53.仕方ないですわね。
数日後。
舞踏会の練習は、午後の特別授業として組み込まれていた。
広い講堂の床は磨き上げられ、窓から差し込む光が淡く反射している。
「では、まずは基本のステップから」
教師の声が響く。
「本番は正式な舞踏会です。必ず男女で組み、練習を重ねること。
今からペアを決めなさい」
一瞬、空気がざわめいた。
視線が交錯する。ためらいと期待が、同時に動く。
私は、周囲の動きを静かに見渡していた。
その中で――
ユリウス殿下と、視線が合う。
彼は一瞬だけ迷うように足を止め、それからこちらへ向かって歩いてきた。
「ネメシア、僕と――」
言葉が続く前に。
「おい、俺と組め」
低く、割り込む声。
振り向くまでもなく、分かった。
目の前に立っていたのは、セシル殿下だった。
彼は迷いなく手を差し出していた。
掌は上向き。命令に近いのに、強引さはない。
――断る、という選択肢が最初から想定されていない出し方だった。
私は、一瞬だけその手を見た。
視界の端で、ユリウス殿下の気配を感じる。
言葉にならなかった呼びかけが、空気の中に残っているのが分かる。
……そうですわね。
胸の奥で、小さく息を吐いた。
感情で選ぶなら、迷う理由はない。
けれど、私は表向きは貴族派に属している者。
ここでセシル殿下の手を取らなかった場合――。
……考えるのも面倒ですわね。
これから先のことを考え、私は表情を崩さないまま、ゆっくりと手を伸ばした。
「……よろしくお願いいたします、セシル殿下」
指先が、彼の掌に触れる。
その瞬間、セシル殿下が楽しそうに口角を上げたのが分かった。
「判断が早ぇな」
セシル殿下は、私の手を取ったまま、講堂の中央へと歩き出した。
歩幅は自然で、こちらに合わせている――ように見えて、実際には主導権を完全に握っている。
「力、抜け」
低い声。
命令口調なのに、不思議と不快感がない。
私は言われた通り、肩の力を抜いた。
すると、彼の手がほんのわずかだけ位置を変える。
――近い。
社交距離としては正しい。
けれど、意識させるには十分すぎる距離だった。
「……随分と、慣れていらっしゃるのですね」
「まあな」
軽く答える。
「こういうのは、剣と似てる」
「剣、ですか」
「相手の動きを読んで、先に出る。それだけだ」
――さすが、直感型ですね。
音楽が流れ始める。
教師の合図で、ゆっくりとステップが刻まれた。
セシル殿下の動きは、驚くほど滑らかだった。
強引さはなく、導き方も的確。
まるで、こちらが自然に動いているかのように錯覚させる。
――上手い。
これは、素直に認めざるを得ない。
「表情、いいな」
不意に、耳元で囁かれる。
「今の顔」
「……どういう意味ですの」
「冷静に見せてるつもりで、ちょっと警戒してる」
楽しそうな声。
「そういうとこ、嫌いじゃねぇ」
私は、思わず一歩分だけ距離を取ろうとした。
けれど、その動きを読んだように、彼はすぐに合わせてくる。
逃げられない。
けれど、囲われてもいない。
――逃さない距離。
「セシル殿下」
低く、名前を呼ぶ。
「ここは、練習の場ですわ」
「分かってる」
即答。
「だから、これ以上はしねぇよ」
……それが、できる人ほど厄介なのだと、彼は理解しているのだろうか。
ふと、視線の先にユリウス殿下が見えた。
別の相手と組みながらも、こちらを見ている。
視線が合う前に、私はすぐに目を逸らした。
「……あーあ」
セシル殿下が、小さく笑う。
「今の、見せたくなかった顔だな」
「何のことでしょう」
「さあ?」
彼はとぼけた様子だった。
「でもまあ」
ステップを踏みながら、楽しげに続ける。
「やっぱり、お前は面白ぇ」
――危険だ。
この人は、気まぐれで、
人を駒のように扱うように見える男だ。
けれど同時に――
こちらの選択を、尊重するふりをするだけの知性がある。
「安心しろ」
また、低く。
「今は、ただの練習だ」
……"今は"。
その含みが、何よりも厄介だった。
音楽が流れる中、私は表情を崩さない。
けれど、ステップを踏み続けるうちに、私は少しずつ余裕を失っていた。
――まずい。
頭では理解している動きなのに、音楽が進むにつれて、足の位置がずれていく。
セシル殿下の導きは的確すぎて、つい身を委ねてしまう。
……次は、右。
そう思った瞬間、半拍遅れた。
「――っ」
鈍い感触。
「……あ」
やってしまった。
私の靴の先が、はっきりとセシル殿下の足を踏んでいた。
「……」
一瞬、時が止まったように感じた。
けれど。
「……はは」
彼は、声を殺して笑った。
「悪いですわ! 今のは――」
「いい」
即座に遮られる。
「ちゃんと、力入れて踏めてるじゃねぇか」
「それは、褒め言葉ではありませんよね」
私は、思わず視線を伏せた。
足を踏むなど、完全に失態だ。
しかし、セシル殿下は動じない。
それどころか、ほんの少しだけ距離を詰めてくる。
「力抜けって言っただろ」
「抜いているつもりです」
「"つもり"、な」
彼は、低く楽しそうに笑う。
「苦手なんだな、ダンス」
「……ええ。得意だと申した覚えがありません」
私は開き直って告げた。
すると、彼は急に歩調を落とした。
音楽に合わせつつ、動きを簡略化していく。
「なら、無理すんな」
手の位置が、ほんの少し安定する。
「踏まれるのは、慣れてる」
「どういう経験を積まれているのですか」
「さあな」
軽く、肩をすくめて。
「剣でも舞踏でも、相手がミスった瞬間にどう支えるか、ってのは同じだ」
私は、驚いて顔を上げた。
――怒らない。
――責めない。
――支えることを、当然のように選ぶ。
「それに」
彼は、子どものように悪戯な笑みを浮かべる。
「お前の弱点、知れたしな」
「……では」
私は、静かに言い返す。
「覚悟なさってくださいませ。たくさん、踏んで差し上げますわ」
私がそう告げると、セシル殿下は一瞬だけ目を細めた。
「いいぜ」
軽い声音。
「その代わり――」
彼は、わずかに身を屈める。
囁くほどではないが、他人には届かない距離。
「逃げんなよ。最後まで、俺が面倒見る」
心臓が、わずかに跳ねた。
脅しでも、命令でもない。
それでいて、選択肢が最初から削られている言い方。
「……物騒ですわね」
そう返すのが、精一杯だった。
「そうか?」
セシル殿下は楽しそうに笑い、再びステップを踏ませる。
「踊りってのは、途中で放り出す方が危ねぇんだよ」
彼の手は、相変わらず安定していた。
導きは強引なのに、こちらが崩れる前に必ず支えてくる。
――逃げ場は、最初から用意されていない。
けれど、不思議と恐怖はなかった。
視線の先で、ユリウス殿下がこちらを見ている。
声をかけてくるわけでも、近づいてくるわけでもない。
ただ、静かに。
握られた手を振りほどくこともできた。
けれど私は、そうしなかった。
音楽が続く限り、この距離は保たれる。
だからこそ今は――
目の前の彼に、身を預けるしかなかった。




