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悪役令嬢の願い  作者: なむそ
《貴族学校》

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58/95

55.決意しました。




放課後。

人気の少ない回廊で、私は呼び止められた。


「ネメシア様」


振り向くと、そこに立っていたのはセレフィーナ様だった。

今日は、いつもの取り巻きの姿はいない。


「少し、お時間をいただいても?」


断れる口調ではない。

私は小さく頷いた。


「はい」


人の気配を避けるように、彼女は窓際へと歩き出す。

庭園を望む位置で足を止め、振り返った。


「舞踏会のことです」


前置きは、それだけ。


「ネメシア様は……どなたと踊るご予定かしら?」


声は穏やか。

けれど、逃げ道は用意されていない。


「まだ、決めておりませんわ」


事実だけを返す。


「そう」


短く頷いたあと、彼女はわずかに首を傾げた。


「噂では」


一拍。


「ユリウス殿下から、ファーストダンスのお誘いがあったと聞いております」


――やはり。

噂は、私の想像よりも早く、遠くまで届いている。


「……どこから、そんな話が」

「学園という場所は、壁にも耳がありますもの」


責める色はない。

当然の情報として受け取っている口調だった。


「それで?」


柔らかく、しかし逃がさない。


「実際のところは、いかがなのかしら」


私は、ほんの一瞬だけ言葉を探した。


「……お誘いは、受けました」


正直に告げる。


「ただし、返事はまだです」


セレフィーナ様は表情を変えなかった。

むしろ、少し納得したように頷く。


「なるほど」


そして、淡々と続ける。


「では、なぜ――断らないのです?」


その視線は、感情ではなく価値を測るものだった。


「断らない理由、ですか」


私は、わずかに視線を落とした。

迷いではなく、言葉を選ぶための間。


「貴族として――王族からのお誘いを、明確な理由もなく退けるのは、軽率だと考えました」


窓の外に目を向ける。

庭園の緑は、何も知らない顔で揺れている。


「相応の理由があるのなら、断ることもできます。

けれど……今の私には」


一拍。


「その"理由"が、まだ整っていません」


セレフィーナ様の視線を、正面から受け止める。


「ですから、返事を保留しております。

それ以上でも、それ以下でもありません」


それは、嘘ではなかった。

ただ――すべてを語っていないだけ。


――本当は。

理由ではなく、覚悟が整っていない。

断ってしまえば楽だった。


けれど、あの申し込みをなかったことにできるほど、私は冷静でも、強くもなかった。


回廊に、短い沈黙が落ちる。

私は、背筋を伸ばしたまま、次の言葉を待った。


セレフィーナ様は、しばらく何も言わなかった。

庭園へ視線を流し、それからゆっくりと私へ戻す。


「……そう」


それだけだった。

責めることでも、咎めることでもない。

けれどその一言に、噂を聞いた者特有の重みがあった。


「貴女が、そう判断なさったのなら」


わずかに、

口元が緩む。


「それもまた、一つの選択なのでしょう」


その微笑みは、優雅で――どこか距離がある。


「ああ、それと……」


セレフィーナ様は、ふと思い出したように付け足した。


「以前、舞踏会の練習の折に」


ほんのわずか、視線を細める。


「セシル殿下が、貴女をお誘いになったとか」


断定ではない言い方。

確認もしない。ただ、噂として置くだけ。


――それも、届いているのね。


「練習は、あくまで練習ですものね」


自分でそう結論づけるように、微笑む。


「誰を選ぶか、という話ではありません」


否定する言葉を、彼女自身が先に言う。

だからこそ、逃げ場がなくなる。


「しかし」


声は変わらない。

柔らかく、落ち着いている。


「"誰が、誰の手を取る立場にあるか"は、また別のお話」


一歩も踏み出していないのに、距離だけがはっきりと示された。


「社交の場では、とくに」


視線が、まっすぐに私を捉える。


「混同されるのは、あまり好ましくありませんわ」


――練習は練習。

けれど、線は引く。


そう言っている。


「もちろん」


彼女はほんの一瞬、声を和らげて。


「私がセシル殿下の婚約者であるという事実は、今も変わっておりませんから」


それは主張ではなく、前提条件の確認だった。


「ですから」


彼女は、穏やかに微笑む。


「勘違いをなさらないように」


彼女はそう告げ、一礼し静かに回廊を後にする。

残された私は、胸の奥に残る違和感を抱えたまま、動けずにいた。



人の気配が引いた中庭の回廊を、私は一人で歩いていた。

石畳に落ちる夕暮れの影が、やけに長い。


――こんなに悩むなんて、私らしくない。


胸の内で、そう呟く。

本来なら、答えはもう出ているはずだった。


立場、派閥、利害。


貴族として最善の選択を計算し、感情は後回しにする。

それが、私のやり方だった。


なのに。

ユリウス殿下の言葉を思い出すたび、思考が一度立ち止まる。


――踊ってほしい。

彼の真剣な瞳。

理由を並べ立てることもなく、逃げ道を防ぐこともなく。

ただ、選ばせるためだけに差し出された申し込み。


……厄介ですわね。


小さく息を吐く。


ふと、ルミナのことを思い出した。

来年になれば、ルミナがこの学園に入学する。

その時、彼女はどう見られるのか。


元平民。

聖女。

そして――王子の婚約者。


それだけで、向けられる視線は決して穏やかではない。


けれど。


もし、私が。

この舞踏会で、ユリウス殿下の隣に立つのなら。


確実に、あらゆる視線は私へ向く。

良くも悪くも、注目は私が引き受ける。


――それが、彼女にとっての盾になるのなら。


感情で選んだ答えではない。

優しさでも、恋でもない。


"姉として"。


今、私にできる最善は、これだ。

立ち止まっていた足を、私は前に出した。


……覚悟は、決まりましたわ。


誰のための選択か、分かっている。

その結果、私がどう見られるかも。


それでも。

あの申し込みを、無かったことにはできない。

私は、ゆっくりと胸の奥で答えを定めた。


――ユリウス殿下と、踊ろう。


それが、この舞踏会での、私が引き受ける役目だ。



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