50.目をつけられてしまいました。
図書室を出ると、空気が少しだけ変わった。
静かな廊下のはずなのに、どこか張りつめていた。
私は廊下を進みながら、先ほどの会話を頭の奥へ押し込めた。
――今は、切り替えよう。
そう思った、その時。
「随分と、楽しそうだな」
背後から、気だるい声。
……次から、次へと。
足を止める前に、分かってしまった。
この間の取り方。廊下に溶け込むような存在感。
「今度は、貴方ですか」
振り返らずに言う。
「冷たいねぇ」
軽く笑う声。
振り向くと、そこにいたのは――壁に寄りかかり、腕を組んだままの男。
セシル殿下だった。
「ユリウスと、ずいぶん仲がいいじゃねぇか」
視線が、私の顔をなぞる。
感情ではなく、誰と何を話したかを探る目。
「誤解ですわ」
私は、表情を変えない。
「図書室での私語は、禁止されておりますもの」
「はっ」
短く、鼻で笑う。
「今のは、そういう否定じゃねぇよ」
一歩、近づかれる。
距離は近いのに、触れない。わざとだ。
「――あいつの前だと、少し隙が出る」
空色の瞳が、細くなる。
「気づいてねぇとでも思ったか?」
私は、内心で舌打ちをした。
――やっぱり、見てたか。
「殿下は、私に興味が随分とおありで」
視線を合わせる。
彼の視線は、愉しげに細まる。
「そりゃあ、あいつの"弱点"かもしれねぇからな」
一歩、距離を詰められる。
「弱点、ですか」
私は、ほんの少しだけ首を傾げた。
「以前にも申し上げましたが、随分と便利な言葉ですわね」
「否定しねぇのか?」
セシル殿下が、楽しそうに口角を上げる。
「違いますわ」
淡々と返す。
「殿下がお考えになっているほど、私は特別な存在ではありません」
「へぇ?」
探るように、瞳を細めて私を見ていた。
「ユリウスは、そうは思ってなさそうだったが」
答えを引き出そうとする目。
私は、それを真正面から受け止め――それから、すっと視線を外した。
「殿下」
名前を呼ぶ。
それだけで、場の空気がわずかに締まる。
「仮に、そうであったとしても……ユリウス殿下には婚約者がいます」
言葉を選ぶ。
選んでいると悟らせない程度に。
「私は、その事実を踏み越えるつもりはありません」
淡々と、確認するように。
セシル殿下は、少しだけ目を細めた。
その反応は、失望というより――品定めに近い。
「ずいぶん、律儀だな」
「当然ですわ」
即答する。
「立場を理解しているだけです」
「立場、ねぇ」
彼は小さく笑った。
「それは、ユリウスの立場か?それとも――自分の?」
迷いなく答える。
「私が曖昧な振る舞いをすれば、誰かにとっても迷惑になりますもの」
一瞬、風が通り抜けたように廊下が静まる。
「……つまらねぇ」
そう言いながらも、セシル殿下の声には苛立ちはない。
むしろ、少しだけ楽しそうですらあった。
「普通は、もう少し欲が出るだろ」
視線が、ゆっくりと私をなぞる。
「殿下の期待に添えず、残念ですわ」
私は、社交用の微笑みで彼を見た。
セシル殿下は、視線を外さない。
値踏みするような目――のはずなのに。
その奥に、さっきまでなかった色が混じったのを、私は見逃さなかった。
「……なるほどな」
セシル殿下は、顎に手を当てて、少し考える素振りを見せた。
本当に、"少し"だ。
「よし、分かった」
軽い言葉だった。
「お前、弱点じゃねぇわ」
「はあ」
――即断即決すぎる。
「ユリウスを揺らすには、もう少し分かりやすくねぇとダメだ」
指を一本立てる。
「泣くとか、縋るとか、嫉妬するとかさ」
「……随分と具体的ですわね」
「当たり前だ」
悪びれない。
「でも、お前はそうならねぇ」
「光栄ですわ」
半分は本音だ。
セシル殿下は、じっと私を見て――それから、急に笑った。
玩具を見つけた子どものような、無邪気な笑みで。
「なのにさ」
一歩、また近づく。
距離が縮まった分だけ、空気が軽くなるのが逆に厄介だった。
「お前自身は、結構面白ぇ」
……そう来たか。
「殿下」
「安心しろって」
手をひらひら振る。
「今すぐ何かするほど、俺も暇じゃねぇ」
その言葉に、信用する気にはなれない。
「ただ」
彼は顎を上げて、にやっとする。
「見てると、退屈しねぇ」
評価基準が軽い。そして、致命的に正直だ。
「ユリウスのことも含めてな」
「……そうでしょうね」
今までの張りつめていたものが、馬鹿みたいに思えてくる。
溜息をつきそうになるのを、どうにか堪えた。
「お前さ」
ふいに、笑みが消え、真顔になる。
「自分がどれくらい目立たねぇことしてるか、自覚あるか?」
「いいえ」
即答する。
「それを計算しているつもりも、ありませんわ」
「そこだよ」
指を鳴らす。
「そこが、面白ぇ」
完全に玩具を見るような目だった。
けれど――さっきまでより、危険度は下がっている。
「ま、いいや」
彼の興味が一段落したらしい。
「弱点じゃねぇなら、無理に壊す理由もねぇ」
そう言って、ひらりと背を向ける。
「せいぜい、その"当たり障りのなさ"を続けろよ」
肩越しに、軽く振り返る。
「俺が飽きるまで」
――最後だけ、余計だ。
足音が遠ざかる。私は、ようやく肩の力を抜いた。
……油断はできない。けれど、さっきよりはマシだ。
やっと彼が、策士気取りの直感型だと理解した。扱いづらいが、読みやすい。
私は歩き出す。次に会う時も、同じ顔で、同じ距離で。
――それが一番、彼を退屈させるはずだから。




