45.良き未来へ歩めるように。
書斎の窓は開いていて、紙の匂いに庭の風が混じっていた。
机に向かったまま、私は書類に目を通す。
署名を入れ、重ね、次へ――その繰り返し。
「相変わらず、書類の山だね」
後ろから、遠慮のない声。
「ルミナなら自室にいますよ」
そう返しても、足音は止まらない。
ユリウス殿下は書斎に入ってきた。
「ええ。知っているよ。それにしても――」
私はユリウス殿下へと視線を送る。
「公爵令嬢の書斎って、もっと優雅なものだと思ってた。紅茶とか、花とか」
「それは客間です」
「そうだね」
ユリウス殿下は軽く微笑みを浮かべる。
私はまたペンを走らせた。
「今日は何の用ですか?冷やかしならお帰りください」
「ふふ……。半分は冷やかし、半分はちゃんとした話」
そういう言い方をする時点で、この人は厄介だ。
顔を上げると、ユリウス殿下は本棚の前に立ち、背表紙を眺めている。
「勝手に触らないでください」
「触ってないよ。ただ、眺めているだけ。……ここは占星術に関する本が多いね」
「勉強してるだけです」
淡々と答える。
「勉強にしては、偏ってると思うけど」
図星だったので、私は答えなかった。
ペン先だけが、紙の上を進む。
すると、彼は一瞬言葉を探すように黙り、少しだけ真面目な声になった。
「地下牢で、妙な人に会ったんだ」
私はペンを止めた。
「妙、とは?」
私の問いに、ユリウス殿下は近づきながら言う。
「占星術に……取り憑かれてる、って言えばいいのかな。本人は、そう言っていた」
言葉の割に、彼の顔は冗談ではない。
「その人が、これを」
ユリウス殿下は、懐から小さな包みを取り出した。
机の上には置かない。
持ったまま、少し迷ってから言う。
「"エレノアに渡してほしい"って」
名前が出た瞬間、私の胸の奥が波を打った。
――お母様…?
「そういえば、ルーインハイト家の前公爵夫人の名前だと、聞いたことがあったから……」
ユリウス殿下は包みを解いていく。
「そこで、ルミナにお聞きしたところ、貴女のお母様ということで持ってきた」
包みから現れたのは、一枚の"紙"。
「意味は、分からない。でも、放って置くのも嫌だたから……」
私は、ユリウス殿下の手元にあるその紙へ、そっと指を伸ばした。
触れる前から、胸の奥に嫌な予感が走る。
紙は、古いものではない。
けれど、文字の配置が――どこか、歪んでいる。
円。線。星を示す記号。
……占星術。
私は、思わず息を止めた。
似ている。
頭の奥で、別の紙が重なる。
デビュタントの夜。
お母様からの形見である箱から出てきた――
最後まで書き切られていなかった、あの占星図。
完成していない円。
途中で途切れた線。
意味を持たないはずの配置。
「……」
私は、紙から目を離せなくなっていた。
『必要なものは、すでに別の場所にあります。あなたの手ではなく、他の誰かが持っています』
ふと、お母様からの手紙を思い出す。
――これが、必要なもの。
だとしたら……これは、続き。
喉の奥が、ひりつく。
「……殿下」
自分でも驚くほど、声が低くなった。
「その方は……他に、何か言っていましたか?」
ユリウス殿下は、少し考えてから首を振る。
「いえ。ただ――」
一瞬、言葉を選ぶ。
「"まだ、終わっていない"と」
胸の奥で、何かが音を立てて噛み合った。
私は、紙をそっと机に置いた。
「……そう」
それだけ答えて、視線を落とす。
これは、偶然じゃない。
完成させる"時"が、動き出した。
ユリウス殿下は、しばらく黙っていた。
それから、思い出すように言葉を選ぶ。
「……あと地下牢の人が、もう一つだけ言っていた」
私は顔を上げる。
「"双子の災いは、人が呼ぶ"と」
その瞬間、胸の奥で嫌な音がした。
「……それから?」
「"王家に生まれた双子は、必ず争う。争わなければ、国が傾く"とも」
私は、ゆっくりと息を吐いた。
「それは……王家に古くから伝わる話ですわね」
「伝承?」
「ええ。正式な記録ではありません。表に出せば、"縁起が悪い"とされる類のもの」
私は椅子にもたれ、視線を遠くに向けた。
「王家の双子は、片方が"光"になり、もう片方が"影"になると――そう語られてます。
争いの末に立った者が王となり、負けた方は……歴史から消える」
「……消える、とは」
「記録に残らない、という意味です。
死、幽閉、追放……形は様々ですけれど」
私は、ユリウス殿下から一度視線を外した。
「これは私なりに調べて考えた結果ですが……」
私は、言葉を選ぶように一拍置いた。
「重要なのは、"争いそのもの"ではありません」
「それはどういうこと?」
ユリウス殿下は、真剣な顔でこちらを見ている。
「人が、争わせようとすることです」
指先で、机の上の紙を軽くなぞる。
「周囲が煽り、比べ、優劣を決め、追い詰める。
だから"双子の災い"が起きてしまうのではないかと」
「……地下牢の人が言っていた言葉と、同じだ」
彼の声は落ち着いていたが、指先がわずかに震えていた。
「"災いは、人が呼ぶ"――ですね」
私は小さく頷いた。
「そんな話を僕は知らなかった……」
ユリウス殿下は俯いた顔で告げた。
「仕方ないと思います。王位に付く前の方に、争いを前提とした話は――かえって、歪みを生む可能性があります」
一拍置く。
「星は、未来を決めません。ただ、傾きを示すだけ。
だから……」
言葉を選び、視線を紙へ落とす。
「この占星図が、その"傾き"を正す手がかりを示している可能性はあります」
彼は、言葉を失ったように息を呑んだ。
「……解除できる可能性が、あると」
「断言はできません。これも、あくまで憶測の話ですから」
沈黙が落ちる。
紙の上の星図から視線を離さないまま、ユリウス殿下がぽつりと言った。
「完全に否定は、できない……そういうことだよね」
「ええ」
私は彼を見た。
真剣な瞳をしている。
「……最近、セシルの様子がおかしいと思っていたんだ」
私は、ただ黙って耳を傾ける。
「昔のセシルは、僕が転んだら、手を差し伸べてくれて。
剣の稽古でも、負けると悔しそうに眉を寄せて……でも最後は、必ず笑っていた」
自嘲するような、小さな息。
「双子であるから、ある程度はお互いの気持がわかるんだ。けど――」
一拍。
言葉が途切れ、空気が、ひとつ重くなる。
「いつからか、セシルの気持ちが分からなくなった。
たぶん……取り巻く環境が変わった頃からだと思う」
彼は、決意するようにこちらを見る。
「この占星術、僕にも学ばせてほしい」
その言葉には、覚悟が滲んでいた。
「もし、昔みたいに……
セシルと、笑い合える日が来る可能性があるなら」
そう言って、彼は一度視線を落とし――
静かに、続けた。
「何もしないまま後悔はしたくない」
私は、しばらく彼を見つめた。
少しだけ間を置いて、私は告げた。
「占星術は、都合の良い答えをくれません。
望まない未来を、映し出すこともある」
それでも、と彼は言った。
「僕は、知りたい」
彼の声は、わずかに揺れた。
それでも、視線は逸れなかった。
私は、紙の上の星図に視線を戻す。
「わかりました」
ゆっくりと、言葉を落とす。
「元々、私もお母様が残していた占星図を解読してたところです」
ユリウス殿下は、安堵したように息を吐いた。
「ありがとうございます、ネメシア」
その呼び方に、私は何も言わなかった。
ただ、星図の隣に、もう一つの席を思い描いただけだ。
――それが、何を意味するのかは考えずに。
ユリウス殿下が書斎を去ったあと、私は一人で机の上の星図を見つめていた。
未完成の円。
重ならない線。
それは、まだ"選ばれていない未来"の形だった。
貴族学校――
王族も、敵も味方も集まる場所。
きっとあの場所なら、答えを見つけられる。
私は、そっと紙を畳む。
「……始まりますわね」
誰に向けた言葉でもなく。
ただ、これから踏み込む"盤面"へ向けて。
窓の外では、庭の木々が静かに揺れていた。
――この国の風向きが、変わり始めている証のように。




