瞬、確認する間もないほどの短い時間。
けれど確かに、セシル殿下はこちらを見ていた。
探ることでも、笑うことでもない。
ただ、逃がさない目で。
胸の奥が、ひくりと鳴る。
私は反射的に視線を逸らしていた。
……まずい。
理屈では、そう思っただけだったのに。
そう思ったときには、もう遅い。
足が、無意識に後ろへ下がっていた。
拍手と談笑に紛れるように、人の輪の外へ。
柱の影へ、回廊へと続く方向へ。
――逃げている。
自覚したときには、もう背を向けていた。
『ここで待ってろ』
確かに、そう言われたはずだった。
それなのに。
「……っ」
ドレスの裾を押さえ、歩調を早める。
なぜ、逃げているのか。
私自身でも分からなかった。
仕事でバタバタしてて、更新遅くなりました。
本日より、しばらくの間二話ずつ更新します。




