49.私はそれでも…。
あれから、入学していくつかの月が経った。
セシル殿下とも、貴族派とも、私はそれとなく関わっている。
噂も今では入学の時に比べると、薄くなっていた。
――慣れ、というのは恐ろしい。
私は今、図書室の窓際の席で、静かに頁をめくっている。
陽の光が、机の上に落ちる。
この時間が好きだった。
誰にも急かされず、誰にも測られない。
「……熱心だね」
不意に、低く柔らかな声。
顔を上げる前に、分かってしまった。
足音の癖も、声の間も。
「何の用かしら……ユリウス殿下」
そう言うと、彼は向かいの椅子に腰を下ろす。
勝手に座るあたりが、相変わらずだ。
「もう"殿下"は取ってくれてもいいんだけど?」
小さく笑いながら言われる。
「私たちは、そんな気安い仲ではないでしょう」
私は本を閉じずに答えた。
距離は保ったまま。けれど、拒絶でもない。
「ルミナは、すぐに取ってくれたんだけどな。……それに――」
ユリウス殿下は、机に肘をつき、こちらを覗き込んだ。
「一緒に踊った仲なのに?」
私はようやく彼を見た。
その言い方が、あまりに無邪気だったから。
「……それは、社交の一貫でしょう?」
そう言ったはずなのに、彼は首を横に振った。
「違う」
即答だった。
「社交じゃなかった」
図書室に似合わないほど、真剣な声音。
「僕が誘ったのは、練習だよ。社交じゃない、それに――」
一拍。
「君は、それでも断らなかった」
……ずるい言い方。
私は、視線を落とす。
「練習にしては、随分と熱心でしたわね」
嫌味のつもりだった。
けれど、声は思ったよりも柔らかい。
ユリウスは、小さく笑った。
「ネメシアが、僕をちゃんと見て踊るから」
囁くように、続ける。
「……つられて、真面目になっただけだよ」
ユリウスは、それ以上何も言わなかった。
代わりに、私の手元へ視線を落とす。
「……その本、難しくない?」
不意に話題が変わる。
「歴史論文ですもの。易しくはありませんわ」
私は、指で頁の端を押さえたまま答える。
「でも、顔が険しくなってない」
彼は、少しだけ身を乗り出す。
そして、私の前に積まれた本に視線を落とした。
「……ずっと思ってたんだけど」
その言い方が、少しだけ真面目になる。
「君の成績は上にも下にも行かないよね」
私は、頁をめくる手を止めなかった。
「平均的、というだけですわ」
「ううん」
彼は、首を横に振る。
「"真ん中"だ」
断言だった。
「いつも学年の真ん中。上にも下にも、ほとんどぶれない」
視線が、私に戻る。
「偶然じゃない」
……やはり、気づかれていた。
「努力が足りないと思って?」
私は、淡々と返す。
「それとも、要領が悪い?」
少しだけ、試すように。
ユリウス殿下は、笑わなかった。
「逆」
そう言って、机に指先を置く。
「必要なところは、きっちり押さえてる。でも、伸ばせる部分で必ず手を抜く」
静かな声。
「わざと、目立たない点を取ってる」
私は、ようやく彼を見る。
「……よく、ご存知で」
「知ってるよ」
即答。
「君は、"上に行けない人"じゃない。"行かない人”だ」
言葉が、胸に刺さる。
図書室の静けさが、少しだけ重くなる。
「どうして?」
それは責める声じゃない。純粋な疑問だった。
私は、少しだけ考える。
「上に行けば、見られますもの」
それだけ言った。
「期待も、警戒も、利用も」
本を閉じ、視線を落とす。
「今は……真ん中が、一番安全です」
ユリウス殿下は、しばらく黙っていた。
やがて、ふっと息を吐く。
「やっぱり、君らしい」
その声は、どこか柔らかい。
「でもさ」
少しだけ、距離が縮まる。
「その位置を”維持する努力”をしてる時点で、もう普通じゃないけど?」
……それを言われると、反論しづらい。
私は、肩をすくめた。
「評価は、殿下にお任せします」
「じゃあ」
彼は、笑って続けた。
「僕は――」
一拍。
「"本気を出したら危険な人"だって評価しておく」
冗談めかした声。でも、目は真剣だった。
その視線から、私は逃げない。
――やっぱり、侮れない。
そう思いながら、胸の奥が少しだけ暖かくなった。
「……本気を出したら、危険、ですか」
私は、わずかに息を吐いた。
「ずいぶんな評価ですわね」
「褒めてるんだよ?」
ユリウス殿下は、くすっと笑うと、少しだけ声を落とした。
「それにね」
彼は、視線を逸らさず、穏やかに続ける。
「少なくとも、僕の前では――
そんなに計算しなくていい」
私は、思わず眉を寄せる。
「どういう意味かしら」
すると彼は、すぐには答えなかった。
一拍置いてから、軽い調子で言う。
「……だいたい、分かってるから」
そう言って、彼は笑わなかった。
胸が、わずかに跳ねた。
「それが"怠け"じゃなくて、"選択"だってことも」
彼は指先で机を軽く叩きながら、穏やかに。
私は、言葉を失った。
「だから」
彼は、柔らかく微笑んだ。
「僕の前では、気取らなくていい」
責めるでも、暴くでもない。
ただ、受け止める声だった。
私は、そっと視線を落とす。
彼は、ルミナの婚約者である。
私が踏み込んでいけない場所だ。
これ以上、近づくのは――良くない。
「……検討しておきますわ」
ユリウス殿下は、私の返答を聞いても追求しなかった。
「……うん」
それだけ言って、彼はゆっくりと身を引く。机に預けていた体重を戻し、椅子から立ち上がった。
「じゃあ、邪魔したね」
あっさりとした口調。
けれど、そこに不満の色はない。
「勉強の時間を奪うほど、無粋でもないし」
そう言って、彼は一歩だけ距離を取った。
まるで、最初からそこまで踏み込むつもりなどなかったように。
……ずるい。
私は、本を閉じないまま、視線だけを向ける。
「意外ですわね。引き際を知っているなんて」
軽く言ったつもりだった。
けれど、声は少しだけ低かった。
ユリウス殿下は、振り返る。
唇の端を、わずかに上げて。
「君が、今はここまでって顔をしてるから」
断定ではない。決めつけでも、ない。
「だから、それ以上はしない」
それだけ告げて、踵を返す。
「続きは――また、余裕がある時に」
最後にそう言い残して、彼は図書室を出ていった。
静けさが、戻る。
……戻った、はずなのに。
私は、しばらく頁をめくれなかった。
彼は、踏み込まなかった。
触れもしなかった。なのに。
胸の奥に残ったものだけが、妙に熱を持っていた。
「……余裕、ですって」
小さく呟いてから、私はようやく視線を本に戻す。
文字は、そこにある。
意味も、理解できる。
それでも――頭の片隅に、彼の言葉だけが残ったままだった。




