51.貴女方に言われる筋合いはありません。
数日が経った。
最初に違和感を覚えたのは、廊下だった。
すれ違う令嬢たちの視線が、わずかに遅れる。
一瞬、私を見て――それから、ひそひそと口元を隠す。
……最近は少なくなったものの、以前から視線には慣れている。
けれど今回は、質が違うのが分かった。
教室に入ると、会話が途切れる。
完全な沈黙ではない。
私が席に着いた途端、話題が変わるだけ。
「……」
私は何も言わず、いつも通りノートを開いた。
それから、再び何日か経った頃。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る少し前。
私は教室へ戻るため、廊下を歩いていた。
「ネメシア様」
背後から、控えめな声。
振り向くと、同じ学年の令嬢が三人。
全員、穏やかな笑みを浮かべている。
「少し、お時間よろしいかしら?」
拒否する理由は、表向きには見当たらなかった。
「構いませんわ」
立ち止まると、彼女たちはほっとしたように微笑んだ。
――この時点では、まだ。
「急に呼び止めてしまって、ごめんなさい」
「でも、どうしてもお伝えしておいた方がいいと思って」
"あなたのために"。
そう前置きされる忠告ほど、厄介なものはない。
彼女たちに促されて、空き教室へ入った。
扉が閉まる音は、驚くほど静かだった。
「最近……殿下方と、よくご一緒されているでしょう?」
言い方は、柔らかい。
事実確認の形をしている。
「図書室でも、廊下でも…」
「悪目立ちしている、という意味ではないのよ?」
慌てて、彼女は付け足した。
「ただ……誤解されやすい立場だと思うの」
私は黙って、次の言葉を待った。
「ユリウス殿下も、セシル殿下も……学園では、特別な存在でしょう?」
同意を求める視線。
否定できない事実。
「だからこそ……」
そこで、一拍。
「近くにいる方が、いろいろ言われてしまうの」
「あなたが」という言葉は、誰も口にしなかった。
「私たち、あなたが傷つくのを見たくなくて」
「噂って、一度立つと厄介ですから」
善意。
少なくとも、表向きは。
「少しだけ、距離を置いた方がいいんじゃないかしら」
ようやく本題ね。
「殿下方のためにも」
「あなたのためにも」
そこで、私はようやく口を開いた。
「……そうですか」
声は、思ったより落ち着いていた。
「ご忠告、ありがとうございます。
私を案じてくださっている、と受け取ってよろしいのですね」
彼女たちは、ほっとしたように頷く。
「ええ、もちろん」
「決して責めているわけじゃ……」
「では」
私は、静かに続けた。
「一点だけ、教えてくださいな」
空気が、わずかに変わる。
「"距離を置く"とは、具体的にどの程度でしょう?」
「……それは」
一人が、ほんの一瞬だけ言葉に詰まった。
「必要以上に親しくしないという意味ですわ。
廊下で立ち話をしたり、二人きりで過ごしたり……そういうことを、控えるだけで」
――それができたら私だって嬉しいわ。
私は令嬢の言葉に、心のなかで告げた。
別の令嬢が、補足するように続ける。
「殿下方は、お忙しい立場ですもの。
お気遣いするのも、私たちの役目ですし」
――なるほど。
"私のため"から、"殿下方のため"へ。責任の置き方を、静かにすり替えてきた。
私は、小さく首を傾げた。
「確認なのですが」
視線を一人ずつに向ける。
「それは、殿下方ご本人のご意向、という理解でよろしいのかしら?」
空気が、わずかに固まった。
「い、いえ……」
「そういうわけでは……」
即答できない。
それが、答えだった。
「そう」
私は、ふっと微笑む。
「では、それは"殿下方の意思"ではなく――あなた方個人の判断、ということですのね」
言葉は丁寧。けれど、逃げ道を一つずつ塞いでいく。
「私、存じ上げませんでした」
声色を、わずかに柔らかくする。
「学園には、王族の交友関係を管理する役目も、存在するのですね」
「ち、違います、そんな……!」
慌てて否定する声。
「私たちは、ただ……」
「ただ、殿下方をお慕いしているだけで……」
「ええ」
私は、ゆっくりと頷いた。
「お気持ちは、よく分かりますわ」
その言葉に、令嬢たちは一瞬だけ安堵した表情を浮かべる。
――けれど、それは続かなかった。
「ですが」
声を低くも強くもしない。
ただ、淡々と。
「"お慕いしている"という理由で、殿下方の交友関係に口を出すのは」
一拍置く。
「学園の生徒としても、貴族としても――少し、分を越えていませんか?」
沈黙が落ちた。
「そ、そんなつもりでは……」
「私たちは、ただ……」
言葉が続かない。
視線が泳ぎ、誰も私と目を合わせなくなる。
「ご安心くださいな」
私は、最後にそう告げた。
「私自身、殿下方の評判を損なうつもりはありません。
ですから、"距離"についても――」
わずかに微笑む。
「私が必要だと判断した分だけ、きちんと保っております」
それ以上、譲る気はない。
そう、はっきり伝わるように告げた。
「……そう、ですか」
沈黙を破ったのは、最初に声をかけてきた令嬢だった。
その声は、わずかに硬い。
「やはり……お分かりにならないのですね」
口元に、かろうじて笑みを貼り付ける。
「殿下方が、どれほど注目される存在か。
その立場の重さを……」
言い終える前に、言葉が途切れた。
――言えば言うほど、正当性が薄れていくのを、自分でも感じたのだろう。
別の令状が、少し強めに続ける。
「忠告は、しましたから。
後で何が置きても……私たちは、知りません」
それは、脅しにも忠告にもなりきらない、曖昧な言葉だった。
「ええ」
私は、静かに頷く。
「ご丁寧に、ありがとうございました」
それ以上、何も言わない。
令嬢たちは、互いに視線を交わし――揃って、踵を返した。
扉が開き、閉まる。
足音が、廊下の奥へと遠ざかっていく。
私は、しばらくその音を聞いてから、軽く息を吐いた。
――捨て台詞は、余裕のない者の特権だ。
机の上に視線を落とす。
次に動くのは、彼女たちか。
それとも――もっと、分かりやすい"敵"か。
私は、何事もなかったように教室へと向かった。
―――――――――
数日が経った昼休みの中庭。
噴水の側で、数人の令嬢が輪になっていた。
手には紅茶。
声は、周囲に溶ける程度の音量。
「……ねえ、聞いた?」
「何が?」
一人が、意味ありげに視線を巡らせてから、声を落とす。
「ネメシア・ルーインハイト様のこと」
名前が出た瞬間、別の令嬢が小さく眉を動かした。
「ああ……最近、殿下方とよく一緒にいるっていう」
「そうそう。この前図書室でも見かけたわ」
「あら、私は廊下で見たわ」
彼女たちは思い出すように話す。
「……最近、ちょっと行き過ぎじゃない?」
「ええ。それに殿下方だけじゃないでしょう?」
「上級生の貴族子息とも話していたって聞いたわ」
次々と言葉が出る。
「訓練場の近くでも、男性方と一緒だったとか……」
事実は、どれも断片。
けれど、それらは自然に一つの像へとまとめられていく。
「……男性が多すぎない?」
誰かが、冗談めかして言う。
「まるで、選んでいるみたい」
「侍らせている、って言われてるわ」
「まあ……」
「言い過ぎでは?」
一人が、控えめに制した。
「さすがに、それは……」
「本人は、そんなつもりじゃないかもしれないでしょう?」
一瞬、空気が緩む。
けれど――。
「でも、忠告はされたのよね?」
「ええ」
「それでも、距離を置く気はないって」
「だったら……」
声が、低くなる。
「自覚がない、は通らないんじゃない?」
「むしろ、分かってやってるのかも」
「殿下方だけじゃ満足できなくて」
くすくすと笑いが起きる。
「いろんな男性に囲まれて……品のないこと」
その言葉に、誰も反論しなかった。
噂は、もう"話題"で収まらない。
「まあ……」
最後に、誰かが締める。
「いずれ、殿下方も気づくでしょう」
「どんな人なのか」
そう言って、彼女たちは歩き出す。
その背後で、中庭の空気だけが、静かに濁っていった。




