40.貴女を守るためなの。
―――その言葉だけは、言わせてはいけなかった。
「私がいるでしょう?」
胸の奥で、何かがひび割れる。
「悪役が必要なら二人でいいじゃない。
―――一人で抱え込まないでよ」
その優しさは、刃だ。
こちらに来れば――この場所に立てば、必ず傷つく。
ルミナは、泣きそうな顔をしていた。怒りと必死さが混じった目。
―――ああ。だからこそ、ここで線を引かなければならない。
私は、息を整えもしなかった。
そうしなければ、声が揺れると分かっていたから。
「要らないわ」
はっきりと、言った。
「貴女は、必要ない」
ルミナの目が、見開かれる。
「それは……強がりで言ってるの?」
「違うわ」
即座に否定する。
「判断よ。感情じゃない」
感情を、声に乗せない。
「この屋敷で、私の立場で動くのに、貴女は邪魔になる」
言葉を選ばない。
選べば、情が混じる。
「守りたいだの、分かり合いたいだの――
そんなものは、ここでは足手まといよ」
一歩も近づかない。
「私は、孤立している方がいい。噂されている方が、都合がいい。誰とも組まない方が――処理が楽なの」
淡々と、事実のように。
「だから――」
視線を、真正面から向ける。
「私の隣に立とうとしないで」
冷たく、突き放す。
「善意で来られるのが、一番迷惑なのよ」
言葉が、空気を切る。
「貴女は、貴女の場所にいなさい。私は、こちらで十分よ」
それ以上、何も付け加えない。
それが、最後の線引だった。
―――嫌われてもいい。
―――誤解されたままでいい。
貴女が、この場所に足を踏み入れないなら。
私は、"悪役"でいられる。
「……お姉様なんか」
今にも雫が零れそうな目で、私を睨みつける。
怒りと、悔しさと、置いていかれた子供みたいな顔。
「もう、知らない!」
そういい捨てて、ルミナは部屋を出ていった。
扉が閉まる音が、思ったより大きく響いた。
それきり、部屋は静かになる。
紙の擦れる音も、遠くの足音も、今は聞こえない。
……上出来ね。
私は、そう自分に言い聞かせた。
あれでいい。
そうでなければ、ここまでやった意味がない。
傷ついた顔を見せて、怒って、距離を置いてくれたなら――
もう、こちら側に来る理由はない。
机の前に立ったまま、しばらく動けなかった。
手のひらが、わずかに震えている。
気づかれないよう、指を組んで押さえ込む。
感情が漏れるのは、失敗だ。
今は…それだけは、許されない。
「……泣くな」
誰もいない部屋で、低く呟く。
泣く資格なんて、最初からない。
選んだのは、私だ。
嫌われる方を。
理解されない方を。
そして――守るために、切る方を。
その瞬間、不意に――
別の光景が、脳裏を掠めた。
白い顔。
唇の色を失い、喉を押さえて咳き込む小さな身体。
――ルミナ。
毒を飲んだと知った、あの時の顔。
驚きと、痛みと、それでも私を見上げた目。
「……っ」
奥歯を、強く噛みしめる。
あんな顔を、二度と見たくない。
あれは、私のせいだ。
私が甘く、私が油断し、私の立場が曖昧だったから―――
あの子は"巻き込まれた"。
胸の奥が、冷たく締め付けられる。
二度目は、私が許さない。
同情も。
躊躇も。
曖昧な善意も。
すべてが、刃になる。
だから、私は選ぶ。
恐れられる方を。
距離を置かれる方を。
私に近づく者が、危険に晒されない距離を。
さっきのルミナの顔が、再び浮かぶ。
怒った目。
縋る声。
それでも最後まで、私を信じようとしていた瞳。
……だからこそ、離れていて。
私の隣は、安全ではないのだから。
「……これで、いいんだわ」
机に置いた書類に、視線を落とす。
整然と並んだ文字は、感情を持たない。
だから、信じられる。
誰も信じない代わりに、誰も巻き込まない。
それでいいの。
それが、私の役目。
扉の方を、一度だけ見た。
もう、そこに彼女はいない。
「近づかなくていいのよ」
言葉は、届かない相手に向けて落ちる。
「貴女は、光の側にいなさい」
それだけが、私の残された願いだった。
―――――――――
あれから、数日が経った。
呼び出しは、予告も理由もなかった。
執事から告げられたのは、ただ一言だけ。
「公爵様がお呼びです」
それだけで十分だった。
拒否権はない。準備も必要ない。
私は書類を一つ閉じ、席を立つ。
廊下を歩く間、足音は驚くほど静かだった。
最近、屋敷はよく整っている。
私語はなく、指示は即座に通り、帳簿の数字も乱れない。
―――上出来だ。
それが、あの人の評価基準だと、知っている。
公爵の執務室の前で、足を止める。
一度ノックをする。
「入れ」
私は執務室に入り、扉を閉める。
公爵は、こちらを見ない。
机に向かったまま、書類に目を落としている。
「屋敷が、静かになったな」
感想のようで、確認でもない言い方。
褒める調子では、決してない。
「倉庫の帳簿も合っている。使用人の動きも、無駄が減った」
羽根ペンが、紙を擦る音だけが響く。
私は、何も答えない。
「問題は、起きていない」
それは評価ではなかった。
まだ切る理由がないという意味に過ぎない。
「なら、それでいい」
一拍。
公爵は引き出しを開け、一枚の書類を机の端に置いた。
私の方へ、滑らせる。
「次だ」
説明は、それだけ。
「これは少し、面倒だ。表では調整。裏では――線を引け」
視線が、初めてこちらを向く。
「感情は要らん」
公爵は低く、淡々と告げた。
「越えたものを切れ。できなければ、それまでだ」
脅しですらない。
当然の事実を告げる口調。
ただ――
できる前提で使われている。
私は書類を手に取った。
紙の重みが、妙に現実的だった。
「……承知しました」
そう答えると、公爵はもう私を見ていなかった。
用は、それで終わりだ。
私は踵を返し、執務室を出る。
背後で扉が閉まる音が、静かに響いた。
廊下に出て、ようやく息を吐く。
――まだ、ばれていない。
その事実だけを、胸の奥に落とし込む。
廊下は、変わらず静かだった。
足音が反響するほど、整えられた静寂。
使用人たちは、必要以上に視線を上げない。
――恐れられている。
それでいい。
それが、ここでは一番安全な距離だ。
私は歩きながら、書類の端に指をかける。
すれ違う使用人たちには、何も言わずに通り過ぎた。
自室に戻り、扉を閉める。
机に書類を置き、ようやく封を切った。
中には、数枚の紙。
名前と役職、勤務年数。
そして――処分区分。
理由の欄は、空白だった。。
私は、一枚ずつ目を通す。
視線は、早い。
内容は、複雑ではない。
『三名。
本日付けで、解雇。
理由――なし。
聴取――なし。
弁明の機会――なし』
―――公爵の判断基準に照らせば、問題はない。
……だが。
指先が、一箇所で止まった。
一名の名は、他と違っていた。
私から見ても、勤務態度は良好。規律違反もなし。
注意記録も、私語の報告もない。
それなのに、
……切る理由が、記載されていない。
私は、その一行を見る。
違和感は、確信に変わっていた。
「……そういうこと」
理由が書かれていない。
それ自体が、理由だった。
能力でも、行動でもない。
"置いておくと、困る存在"。
それだけで、十分に切られる。
私は、紙を一度伏せた。
深呼吸は、しない。
それは、判断を鈍らせた。
他の二名は、そのまま処理すればいい。
だが、この一名だけは――
私は、引き出しを開け、別の便箋を取り出した。
ヴァルディオ侯爵に。
インクにペンを浸す。
書き出しは、簡潔に。
『近日中、そちらへ向かう者が一名おります』
処分理由は、書かない。
解雇という事実だけを、先に置く。
『書類上は、解雇処分としてください』
ここで、ほんの一拍。
『能力・勤務態度に問題はありません。
事情は、察していただけるかと』
余計な説明は、不要。
『扱いは、貴家の裁量にお任せします。不要であれば、静かに返していただいて構いません』
署名を入れ、封をする。
封蝋が固まるのを、ただ待つ。
――これで問題ない。
助けたわけでも、守ったとも言えない。
ただ、切らなかっただけだ。
残りの書類を、もう一度見る。
そこに、理由は書き足さない。
『解雇』
それだけで、十分だ。
私は立ち上がり、鐘を鳴らす。
「手配を」
声は、いつも通り。
「本日付で、通達を出して。この三名よ」
一瞬の間。
使用人は、何も聞かずに頭を下げた。
理由を問われない立場。
恐れられる距離。
―――これが、私の仕事。
私は、再び書類に目を落とした。
今日も、私は――悪役令嬢として動く。




