55.決意しました。
放課後。
人気の少ない回廊で、私は呼び止められた。
「ネメシア様」
振り向くと、そこに立っていたのはセレフィーナ様だった。
今日は、いつもの取り巻きの姿はいない。
「少し、お時間をいただいても?」
断れる口調ではない。
私は小さく頷いた。
「はい」
人の気配を避けるように、彼女は窓際へと歩き出す。
庭園を望む位置で足を止め、振り返った。
「舞踏会のことです」
前置きは、それだけ。
「ネメシア様は……どなたと踊るご予定かしら?」
声は穏やか。
けれど、逃げ道は用意されていない。
「まだ、決めておりませんわ」
事実だけを返す。
「そう」
短く頷いたあと、彼女はわずかに首を傾げた。
「噂では」
一拍。
「ユリウス殿下から、ファーストダンスのお誘いがあったと聞いております」
――やはり。
噂は、私の想像よりも早く、遠くまで届いている。
「……どこから、そんな話が」
「学園という場所は、壁にも耳がありますもの」
責める色はない。
当然の情報として受け取っている口調だった。
「それで?」
柔らかく、しかし逃がさない。
「実際のところは、いかがなのかしら」
私は、ほんの一瞬だけ言葉を探した。
「……お誘いは、受けました」
正直に告げる。
「ただし、返事はまだです」
セレフィーナ様は表情を変えなかった。
むしろ、少し納得したように頷く。
「なるほど」
そして、淡々と続ける。
「では、なぜ――断らないのです?」
その視線は、感情ではなく価値を測るものだった。
「断らない理由、ですか」
私は、わずかに視線を落とした。
迷いではなく、言葉を選ぶための間。
「貴族として――王族からのお誘いを、明確な理由もなく退けるのは、軽率だと考えました」
窓の外に目を向ける。
庭園の緑は、何も知らない顔で揺れている。
「相応の理由があるのなら、断ることもできます。
けれど……今の私には」
一拍。
「その"理由"が、まだ整っていません」
セレフィーナ様の視線を、正面から受け止める。
「ですから、返事を保留しております。
それ以上でも、それ以下でもありません」
それは、嘘ではなかった。
ただ――すべてを語っていないだけ。
――本当は。
理由ではなく、覚悟が整っていない。
断ってしまえば楽だった。
けれど、あの申し込みをなかったことにできるほど、私は冷静でも、強くもなかった。
回廊に、短い沈黙が落ちる。
私は、背筋を伸ばしたまま、次の言葉を待った。
セレフィーナ様は、しばらく何も言わなかった。
庭園へ視線を流し、それからゆっくりと私へ戻す。
「……そう」
それだけだった。
責めることでも、咎めることでもない。
けれどその一言に、噂を聞いた者特有の重みがあった。
「貴女が、そう判断なさったのなら」
わずかに、
口元が緩む。
「それもまた、一つの選択なのでしょう」
その微笑みは、優雅で――どこか距離がある。
「ああ、それと……」
セレフィーナ様は、ふと思い出したように付け足した。
「以前、舞踏会の練習の折に」
ほんのわずか、視線を細める。
「セシル殿下が、貴女をお誘いになったとか」
断定ではない言い方。
確認もしない。ただ、噂として置くだけ。
――それも、届いているのね。
「練習は、あくまで練習ですものね」
自分でそう結論づけるように、微笑む。
「誰を選ぶか、という話ではありません」
否定する言葉を、彼女自身が先に言う。
だからこそ、逃げ場がなくなる。
「しかし」
声は変わらない。
柔らかく、落ち着いている。
「"誰が、誰の手を取る立場にあるか"は、また別のお話」
一歩も踏み出していないのに、距離だけがはっきりと示された。
「社交の場では、とくに」
視線が、まっすぐに私を捉える。
「混同されるのは、あまり好ましくありませんわ」
――練習は練習。
けれど、線は引く。
そう言っている。
「もちろん」
彼女はほんの一瞬、声を和らげて。
「私がセシル殿下の婚約者であるという事実は、今も変わっておりませんから」
それは主張ではなく、前提条件の確認だった。
「ですから」
彼女は、穏やかに微笑む。
「勘違いをなさらないように」
彼女はそう告げ、一礼し静かに回廊を後にする。
残された私は、胸の奥に残る違和感を抱えたまま、動けずにいた。
人の気配が引いた中庭の回廊を、私は一人で歩いていた。
石畳に落ちる夕暮れの影が、やけに長い。
――こんなに悩むなんて、私らしくない。
胸の内で、そう呟く。
本来なら、答えはもう出ているはずだった。
立場、派閥、利害。
貴族として最善の選択を計算し、感情は後回しにする。
それが、私のやり方だった。
なのに。
ユリウス殿下の言葉を思い出すたび、思考が一度立ち止まる。
――踊ってほしい。
彼の真剣な瞳。
理由を並べ立てることもなく、逃げ道を防ぐこともなく。
ただ、選ばせるためだけに差し出された申し込み。
……厄介ですわね。
小さく息を吐く。
ふと、ルミナのことを思い出した。
来年になれば、ルミナがこの学園に入学する。
その時、彼女はどう見られるのか。
元平民。
聖女。
そして――王子の婚約者。
それだけで、向けられる視線は決して穏やかではない。
けれど。
もし、私が。
この舞踏会で、ユリウス殿下の隣に立つのなら。
確実に、あらゆる視線は私へ向く。
良くも悪くも、注目は私が引き受ける。
――それが、彼女にとっての盾になるのなら。
感情で選んだ答えではない。
優しさでも、恋でもない。
"姉として"。
今、私にできる最善は、これだ。
立ち止まっていた足を、私は前に出した。
……覚悟は、決まりましたわ。
誰のための選択か、分かっている。
その結果、私がどう見られるかも。
それでも。
あの申し込みを、無かったことにはできない。
私は、ゆっくりと胸の奥で答えを定めた。
――ユリウス殿下と、踊ろう。
それが、この舞踏会での、私が引き受ける役目だ。




