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悪役令嬢の願い  作者: なむそ
《貴族学校》

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59/95

56.始まりましたね。

 



 舞踏会の前には、ひときわ静かな空間があった。

 厚い扉の向こうから、音楽と人の声が微かに漏れてくる。

 けれど、この場所だけは、切り離されたように落ち着いている。


 私は、その扉の前に立っていた。

 ドレスの裾を整え、手袋の指先をそっと合わせる。

 深呼吸をしても、胸の奥のざわめきは消えなかった。


 ――ここをくぐれば、もう戻れない。


 踊る相手が誰であれ、今日は私の立場を、はっきりと示す。


 私の未来と、

 ルミナの未来。

 すべてが絡み合って、逃げ場はない。


「……本当に、私らしくない」


 小さく、苦笑する。

 いつもなら、もっと早く決めていた。


 感情を切り離し、利を選び、迷いを切り捨てる。

 それができないほど、ユリウス殿下の申し込みは、誠実すぎた。


 断れば、楽だった。

 受ければ、面倒は増える。


 それでも。

 ――私が立つべき場所は、ここなんだ。


 扉の装飾にそっと視線を上げる。

 この扉の向こうにいる人々は、きっと私を好意にも、敵意にも、ただの好奇心にも晒されるだろう。

 それでも、構わない。


「……それが、私よ」


 誰に言うのでもなく、そう呟いた。


 扉の前で立ち止まっていた私の背後で、足音が止まった。

 気配だけで、誰かは分かった。

 それでも、振り向く前に――


「ネメシア」


 名を呼ぶ声は低く、静かだった。

 騒がしさを伴わない、いつもの声。


 私は、ゆっくりと振り返る。

 そこに立っていたのは、正装に身を包んだユリウス殿下だった。


 いつもより整えられた髪。

 けれど、目の色だけは変わらない。


「……殿下」


 私が一礼すると、彼はそれを止めるように、わずかに首を振った。


「いいよ、今は」


 そう言ってから、一歩だけ近づく。

 近すぎず、遠すぎない距離。


 扉の向こうの音楽が、遠くなる。


「この前の返事」


 彼は、私を真っ直ぐに見た。


「今、聞いてもいいかな」


 問いかけは穏やかだった。

 急かすでも、迫るでもない。


「もし、君が断るなら……それは、それで受け止める」


 一瞬、言葉を選ぶような間。


「でも」


 小さく、息を吸って。


「それでも、僕は君と踊りたい」


 理由は語られない。

 派閥も、噂も、立場も。

 ただ、それだけ。


 私は、胸の奥で決めていた答えを、ゆっくりと言葉にした。


「……殿下」


 視線を逸らさずに、言葉を紡ぐ。


「本当に、よろしいのですか」

「君と踊ることが?」

「はい」


 一拍。


「それで、何かが変わるかもしれません」


 彼は、少しだけ笑った。


「もう、変わってると思うよ」


 それから、改めて手を差し出す。


「ネメシア。僕と踊ってくれませんか?」


 私は、その手を見る。

 逃げ道はない。


 でも、それは――自分で選んだ場所だ。

 そっと、手袋越しに指先を重ねる。


「……喜んで、お受けいたしますわ」


 その瞬間、扉の向こうで音楽が高鳴った。

 舞踏会が、始まる。


 扉が、ゆっくりと開かれた。


 溢れ出した光と音楽が、一気にこちらへ流れ込んでくる。

 弦の音、談笑、グラスの触れ合う微かな音。

 それらすべてが、重なり合って広がっていた。


 一歩。


 ユリウス殿下が、私を導くように中へ進む。

 その動きに合わせて、私も足を踏み出した。


 ――その瞬間。

 視線が、集まった。

 はっきりと、空気が変わる。


 囁き合っていた声が、わずかに途切れる。

 好奇の目、驚き、戸惑い。そして確かな確認。


「……あれは」

「ユリウス殿下の隣……」

「ネメシア、令嬢……?」


 誰も、口に出しては言わない。

 けれど、全員が理解している。


 ――この夜の最初の選択が、示されたのだと。


 私は、背筋を伸ばした。

 視線を避けることも、微笑みもしない。

 ただ、殿下の隣に立つ。


 それだけで、十分だった。


 ユリウス殿下の歩調は、少しも乱れない。

 まるで、最初からこうなるとわかっていたかのように。


「……随分と、見られているね」


 小さく、私にだけ聞こえる声。


「ええ」


 同じく、声を落として返す。


「想定の範囲ですわ」


 彼は、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「頼もしいね。でも、君を見てる理由は――それだけじゃないと思う」

「……?」


 私は意味がわからず、首を傾げた。

 すると彼は、視線を前に戻したまま答える。


「今日の君は」


 言葉を選ぶように、ほんのわずか間を置いて。


「いつも以上に、綺麗だよ」


 声は低く、抑えられている。

 だからこそ、冗談ではないと分かる。


 胸の奥が、静かに鳴った。


「……それは、褒めすぎでは?」


 そう返すと、彼は小さく笑う。


「そう言われると思った」


 それから、真面目な声で。


「でも事実だよ。

 君は、こういう場でこそ、一段と映える」


 王子としての評価。

 それでいて、個人に向けられた言葉。


「だから皆、見てしまうんだ」


 一歩、自然に導かれる。


「僕も、その一人だからね」


 その言葉に、胸の奥が、わずかに熱を持ったのを感じた。

 けれど、今の私は無防備ではいられない。


 ――ここまでは、許してあげるわ。


 これ以上踏み込めば、戻れなくなる。

 そう、直感的に分かっていた。


「……恐れ入りますわ」


 声の調子を、いつもどおりに整える。

 感情を伏せ、礼儀としての一言だけを残す。


「綺麗だなんて……光栄です」


 微笑みは浅く、線を引くためのもの。

 それ以上を望ませない距離。


 ユリウス殿下は、わずかに瞬きをしてから、ふっと息を吐いた。

 追及はしない。

 その代わり自然な動作で、手を差し出す。


「じゃあ」


 音楽が、はっきりと耳に届く。


「始めようか」


 返事を待たず、けれど強引でもなく。

 誘導するように、彼は一歩を踏み出した。


 私は、その動きに逆らわず、重ねた手に意識を預ける。

 床に落ちる影が、同じ方向へと流れていく。


 ステップが始まった瞬間、周囲の視線が一斉に集まったのを感じた。


 ――もう、始まっている。


 逃げ場はない。

 けれど、それは自分で選んだ場所だ。


 そのとき。

 視界の端に、違和感が走る。

 淡い光とは異なる、鋭い気配。

 人の輪の向こう側、半歩引いた位置。


 ――セシル殿下。


 踊らず、窓際にも寄らず。

 ただ、こちらを見ている。


 笑っているのか、読めない。

 けれどその視線だけは、はっきりとこちらを捉えていた。


 私は何事もないふりをして、ステップを踏み続ける。

 ユリウス殿下のリードに身を委ねながら。

 胸の奥で、小さく息を整えた。


 音楽が、静かに終わる。

 最後の一歩を踏み、私は一礼した。

 遅れて起こる拍手。そして視線の熱が、まだ背に残っている。


「……お疲れさま」


 ユリウス殿下は、私の手を話しながら行言った。

 その声には、満足よりも確かめるような温度があった。


「ありがとう、ネメシア」


 私は、社交用の微笑みを崩さずに頷く。

 すると彼はふと、少しだけ声を落とした。


「これからも」


 一拍。


「また、どこかで一緒に踊れたら嬉しい」


 今夜の続きではない。

 先の時間へ向けた、静かな誘い。


 ――それが分かるからこそ、胸が締まる。


「……そうですわね」


 私は、ほんの少しだけ視線を和らげる。


「機会がございましたら」


 受け取るけれど、約束しない。

 社交として、これ以上ない答え。

 ユリウス殿下は、それで十分だと言うように、穏やかに頷いた。


「うん。楽しみにしてる」


 それ以上、踏み込まない。

 追わない。

 その誠実さが、かえって残酷だった。


 ――もう、ないのに。


 心のなかで、そっと言葉を閉じる。

 今夜は、これで終わり。

 この先も、きっと。


「本日は、ありがとうございました」


 私は一礼し、静かに距離を取る。

 役目を終えた者として、正しい別れ方。

 背を向けた瞬間、ようやく息を吐いた。


 ――これで、いいのよ。


 そう言い聞かせるように、胸の奥で繰り返す。

 ルミナの未来が、少しでも明るく照らされるのなら、これくらい何ともない――。

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