37.お母様からの手紙。
デビュタントが終わり、部屋へと戻った。
室内は、驚くほど静かに感じられた。
ドレスを脱ぎ、装飾を外し、鏡の前に残されたのは私一人。
祝祭の熱はすでに遠く、夜の気配だけが壁に染み込んでいる。
……踊った。
思考が、そこへ戻ろうとする。
中庭の石畳。月明かり。差し出された手の温度。
あれは、社交でもなかった。役割でも、義務でもない。
ただ一曲、身体を預けただけの時間。
月光は、均等ではなかった。
石畳に落ちる影の中で、殿下の輪郭だけが、やけにくっきりと浮かんでいた。
金の髪は白く縁取られ、視線は夜の色に沈んでいる。
こちらを見ているのに、値踏みする気配がない。
―――静かだ。
その存在そのものが、音を立てずにそこにあるような、不思議な感覚。
目の前の彼が、月明かりの中で"誰かの役割"ではなく、ただ一人の人として立っていた。
胸の奥に、かすかな波が立つ。
「……」
私は、視線を逸らすように息を吐いた。
――違う。
そこに意味を与える必要はない。
殿下には、ルミナがいる。
それは揺るがない事実だ。婚約は公にされ、祝福され、誰もが疑っていない。
だから――
あの感情は、ただ楽しかった。それだけだ。
思い出す必要はない。
深く掘り下げる必要も、本当はない。
「……考えるのをやめよう」
私は、静かな部屋で小さく囁いた。
ふと、お母様の形見のことを思い出した。
鍵が開いた夜から、もう何も起きていない。
中身は空で、役目を終えたものだと思っていた。
私は、引き出しに手をかけた。
その瞬間――
「……?」
淡い光が、指先を照らした。
燭台の火でも、月明かりの反射でもない。
箱そのものが、内側から光っている。
脈打つように。
まるで、息をしているかのように。
「……また、だわ」
以前にもあった。
鍵が開いた、あの夜と同じ光。
私は、そっと箱を取り出す。
触れると、温かいわけでも冷たいわけでもない。
ただ、確かに"応えている"。
ゆっくりと、蓋を開けた。
――何もない。
一度は、そう見えた。
けれど次の瞬間、箱の内側に光が満ちた。
空だったはずの底に、影が生まれる。
影が、輪郭を持ち――
紙へと変わった。
一枚、また一枚と。
重なるように、静かに現れる。
置かれていたのではない。
今、この瞬間に――解かれたのだと、直感が告げていた。
私は、息を止めたままそれを取り出す。
最初の一枚、薄い便箋。
見覚えはないはずなのに、なぜか胸に引っかかる、優しい筆跡。
「……もしかして」
声が、かすれた。
私は薄い便箋を広げる。そこに書いてあるのは――。
エレノア・ルーインハイト。
それは――
「……お母様」
手紙だった。
私に宛てた、母からの。
そして、重ねられた羊皮紙に、細かな線と記号。
星図だ。けれど、完成していない。
円は途中で途切れ、計算式は最後まで書かれていない。
占星術の途中段階――
まるで、誰かに託す前提で止められたような。
私は、箱の中を見つめる。
もう、光は弱まっていた。
役目を終えたかのように。
―――ああ。
理解してしまう。
この箱は、しまっておくためのものじゃなかった。
必要な時まで、触れさせないための――
"鍵"だったのだ。
私は、もう一度息を整えてから、便箋を持ち直した。
紙は薄く、指に馴染む。
何度も折りたたまれ、開かれた跡がある。
……私の知らない時間の重み。
そっと、視線を落とす。
『ネメシアへ』
名前だけで、胸の奥が詰まった。
続く文字は、驚くほど穏やかだった。
遺言でも、予言でもない。ただ、私に向けて語りかけるような筆跡。
『デビュタント、おめでとう。あなたがこの夜を迎えられたことを、母はとても嬉しく思っています』
祝いの言葉。
それを、今日初めて受け取ったのだと実感した。
『あなたは、よく耐えました。人前に立つことも、期待を背負うことも、簡単ではなかったでしょう』
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
『でも、ひとつだけ。どうしても伝えておきたいことがあります』
文字が、少しだけ強くなる。
『私の死は、あなたのせいではありません』
私は、思わず息を止めた。
『身体は、ずっと前から弱っていました。あなたが生まれる前から、分かっていたことです』
責める調子ではない。
淡々とした、事実だけがそこに書かれていた。
『だから、どうか
自分を責める理由にしないで』
視界が、わずかに揺れた。
『あなたの成長を、この目で見られないことは、正直に言えば、とても悲しいわ』
けれど、と文字は続く。
『それでも私は、空の上から見ています。夜空を見上げるたび、そこにいると思ってください』
胸の奥に、重く沈んでいたものが、少しだけほどけた。
『箱の中の星図について』
自然と、視線が次の行へ吸い寄せられる。
『あれは未完成のままで構いません。完成させる必要は、今はありません』
理由は、書かれていない。
けれど行間に、意図がある。
『必要なものは、すでに別の場所にあります。あなたの手ではなく、他の誰かが持っています』
――誰か。
『今は、あなたの傍にはいません。けれど、消えてもいない』
ぼかした言い方。
名も、場所も、状況も、与えられない。
『時が来れば、星は必ず再び繋がります。その時、あなたが選べるように』
次の行は、とても静かだった。
『あなたがどんな未来を選んでも、私はそれを"間違い"だとは思いません』
そして最後の一文は、短かった。
『愛しています』
最後の文を読み終え、私は手紙を静かに折り畳んだ。
何度も読み返すことは、しなかった。
この言葉は、覚えようとしなくても残る。
星図に視線を落とす。
広げれば、必要以上のものまで見えてしまう気がして、私はそれを途中までしか開かなかった。
未完成の線。
途切れた円。
止められたままの計算式。
――今は、これでいい。
そう思い、星図を元の形に戻す。
手紙と星図を、箱の中へ収める。
蓋を閉じると、光は完全に消えた。
私は箱を引き出しの奥へしまい、その前にそっと手を置いた。
それから、窓の方へ視線を向ける。
夜空は澄んでいて、星が静かに輝いている。
どれがどの星かは、分からない。
けれど、見上げることだけはできた。
星の中に、母の姿を探そうとは思わなかった。
見つかるはずがないことを、私は知っている。
それでも一瞬だけ――
声を、聞けたらと思ってしまった。
「……ありがとう、お母様」
私は夜空を見上げたまま、そう囁いた。




