48.たまには、いいですよね…?
屋敷の門をくぐった瞬間、肩の力が抜けた。学園で張りつめていた空気は、ここまでは追ってこない。
部屋の扉が閉まった瞬間、私は小さく息を吐いた。
「……疲れた」
――今日は、よく動いたわ。
紅茶の香りが満ちる。
学園で一日中張り付けていた表情を、ようやく外す。
制服の上着を脱ぎ、椅子の背に掛ける。
髪留めを外して、指で軽く整えた。
……静かね。
この部屋には、探る視線も、測る気配もない。
その時。
――コンコン。
控えめなノック音。
「……はい」
扉の向こうから、聞き慣れた声がした。
「お姉様、起きてる?」
この呼び方で、もう分かった。
一瞬、ためらう。
いつもなら、ここで断るはずだった。
「どうぞ」
自分でも、驚くほどあっさり言っていた。
扉が開き、ルミナが顔を出す。
その瞬間、私は気づいてしまった。
――しまった。
言葉を選び、表情を整えることが、今はどれもできていない。
「……おかえり」
その声は、普段よりも柔らかく、近かった。
ルミナは一瞬、目を瞬かせてから、ゆっくりと部屋に入ってくる。
「……疲れてる?」
聞き方が、探るものじゃない。
ただ、確かめるための声だった。
「ええ。少しだけ」
そう言いながら、私は目を伏せた。
少し、じゃない。
でも、それ以上を否定する力もない。
ルミナは何も言わず、扉を静かに閉めた。
その音は、思ったよりも小さかった。
逃げ道が、消える。
それでも不思議と嫌じゃなかった。
――距離を取る余裕が、ないだけ。
今日は、ただそれだけ。
私はそう言い聞かせながら、椅子に腰を下ろした。
ルミナはそのまま、テーブルへと向かった。
侍女に用意させたままの、陶器を持ち上げる。
「……今日はね」
不意に、静かな声が落ちる。
「セシリア先生が、少し厳しくて」
報告というより、独り言に近い声。
「歴史の年号を、また間違えちゃって。『覚え方を変えなさい』って言われたの」
茶葉を蒸らす時間。
その間も、言葉は途切れなかった。
「でも、叱られただけで終わらなかったの。
最後に……褒めてもらえたわ」
湯気が立ち上る。
香りが、部屋に満ちる。
カップが、私の前に置かれる。
音は、ほとんどしない。
「少し熱いから……今は無理しないで」
彼女は、向かいの椅子に腰を下ろした。
沈黙が流れる。
それでも……不思議なほど、落ち着いた。
私は、ゆっくりとカップに手を伸ばす。
指先に伝わる温度が、張りつめた神経をほどいていく。
「……ありがとう」
気づけば、そう口にしていた。
ルミナは、ほんの少しだけ微笑む。
「うん」
それだけで、胸の奥が静かになる。
今日は、距離を取れない日だ。
けれど――取らなくてもいい日でもある。
そう思いながら、湯気の向こうを見る。
ルミナは、優しそうな顔をしてこちらを見ていた。
学園のこと。
お茶会のこと。
――第二王子のこと。
今にも言葉にしてしまいそうだった。
けれど言葉にした瞬間、今すぐに学園の中へ引きずり込んでしまう気がした。
ルミナも、聞いてこない。
それが、余計に胸にくる。
すると彼女はカップを両手で包みながら、ぽつりと続ける。
「……先生が言ってたの。
覚えるのが遅いのは、悪いことじゃないって」
一息ついた。
「ちゃんと考えてる証拠だから、って」
答えも、反応も、彼女は欲しがっていない。
ただの、今日あった出来事を彼女は告げている。
私は、湯気の向こうでそれを聞く。
ただ、その事実が――こんなにも楽だなんて、思わなかった。
ルミナは、ふと立ち上がると、窓を少しだけ開けた。
夜風が、部屋に入り込む。
「空気、こもってたから」
理由も、それだけだった。
私は、深く息を吸った。
胸の奥に溜まっていたものが、静かに抜けていく。
――ああ。
私は、ようやく理解した。
距離を取ることで守ってきた。
触れさせないことで、巻き込まないようにしてきた。
こうして何も言わずに隣にいられる存在は、遠ざけるものじゃない。
それでも。
彼女を守るには遠ざけることしか、今の私にはできない。
私は、カップを机に戻し、視線を落とす。
だけど……この場所だけは、この静けさだけは――
絶対に、壊させない。
ルミナが、こちらを見ていないことをいいことに、
私は、ほんの一瞬だけ――
名前のつかない覚悟を、胸の奥に沈めた。
ルミナは、しばらく黙って紅茶を飲んでいたが、やがて静かに立ち上がった。
「……もう、戻るね」
「ええ」
それ以上、言葉は交わさない。
けれど彼女は、扉の前で一度だけ立ち止まる。
「お姉様」
振り向くと、ルミナはいつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
「無理しすぎないで」
それだけ言って、扉は静かに閉まった。
部屋に残ったのは、紅茶の香りと、微かな温もり。
私は、しばらくそのまま動けずにいた。
――明日になれば、また盤の上だ。
視線を交わし、言葉を選び、牙を隠す日々。
けれど。
私は、カップを両手で包み直す。
この場所がある限り。
この静けさを守れる限り。
……私は、きっと折れない。
そうして夜は、穏やかに更けていった。




