38.公爵令嬢として動きます。
先日、デビュタントが終わった。
ほどなくして、私は十四歳になっていた。
それでも朝の空気は、いつもと変わらない。
私は机の前に座り、積み上げられた帳簿を見下ろす。
年齢に似合わない量だと、誰かが見れば思うだろう。
だが、それを指摘する者はいない。
ここは公爵家。
私は、公爵の"了承を得ている"存在だった。
「……」
指先で、帳簿の端を揃える。
紙の匂い。インクの滲み。数値の並び。
どれも、もう見慣れている。
十三の年から、私は"確認"ではなく、"処理"を任されるようになった。
――仕事を与えられた、というより。
踏み込むことを、許されたのだ。
公爵は何も説明をしなかった。
ただ、一言。
「前と同じだ。違いがあるなら、好きに調整しろ」
それだけだった。
―――好きに。
その言葉の意味を、私は正確に理解していた。
机の上の帳簿は、二種類。
表と、裏。
表には、税率の引き上げ。
裏には、実際の徴収額。
そして、その差。
私は、静かにペンを取った。
以前―――
「状況が変わっても、立場が逆転してもだ。お前自身が切り捨てられる側になっても―――それでも、こちらに立つと言えるか」
公爵は私に、"使えるかどうか"を見極めるための問いを突きつけた。
「……公爵令嬢という立場でいる限り」
それが、私の答えだった。
その言葉を、公爵は信じたのだろう。
私は彼から多くのものを奪われてきた。時間も、選択も。
だから―――これはお互い様。
私は数字を並べ、線を引き、差額を確定させる。
「……ここね」
呟きは、誰にも届かない。
差額分を、公爵家の資金から補填する。
帳簿上は「調整」。
実際には、公爵家の金が確実に減っていく。
それでも、誰も困らない。
怒られない。
咎められない。
領民は正規の税だけを払い、公爵家は"支配している顔"を保つ。
そして――
減るのは、公爵家の蓄えだけ。
ペンを置き、息を吐いた。
これが、裏の仕事であり――自分の役割。
良いことでも正しいとも、思っていない。
ただ一つ、確かなのは。
―――公爵家は、確実に痩せていく。
それでいい。
私はもう一度、帳簿に視線を落とした。
次の頁には、別の村の名前が並んでいる。
今日も、静かに…
音を立てずに、削っていく。
そして私には、裁量を下す権限がある。
目の前の帳簿を閉じたあと、小さく鐘を鳴らした。
ほどなくして、控えめな足音が近づく。
執事補佐と、数名の使用人が部屋に入ってくる。
その中に――視線を伏せきれない者がいた。
私は、最初からそれを知っていた。
「前へ」
私が名を呼ぶと、若い侍女が一歩前に出た。
震えはない。けれど、肩がわずかに強張っている。
「名前を」
「……マリーです」
声は若い。入って、まだ一年も経っていないはずだ。
「貴女は、ルミナについて私語を重ねた。内容は事実ではなく、侮蔑を含む」
淡々と告げる。
「本日付で、解雇します」
空気が、はっきりと凍った。
「お、お待ちください!」
割って入ったのは、年高の使用人だった。
「その子は、まだ新人です。礼儀も不慣れで……どうか、配置換えか、厳重注意で――」
私は、視線を向けた。
「新人だから?」
声の温度は変えない。
「新人であれば、噂を流しても許されると?」
使用人は言葉が詰まっている。
「公爵家の使用人は、年数ではなく責任で判断されます」
机の上の書類を、指で軽く何度も叩く。
「私語は一度。注意は二度。三度目で処分――これは、あなた方が承知している規則よ」
「ですが……!」
「それに」
短く、遮った。
「新人だと言うのであれば、教育係は、何を?」
青ざめていく使用人の顔が見えた。
おそらく彼女が、教育係なのだろう。
「いいですか?"多めに見る"という選択肢は、ここにはありません」
情を挟めば、線は歪む。
一度歪めば、必ず次の歪みが生まれる。
「この家で働く以上、立場は関係なく、線は同じよ」
私は、マリーを見る。
「あなたは、その線を超えた」
彼女の顔が、真っ青になる。
唇が震え、何か言いかけて――やめた。
「今回の処分は、彼女一人に留めます。
退職金は、規定通りに。今日中に荷物をまとめなさい」
「……はい」
彼女は、小さな音を立てて膝をついた。
私はそれ以上見ること無く、視線を使用人たちへ向けた。
逃げ場を探すような目。動かない者。視線を伏せる者たち。
その中で――
一人だけ、僅かに肩を強張らせた男がいた。
「……それから」
私は、名前を呼ばない。
「今、この場にいる者の中にもう一人、処分対象がいます」
ざわり、と小さく空気が揺れる。
「三ヶ月前から、倉庫の備品が少しずつ消えている。記録上は、紛失扱い」
机の上の書類を、一枚開く。
「けれど、同じ日に必ず帳尻が合わなくなる。運搬記録と、持ち出し申請」
私は視線を上げ、一人の男の顔を見た。
「ロルフ」
名を呼ばれた瞬間、男の顔色が変わった。
「……身に覚えは?」
返答はなかった。喉が鳴る音だけが、やけに大きく響いた。
「小物だけ。
布切れ、金具、保存食。"気づかれない程度"を選んでいる」
淡々と、事実だけを並べる。
「売った先も把握しています。裏通りの質屋。帳簿も、すでにこちらにあります」
誰かが息を呑む。
「本来であれば、解雇では済みません」
ここで、言葉を区切る。
「ですが――」
わずかに間を置いた。
「公爵家の名を汚さないため、今回は"内部処理"とします」
男は、崩れるように膝をついた。
「本日付で、あなたも即刻解雇。しかし退職金は――ありません」
それだけは、はっきりと言った。
「これは、犯罪です」
誰も、反論しない。できるはずがなかった。
私は、最後に告げる。
「この家では、"知らなかった"は通用しません。見逃した者も、同罪と見なします」
視線が、使用人全体を射抜く。
「以上です。仕事に戻りなさい」
誰も、逆らわない。
――これでいい。
冷たいと言われようと、恐れられようと。
線を引かねば、守れないものがある。
私は、公爵令嬢なのだから。
―――――――――
二人の使用人の解雇があった翌日。
使用人区画は、いつもより静かだった。
仕事は滞りなく回っている。
けれど、声が低い。
「……聞いた?」
「聞いたわ。あの件でしょう?」
誰が、とは言わない。言わなくても通じる。
「新人でも、情は一切なかったって」
「泣いて縋っても、視線すら動かなかったらしいわよ」
誇張された言葉が、少しずつ重なっていく。
「しかも、その場で別の男も切ったって」
「盗みをしてたって話だけど……本当かしら」
「さあ。でも、反論の余地も与えなかったって」
――裁きは、一瞬だった。
――弁明は、不要だった。
そんな言い回しだけが、残る。
「まだ十四歳よね?」
「なのに、公爵様より怖いって……」
誰かが、小さく笑った。
冗談のようで、冗談になりきらない声。
「感情がないのよ、きっと」
「確かに……人を人として見てない、っていうか」
その言葉に、誰も反論しなかった。
否定できる者が、いなかったから。
「……でも」
一人、年高の使用人が声を落とす。
「規則通りだったわ。注意も、回数も、処分も」
その言葉は、すぐに飲み込まれる。
「そういう問題じゃないのよ」
「"冷たい"って話」
理屈ではない。感じた印象だけが、噂になる。
「悪役令嬢みたいね」
「ええ。まさに絵本みたいな話だわ」
そう言って、誰かが肩をすくめた。
けれど――
その日の夕刻。倉庫の帳簿は正確に揃い、私語は消え、
備品の紛失はぴたりと止まった。
それを口に出す者は、誰もいなかった。
噂は、噂のまま。
秩序だけが、静かに残った。




