56.始まりましたね。
舞踏会の前には、ひときわ静かな空間があった。
厚い扉の向こうから、音楽と人の声が微かに漏れてくる。
けれど、この場所だけは、切り離されたように落ち着いている。
私は、その扉の前に立っていた。
ドレスの裾を整え、手袋の指先をそっと合わせる。
深呼吸をしても、胸の奥のざわめきは消えなかった。
――ここをくぐれば、もう戻れない。
踊る相手が誰であれ、今日は私の立場を、はっきりと示す。
私の未来と、
ルミナの未来。
すべてが絡み合って、逃げ場はない。
「……本当に、私らしくない」
小さく、苦笑する。
いつもなら、もっと早く決めていた。
感情を切り離し、利を選び、迷いを切り捨てる。
それができないほど、ユリウス殿下の申し込みは、誠実すぎた。
断れば、楽だった。
受ければ、面倒は増える。
それでも。
――私が立つべき場所は、ここなんだ。
扉の装飾にそっと視線を上げる。
この扉の向こうにいる人々は、きっと私を好意にも、敵意にも、ただの好奇心にも晒されるだろう。
それでも、構わない。
「……それが、私よ」
誰に言うのでもなく、そう呟いた。
扉の前で立ち止まっていた私の背後で、足音が止まった。
気配だけで、誰かは分かった。
それでも、振り向く前に――
「ネメシア」
名を呼ぶ声は低く、静かだった。
騒がしさを伴わない、いつもの声。
私は、ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、正装に身を包んだユリウス殿下だった。
いつもより整えられた髪。
けれど、目の色だけは変わらない。
「……殿下」
私が一礼すると、彼はそれを止めるように、わずかに首を振った。
「いいよ、今は」
そう言ってから、一歩だけ近づく。
近すぎず、遠すぎない距離。
扉の向こうの音楽が、遠くなる。
「この前の返事」
彼は、私を真っ直ぐに見た。
「今、聞いてもいいかな」
問いかけは穏やかだった。
急かすでも、迫るでもない。
「もし、君が断るなら……それは、それで受け止める」
一瞬、言葉を選ぶような間。
「でも」
小さく、息を吸って。
「それでも、僕は君と踊りたい」
理由は語られない。
派閥も、噂も、立場も。
ただ、それだけ。
私は、胸の奥で決めていた答えを、ゆっくりと言葉にした。
「……殿下」
視線を逸らさずに、言葉を紡ぐ。
「本当に、よろしいのですか」
「君と踊ることが?」
「はい」
一拍。
「それで、何かが変わるかもしれません」
彼は、少しだけ笑った。
「もう、変わってると思うよ」
それから、改めて手を差し出す。
「ネメシア。僕と踊ってくれませんか?」
私は、その手を見る。
逃げ道はない。
でも、それは――自分で選んだ場所だ。
そっと、手袋越しに指先を重ねる。
「……喜んで、お受けいたしますわ」
その瞬間、扉の向こうで音楽が高鳴った。
舞踏会が、始まる。
扉が、ゆっくりと開かれた。
溢れ出した光と音楽が、一気にこちらへ流れ込んでくる。
弦の音、談笑、グラスの触れ合う微かな音。
それらすべてが、重なり合って広がっていた。
一歩。
ユリウス殿下が、私を導くように中へ進む。
その動きに合わせて、私も足を踏み出した。
――その瞬間。
視線が、集まった。
はっきりと、空気が変わる。
囁き合っていた声が、わずかに途切れる。
好奇の目、驚き、戸惑い。そして確かな確認。
「……あれは」
「ユリウス殿下の隣……」
「ネメシア、令嬢……?」
誰も、口に出しては言わない。
けれど、全員が理解している。
――この夜の最初の選択が、示されたのだと。
私は、背筋を伸ばした。
視線を避けることも、微笑みもしない。
ただ、殿下の隣に立つ。
それだけで、十分だった。
ユリウス殿下の歩調は、少しも乱れない。
まるで、最初からこうなるとわかっていたかのように。
「……随分と、見られているね」
小さく、私にだけ聞こえる声。
「ええ」
同じく、声を落として返す。
「想定の範囲ですわ」
彼は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「頼もしいね。でも、君を見てる理由は――それだけじゃないと思う」
「……?」
私は意味がわからず、首を傾げた。
すると彼は、視線を前に戻したまま答える。
「今日の君は」
言葉を選ぶように、ほんのわずか間を置いて。
「いつも以上に、綺麗だよ」
声は低く、抑えられている。
だからこそ、冗談ではないと分かる。
胸の奥が、静かに鳴った。
「……それは、褒めすぎでは?」
そう返すと、彼は小さく笑う。
「そう言われると思った」
それから、真面目な声で。
「でも事実だよ。
君は、こういう場でこそ、一段と映える」
王子としての評価。
それでいて、個人に向けられた言葉。
「だから皆、見てしまうんだ」
一歩、自然に導かれる。
「僕も、その一人だからね」
その言葉に、胸の奥が、わずかに熱を持ったのを感じた。
けれど、今の私は無防備ではいられない。
――ここまでは、許してあげるわ。
これ以上踏み込めば、戻れなくなる。
そう、直感的に分かっていた。
「……恐れ入りますわ」
声の調子を、いつもどおりに整える。
感情を伏せ、礼儀としての一言だけを残す。
「綺麗だなんて……光栄です」
微笑みは浅く、線を引くためのもの。
それ以上を望ませない距離。
ユリウス殿下は、わずかに瞬きをしてから、ふっと息を吐いた。
追及はしない。
その代わり自然な動作で、手を差し出す。
「じゃあ」
音楽が、はっきりと耳に届く。
「始めようか」
返事を待たず、けれど強引でもなく。
誘導するように、彼は一歩を踏み出した。
私は、その動きに逆らわず、重ねた手に意識を預ける。
床に落ちる影が、同じ方向へと流れていく。
ステップが始まった瞬間、周囲の視線が一斉に集まったのを感じた。
――もう、始まっている。
逃げ場はない。
けれど、それは自分で選んだ場所だ。
そのとき。
視界の端に、違和感が走る。
淡い光とは異なる、鋭い気配。
人の輪の向こう側、半歩引いた位置。
――セシル殿下。
踊らず、窓際にも寄らず。
ただ、こちらを見ている。
笑っているのか、読めない。
けれどその視線だけは、はっきりとこちらを捉えていた。
私は何事もないふりをして、ステップを踏み続ける。
ユリウス殿下のリードに身を委ねながら。
胸の奥で、小さく息を整えた。
音楽が、静かに終わる。
最後の一歩を踏み、私は一礼した。
遅れて起こる拍手。そして視線の熱が、まだ背に残っている。
「……お疲れさま」
ユリウス殿下は、私の手を話しながら行言った。
その声には、満足よりも確かめるような温度があった。
「ありがとう、ネメシア」
私は、社交用の微笑みを崩さずに頷く。
すると彼はふと、少しだけ声を落とした。
「これからも」
一拍。
「また、どこかで一緒に踊れたら嬉しい」
今夜の続きではない。
先の時間へ向けた、静かな誘い。
――それが分かるからこそ、胸が締まる。
「……そうですわね」
私は、ほんの少しだけ視線を和らげる。
「機会がございましたら」
受け取るけれど、約束しない。
社交として、これ以上ない答え。
ユリウス殿下は、それで十分だと言うように、穏やかに頷いた。
「うん。楽しみにしてる」
それ以上、踏み込まない。
追わない。
その誠実さが、かえって残酷だった。
――もう、ないのに。
心のなかで、そっと言葉を閉じる。
今夜は、これで終わり。
この先も、きっと。
「本日は、ありがとうございました」
私は一礼し、静かに距離を取る。
役目を終えた者として、正しい別れ方。
背を向けた瞬間、ようやく息を吐いた。
――これで、いいのよ。
そう言い聞かせるように、胸の奥で繰り返す。
ルミナの未来が、少しでも明るく照らされるのなら、これくらい何ともない――。




