52.どうしたらいいのか、分からないわ。
入学してから、半年が経った。
季節は一つ巡り、学園の空気にも、少しだけ落ち着きが生まれている。
授業の進度も、人間関係の距離感も――おおよその輪郭が、見えてくる頃だった。
図書室は、相変わらず静かだ。
高い天井。
規則正しく並ぶ書架。
紙とインクの匂いが、ゆるやかに漂っている。
私とユリウス殿下は、窓際の長机を挟んで向かい合っていた。
机の上には、開かれた占星術書と、書き込みの増えた星図。
「この配置だと……」
ユリウス殿下が、紙の上を指でなぞる。
「火の星が強すぎる」
「ええ。感情が先行しやすい配置ですわ」
私は頷きながら、余白に注釈を書き込む。
「争いの兆し、というより……」
「煽られやすい、か……」
彼は苦笑した。
「以前の僕なら、きっと見落としていたと思う」
そう言ってから、ふと視線を伏せる。
「……ネメシア」
少しだけ、声色が変わった。
「最近、学園で……妙な話を耳にするんだ」
私は、ペンを止めなかった。
「噂、ですか?」
「ええ」
言葉を選ぶような間。
「貴女が……いろいろな方と親しい、と」
私は、ようやく顔を上げた。
「随分、要約された表現ですわね」
私は短く、笑った。
「……笑い事なの?」
ユリウス殿下は、星図から視線を逸らさない。
けれど、その指先が、わずかに紙を押さえる力を強めているのが分かった。
「噂というものは、大抵そういうものですもの」
「でも……」
彼は言い淀み、それから静かに続けた。
「貴女が、誰とでも親しげに話している、と。
それを……良く思わない人もいる」
私は、ペンを置いた。
「殿下」
視線を合わせる。
「事実ではありませんわ」
即答だった。
「必要以上に親しくしている方はいません。殿下方以外とも、学業上の会話をしているだけです」
――大半は、噂を面白がって声をかけてくるだけ。
けれど、それを伝えても彼は余計に怒るだけ。
正義感が強いがゆえに。
「それだけで、"侍らせている"なんて思われるのは――」
私は小さく息を吐く。
「想像力が、豊かなだけでしょうね」
ユリウス殿下は、少し困ったように眉を寄せる。
「……まさか、殿下」
私は、わずかに肩を竦めた。
「そんな噂を、本気で信じていらっしゃるのですか?」
私は小さく笑って、殿下を見た。
彼は、すぐには答えなかった。
星図に落ちていた視線を、ゆっくりと上げる。
「信じていないよ」
即答だった。
「噂が、どれだけいい加減なものかは分かっている」
それから、ほんの一拍。
「ただ……」
言葉を探すように、指先が紙の端をなぞる。
「貴女が、僕以外の誰かと――」
視線が揺れる。
「……親しくしている可能性を、考えてしまっただけ」
声音は低く、抑えられている。
けれど、隠しきれない感情が滲んでいた。
「妬いている、というものではない……」
言いかけて、彼は小さく息を吐いた。
「……いや。少し、妬いているのかもしれないね」
私は、言葉を失った。
冗談のつもりで投げた問いが、思いがけず深いところに触れてしまったようで。
「……」
返す言葉が、見つからない。
図書室の静けさが、いつもより重く感じられ――
私は、自分の耳元が熱を帯びているのに気づいた。
――その時。
「ユリウス?」
気負いのない声が、背後から落ちてきた。
私とユリウス殿下は同時に顔を上げる。
書架の向こうから現れたのは、背の高い青年。
金の髪を無造作にまとめ、制服の着こなしもどこか軽い。
紫色の瞳をしていて、どことなくユリウス殿下の面影を感じた。
「兄上……?」
――兄。
その呼び方で、すぐに理解した。
彼は、第一王子アレクシス。
「こんなところにいたのか」
アレクシス殿下は笑いながら手を振る。
「教室に行ったら、ここにいると聞いてな」
そう言って、机の上を覗き込む。
「占星術?」
「……ええ。少し、勉強を」
「へぇ。珍しい」
興味半分、面白がり半分。
けれど、探るような重さはなかった。
視線が、自然に私へ向いた。
「彼女は、ルミナの姉です」
私は、軽く姿勢を正した。
「初めまして、アレクシス殿下。
ネメシア・ルーインハイトと申します」
形式は守りつつ、深くなりすぎない礼。
「おお、丁寧だね」
アレクシス殿下は、にこりと笑った。
「知ってるとおり、こいつの兄だ。堅苦しいのは苦手だから、気楽にしてくれ」
その言い方に、場の空気が少し緩む。
「……ありがとうございます」
彼は少し考える素振りを見せた。
「先ほど君たちの話を聞いたんだが……
学園では、あまり良くない噂も立っているようだな」
アレクシス殿下は肩をすくめ、一度私を見てから、あっさりと言う。
「噂は噂だろ。君はそんな風に見えないね」
本当に、気にしていない様子だった。
「目立つ人がいれば、話は勝手に膨らむ。特に、俺たち王族が絡んでればなおさらだ」
一拍置いて、柔らかく続ける。
「君が気に病む必要はないよ、ネメシア嬢。
俺たちは事実を見るのが王族の仕事だからさ」
軽い口調。けれど、言葉には芯があった。
「……ありがとうございます」
私は、素直にそう答えた。
アレクシス殿下は満足そうに笑い、
「じゃあ、邪魔したね」
と、ひらりと手を振った。
「勉強、ほどほどに。
特にユリウス、お前は熱が入ると周りが見えなくなるから」
「余計なお世話です」
そう言い返すユリウス殿下を見て、アレクシス殿下は楽しそうに笑いながら去って行った。
しばらくの沈黙の後、ユリウス殿下が小さく息を吐いた。
「……兄上は、ああいう人なんだ」
どこか、照れの混じった声。
「剣も、判断も、いつも一番早い。
周囲の空気も、必要な距離も……全部、自然に掴んでしまう」
指先が、紙の縁をなぞる。
「僕には、真似できない」
その言葉は、卑下ではなく。
静かな真実として落とされていた。
「……尊敬しているんだ」
私は、彼の横顔を見た。
飾らず、誇らず。
それでも、確かな敬意がそこには滲んでいる。
私は、少しだけ視線を落としてから、静かに口を開いた。
「ええ。確かにアレクシス殿下は、ひと目見ただけでもすごい方だと思いましたわ」
言葉を選びながら続ける。
「私を見てすぐに判断したあの瞳……
あの即断即決の速さは、ユリウス殿下とは少し違うものです」
そこで、一拍。
「ですが」
私は、ユリウス殿下へ視線を戻した。
「殿下は、そうである必要はありません」
声は、柔らかいまま続く。
「殿下は立ち止まって、考える方です。
周囲の声を聞き、流れを読み、選択の意味を確かめてから進む」
星図の上に、そっと指先を置く。
「それは、弱さではないと……私は思います」
ユリウス殿下は、驚いたように目を瞬かせた。
「アレクシス殿下に良いところがあるように、
殿下にも…殿下にしかない良いところがあります」
わずかに微笑む。
「ですから……比べる必要は、ありません」
静かに、けれど確かに。
「殿下は…殿下にしかなれない方ですもの」
図書室の静けさの中で、その言葉は余韻を残して落ちた。
ユリウス殿下は、すぐには何も言わなかった。
けれど――星図を押さえていた指先の力が、ほんの少しだけ、緩んだ。
「……随分と、買いかぶってくれるね」
口調は軽い。
けれど、どこか落ち着かない。
「君からそんな言葉が聞けるなんて、光栄だね」
少しからかうような言葉。
けれど、私を見る視線は、先ほどまでよりも柔らかかった。
「……まあ、酷いですわね。事実を述べただけですのに」
そう返すと、彼は小さく笑った。
「ありがとう、ネメシア」
視線は合わない。
それでも、言葉は逃げなかった。
「……君にそう言われるなら、少しは自分を信じてもいい気がする」
私は、何も答えなかった。
ただ、星図に視線を戻す。
図書室の静けさが、先ほどよりも穏やかに感じられた。
――彼が、ほんの少し前を向いたことを、星図はきっと記録しない。
けれど私は、それで十分だと思った。




