39.お姉様、なんで……。
ルミナ視点です。
髪を梳く音だけが、部屋に響いていた。
鏡の中で、侍女の指先が丁寧に動く。
いつもなら、衣擦れや小さな足音、誰かの話し声が混じる時間帯だ。
―――静かすぎる。
「ねえ」
私は鏡越しに声をかけた。
「最近、使用人の皆……少し静かじゃない?」
侍女の手が、一瞬だけ止まる。
「……」
答えが来ない。
その沈黙が、もう答えを含んでいるように感じられた。
「教えてほしいの」
私は、視線を逸らさずに続ける。
「責めるつもりもないわ。ただ、何かあったなら……教えてほしいだけ」
侍女は、鏡の中で私を一度だけ見た。すぐに視線を伏せ、再び髪に触れる。
「……お嬢様」
声が、わずかに揺れた。
「私の立場で、お話していいことか……」
「大丈夫よ」
私は、先に遮る。
「誰かの名前を聞きたいわけじゃないの。ただ、屋敷で何が起きているのかを知りたいだけ」
彼女の指先が、ゆっくりと動きを再開する。
「……数日前、です」
言葉を選ぶように、一語ずつ。
「規則違反があった者が……処分されました」
処分。
その単語だけで、胸の奥がひやりとする。
「数名、です。解雇……という形で」
侍女は、少しだけ息を整えてから続けた。
「……詳細は、伏せるようにと」
言外に、これ以上は話せない、という線が引かれる。
「ただ……」
指先が、またわずかに止まる。
「屋敷の規律が、はっきりと示された、と……皆、そう受け取っています」
私は、鏡の中の自分を見た。
いつも通りの顔。けれど、どこか硬い。
「……怖がっているの?」
問いは、静かだった。
彼女は、すぐには答えなかった。数拍置いてから、慎重に言葉を選ぶ。
「……恐れている、のだと思います」
否定でも肯定でもない、逃げ道を残した言い方。
「誰が、ではなく。どこまで見られているのか――それが、分からないから」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
それは、規律ではない。支配の感情――。
「……そう」
私は、小さく頷いた。
「教えてくれて、ありがとう」
それ以上、踏み込まない。
それが、彼女を守る距離だと分かっていた。
「今日の支度は、ここまででいいわ」
侍女は、ほっとしたように一礼する。
私は、椅子から立ち上がった。
静かな屋敷。整いすぎた空気。
―――今度は、何を考えているの?
胸の奥に、名前が浮かぶ。
ネメシア。……私のお姉様。
私は、ドアへと足を向けた。
扉の前で、私は一度だけ足を止めた。
深呼吸。
胸の奥に残る、あの静かな違和感を抑え込む。
―――怒りたいわけじゃない。でも、黙っていられるほど、平気でもなかった。
コン、と控えめにノックする。
「……ルミナです」
返事がないまま、数拍。
それから、中で足音がした。
「どうぞ」
短く、いつも通りの声。
私は、扉を開けた。
部屋の中は整っていた。必要なものだけが、必要な場所にある。
華美ではないのに、隙もない――お姉様らしい空間。
お姉様は、机の前に立っていた。
書類を揃える手を止め、こちらを見る。
「何か用?」
感情の揺れを感じさせない声だった。
私は、一歩だけ中へ入る。
「……少し、話がしたくて」
扉を閉める音が、思ったより大きく響いた。
「私は忙しいの。手短にね」
それは拒絶ではない。
けれど、距離を明確に示す言葉だった。
「最近……屋敷が、静かでしょう?」
探るような言い方になってしまう。
直接的すぎないように、慎重に。
お姉様は、一瞬だけ目を伏せた。
「そうね」
それだけ。
否定もしなければ、説明もしない。
私は、思わず拳を握った。
「使用人が……処分されたって、聞いたわ」
言った瞬間、胸が少し苦しくなる。
「噂でしょ?」
お姉様は、淡々と返す。
「誇張も混じっているわ」
正論だった。
だからこそ、反論できるほどの材料が、私にはない。
「でも……怖がっている人もいる」
私は、視線を逸らさずに続けた。
「規則が守られたって分かっていても、どうしても……冷たいって、思われてしまう」
お姉様の表情が、わずかに変わる。
ほんの一瞬、眉が寄った。
「だから?」
言葉の続きを、最初から想定している声だった。
「……だから」
声が、少しだけ強くなる。
「どうして、そこまでしなきゃいけなかったの?」
息を吸って。
「今まで通りで、よかったじゃない」
お姉様は、すぐには答えなかった。
机の上に揃えていた書類を、きっちりと一列に整える。
それから、ようやくこちらを見た。
「今まで通り、ね」
声は低く、感情の起伏がない。
「それは――誰にとっての、今まで?」
問いかけるというより、確認だった。
「噂を流しても見逃される。盗みがあっても、表沙汰にしない。新人だから、という理由で曖昧にする」
一つずつ、淡々と並べる。
―――そんなの。
私は、知らなかった。
「……そんなことが起きているなんて、私は聞いてない」
お姉様は、私の言葉にすぐには反応しなかった。
叱ることも、否定することもなく、ただ一度だけ静かに瞬きをした。
「……そうでしょうね」
静かな肯定。
「貴女が知らなかったこと自体は、責めないわ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。
「でも、それは"起きていなかった"ことにはならない」
お姉様の声の調子は、変わらない。
「貴女が見ていない場所で起きたことは、なかったことにはならないわ」
私は、言葉を失う。
「私は、情では判断しない。起きた事実と、規則。それだけを見る」
お姉様は、机に手を置いた。
「それが、公爵家を維持する側の役割だから」
一瞬、視線が重なる。
「怖がられるかどうかは、二の次よ」
冷たい言い方なのに、不思議と突き放されている感じはしなかった。
「守るために線を引く。越えたら、誰であっても切る」
それだけを、淡々と告げる。
「貴女は、知らなくていい。でも――私は、知らないままではいられない」
私は、少しだけ息を吸った。
「……でも」
その一言に、思っている以上の重さが乗る。
「やり方は、他にもあると思うの」
お姉様の視線が、こちらに向く。
逃げ場のない、真っ直ぐな目。逸らせば、負ける気がした。
「規則を守らせることと、怖がらせることは……同じじゃない」
指先が、知らずに強く握られる。
「今のままだと、お姉様は"悪"として見られる」
口にしてから、胸が痛んだ。
それでも、止めなかった。
「本当は、違うのに」
声が、少しだけ震える。
「間違っていることを正しただけなのに、冷たい人だとか、容赦ない人だ、って……」
一拍置いて、言い切る。
「誤解されるくらいなら、やり方を変えればいいんじゃないの?説明するとか、段階を踏むとか……」
拳に、思わず力が入る。
「怖がらせなくても、守れるものはあるはずよ」
そう告げると、お姉様は少しだけ視線を逸らした。
「……ルミナ」
名前を呼ぶ声は、叱るものではなかった。
むしろ、区切るための音だった。
「私は、昔からこの屋敷で"信用される側"じゃない」
淡々とした言葉。
事実を並べているだけ。
「公爵に疎まれて、
使用人に見下されて、
何を言っても、"裏がある"って顔をされてきた」
そこで、ようやく視線が戻る。
「そんな人間が、優しく言って、
『お願いします、理解してください』なんて」
お姉様は小さく、首を振った。
「――誰が、聞くと思う?」
声は、責めていない。
ただ、諦めを含んだ問い。
「優しさは、信頼がある人の言葉よ。最初から"悪"として見られている私が、それを使えば……"偽善"か、"弱み"にしかならない」
間を置いて、続けた。
「だから私は、恐れられる方を選んだ。聞かれない言葉を、何度も投げるより……一度で、従わせたほうが――確実だから」
最後は、低く。
「それが、生き残る方法だった」
「……それでいいって、言うの?」
声が、思ったより大きく響いた。
自分でも驚くほど。
「皆に怖がられて、冷たいって言われて……悪役みたいに噂されて――」
言葉が、止まらない。
「それを"仕方ない"で済ませるの?」
一歩、前に出る。
「お姉様が、どんな目に遭ってきたか、
この屋敷で、どんな扱いを受けてきたか」
声が、震える。
けれど下げない。
「それを知っているのに……どうして、全部一人で背負うとするのよ!」
最後は、ほとんど叫びだった。
けれど次の言葉だけは、はっきりしていた。
「私がいるでしょう?」
一拍、息を吸う。
「悪役が必要なら、二人でやればいい。
―――一人で抱え込まないでよ」




