54.どうすればいいの?
舞踏会の数日前のことだった。
午後の授業へ向かう途中、回廊は人の流れが途切れかけていた。
窓から差し込む光が長く伸び、石床に淡い影を落としている。
私は一人で歩いていた。
――正確には、一人でいるつもりだった。
「ネメシア」
呼び止める声に、足を止める。
振り向くと、少し距離を保った位置にユリウス殿下が立っていた。
「一人だった?」
「ええ。殿下も?」
彼は頷き、私の横に並ぶ。
肩が触れない程度の距離。いつもの、あの間合いだった。
数歩、並んで歩いたあと。
彼は、ほんのわずかに呼吸を整えるような間を置いた。
「……舞踏会のことなんだけど」
胸の奥が静かに緊張する。
「ファーストダンスの相手は、もう決めている?」
問いは穏やかだった。
探るようでも、押すようでもない。答えが「ない」ことを前提にしている聞き方。
私は、すぐには答えなかった。
「……いえ。まだです」
そう答えると、彼は歩みを止めた。
私も、それに合わせて立ち止まる。
「僕と、踊ってほしい」
真っ直ぐで、逃げのない目だった。
余計な言葉はない。理由も、飾りもない。
だからこそ、迷ってしまった。
「……その答えは今すぐに?」
私は逃げるかのように、問いかけた。
「いや。……君には考える時間が必要なのも、事情があることも、分かっている」
――分かっている、という言葉が重かった。
ルミナのこと。派閥のこと。舞踏会という"場"が持つ意味。
すべてを口にせずに、彼は理解している。
「……ありがとうございます」
私は、少しだけ視線を伏せた。
即座に断れなかった。けれど、笑って受け取ることもできなかった。
「光栄ですわ。殿下のお誘いは」
言葉を選ぶ間が、回廊に落ちる。
遠くから生徒たちの足音が聞こえ、また消えていく。
「ですが……少し、考えさせてください」
逃げでも、保留でもある返答だ。
それでも私は、正直にそう言うしかなかった。
ユリウス殿下は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
落胆というより――受け止めるための間。
「うん」
短く、穏やかに頷く。
「……正直に言えば、引き留めたい気持ちはあるけどね」
冗談めかした口調。
けれど、その奥にある本音は隠れていなかった。
「だから」
少しだけ、声を落とす。
「当日まででいい。君自身が選んでくれれば」
――選ばせる。
それは、彼らしい誠実さだった。
すると、彼はほんの少しだけ照れたように付け足す。
「でも……断られる可能性があるって考えるのは、正直、あまり得意じゃない」
私は思わず、口元を緩めた。
「殿下らしいですわ」
「そう?」
「ええ。とても」
回廊の向こうから、声が近づいてくる。
それを合図にしたように、彼は一歩引いた。
「じゃあ、良い返事を待ってるよ」
「……はい」
彼は、満足そうに微笑み、何も言わずに授業へ向かって歩き出した。
その背中を見送りながら、私は胸の奥で静かに思う。
――優しさは、時に決断を難しくする。
けれど、それでも……
あの真っ直ぐな申し込みを、無かったことにはできなかった。
―――――――――
夜。
「それでね、お姉様」
目の前のルミナは、最近あった出来事を楽しそうに話していた。
こうして向かい合って話す時間は、いつの間にかあたりまえになっていた。
「……ねえ、ルミナ」
私は、手にしていた紅茶をそっとソーサーに戻した。
「そろそろ、学校行事で舞踏会が行われるの」
気づけば、言葉が出ていた。
「それで…その……」
思った以上に、言葉を選ぶのが難しい。
ルミナは不思議そうに、私の顔を見つめている。
「……ユリウス殿下から、ファーストダンスを申し込まれたわ」
そう告げて、私は視線を逸らした。
「……まあ!」
弾んだ声が聞こえた。
思わず視線を戻すと、ルミナは口元を両手で覆っていた。
その仕草から、喜びを隠しきれていないのが分かる。
「素敵です、お姉様。ファーストダンスだなんて……きっと、忘れられない夜になるわ」
その反応に、私は思わず瞬きをした。
――喜ぶの?
喉の奥に、言葉にならない疑問が引っかかる。
「……ルミナ」
呼びかけると、彼女は不思議そうに首を傾げた。
「どうしたの?」
その顔には、曇りがない。
戸惑いも、ためらいも、ほんの一欠片も。
「……その」
私は一瞬、言葉を探した。
「ユリウス殿下は……貴女の婚約者よ?」
遠回しですらない指摘。
それでも、声は強くならなかった。
ルミナは、きょとんとしたまま瞬きをして――
それから、ふわりと笑った。
「ええ。そうね」
あまりにも、あっさりと告げた。
「でも、それとこれとは別だと思うの」
まるで当然のことのように。
「それに……」
彼女は、少しだけ声を柔らかくした。
「お姉様が選ばれた、というのが……私は嬉しいんです」
胸の奥が、ひくりと痛んだ。
――選ばれた。
それは、本来貴女の立場で、貴女の言葉で、語られるべきものなのに。
「あ、深い意味はないよ? 私がいない時に選ぶ女性の見る目が、いいって思っているの」
ルミナの言葉が、静かに落ちた。
「……そう、なの」
私は、カップの中の紅茶を見つめたまま呟いた。
水面に映る自分の顔は、思ったよりも落ち着いていた。
「ユリウスは、誠実な方だと思うわ。だから……お姉様を選んだ、というなら」
少しだけ、言葉を探すように間を置いて。
「きっと、それは"間違い"じゃない」
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
――間違いじゃない。
それは、誰に向けた言葉なのか。
「……あなたは」
私は、思わず問いかけていた。
「ユリウス殿下のことを、どう思っているの?」
ルミナは、少しだけ考えるように視線を落とした。
カップの縁を指先でなぞり、紅茶の香りを吸い込んでから、静かに口を開く。
「……どう、って言われると」
小さく、苦笑する。
「政略による婚約関係よ。最初から、気持ちの問題じゃないって分かってる」
その声は落ち着いていた。
言い聞かせるようでも、諦めるようでもない。
「ユリウスも、私も。役割を果たすってだけ」
そこで一拍。
「だから、お姉様がファーストダンスを踊ることを、私は気にしていないわ」
きっぱりとした言葉。
「むしろ……」
ルミナは顔を上げ、柔らかく笑った。
「殿下が"ちゃんと選べる人"だって分かって、少し安心したくらい」
胸の奥が、また小さく痛む。
――本当に、気にしていないのだろうか。
私は、彼女の指先を見ていた。
さっきから、無意識にカップを撫でている。
熱はもう引いているのに、そこから離れようとしない。
「……でもね」
ルミナは、ほんのわずかに声を落とした。
「最近は……」
言葉が、途中で止まる。
一瞬だけ迷いが滲んで、すぐに消えた。
「ユリウスが笑うと、少しだけ嬉しいって思うことはあるわ」
まるで、取るに足らないことのように。
「それだけよ。恋とか、そういう大袈裟なものじゃないの」
――違う。
私は、胸の内でそっと否定した。
それは、まだ名前を持たないだけの感情だ。
自分で抑え込んでいるだけの、芽生えだ。
「……そう」
私は、静かに相槌を打った。
ルミナは、何事もなかったように微笑む。
けれど、その笑顔はほんの少しだけ、以前より柔らかい。
――気にしていない、という言葉は本当だ。
けれど、好きになりかけていることまで、否定できていない。
それを見抜いてしまったのは、
義姉だからなのか、それとも――。
私は、カップに口をつけた。
紅茶は、少しだけ苦く感じられた。
ルミナとの話が終わり、彼女が部屋を出ていく足音が遠ざかる。
扉が閉まったあと、私はしばらくその場に立ち尽くしていた。
――静かだ。
さっきまで確かにあった気配が、すっと消えている。
暖炉の小さな音と、時計の針の進む音だけが、やけに大きく感じられた。
私は、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。
テーブルの上には、飲みかけの紅茶。
もう冷たくなっているのに、片付ける気になれなかった。
「……選ばれた、か」
思わず、声に出る。
ルミナの言葉が、何度も胸の中で反響する。
無邪気で、善意に満ちていて。
だからこそ、逃げ場がない。
――間違いじゃない。
――気にしていない。
本当に、そうなのだろうか。
私は、自分の胸に手を当てた。
そこには、確かに鼓動がある。
静かだけれど、確実に速くなっている。
ユリウス殿下の声。
回廊で向けられた、真っ直ぐな眼差し。
『僕と、踊ってほしい』
あの言葉を思い出すたび、胸の奥が熱を帯びている。
嬉しい。
――それは、否定できない。
けれど。
ルミナの、あの笑顔が浮かぶ。
「ユリウスが笑うと、少しだけ嬉しい」
あれは、気にしていない人の言葉ではない。
まだ名づけていないだけの、確かな感情だ。
「……私が、踏み込んでいい場所じゃない」
ぽつりと、零れた。
もし私が、あの手を取ったら。
舞踏会の夜、最初の音楽が流れる中で、彼と踊ったら。
それは――誰かの可能性を、奪うことになる。
私は、カップを持ち上げ、一口飲んだ。
やはり、苦い。
「……保留、よね」
誰に言うでもなく、そう呟く。
選ばないことで、傷つけない。
決めないことで、壊さない。
――それは、本当に"優しさ"なのだろうか。
答えは、まだ見えなかった。
私は、カップを静かに置き、窓の外へ視線を向ける。
夜の公爵家は、穏やかで、何も知らない顔をしている。
舞踏会まで、あと数日。
その時間が、こんなにも重く感じられるとは思わなかった。




