35.舞踏は楽しいのね。
音楽とざわめきが重なる会場を抜けると、空気が変わった。
扉の向こうは、夜だった。
石の回廊を渡る風が、肌を冷やす。
背後で扉が閉まる音がして、祝祭は完全に切り離される。
数歩先に、男が立っていた。
先ほど、柱の陰から会場を離れた――あの背中。
互いに近づきすぎない距離で、足を止める。
「―――今はまだ、動いてはいけません」
私の言葉に、男はわずかに息を吐いた。
月明かりが、横顔の線を浮かび上がらせる。
表情は読めない。
ただ、静かな重さだけがあった。
「……わかっている」
短い返答。
「今日は、確かめるためだけに来たのでしょう?」
私は念を押す。
男は、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。
「……ああ」
それ以上の言葉はなかった。
けれど、その沈黙が答えだった。
風が、回廊を渡った。
月明かりの下で、ほんの一拍だけ立ち止まり――
それから、ゆっくりと背を向ける。
「……また、会おう」
男は、急ぐ様子も迷う様子もなく足音を立てた。
私は、その背を見送った。
呼び止めもしない。
言葉を探すこともしない。
男の影が、柱の向こうへ消える。
気配が、夜の空気に溶けていく。
それでも私は、視線を逸らさなかった。
完全に姿が見えなくなるまで――
ただ、そこに立っていた。
夜気が、まだ残っていた。
柱の影から一歩離れたところで、私は足を止めた。
会場へ戻る気にはなれなかった。
「――ここにいらしたのですね」
背後から、穏やかな声。
振り返らなくても分かる。
足音が軽く、ためらいがない。
―――ユリウス殿下。
「少し、風に当たっていました」
私はそう答え、ようやく振り向く。
彼は、数歩距離を保った位置で立ち止まった。
踏み込まない。だが、去るつもりもない距離。
「……先ほど、誰かと?」
問いは曖昧だ。断定もしない。否定も誘導もしない。
王子らしい、逃げ道のある聞き方。
「ええ」
否定もしない。説明もしない。
沈黙が流れる。
回廊の奥で、風が石に触れる音がした。
「……デビュタントは、楽しくありませんか?」
気遣いの形をした問い。
「楽しむ前提で過ごしてませんから」
間を置かず、私は答える。
「楽しいかどうかは、重要ではありません」
きっぱりと言い切る。
声は低く、凪いでいる。
殿下は、すぐには言葉を返さなかった。
会場から、音楽が流れ込んできた。
壁を越え、回廊の石に反射しながら、遅れて届く旋律。
祝祭は、まだ続いている。
「では――」
一拍。
「一曲、踊っていただけませんか?」
正式な誘いだった。
軽くない。冗談でもない。
私は、即座に首を横に振る。
「お断りします」
理由は言わない。言う必要もない。
沈黙が落ちる。
だが、殿下は引かなかった。
「……そうでしょうね」
納得したように言ってから、続ける。
「では、言い方を変えましょう」
殿下は、わずかに視線を逸らす。
それは配慮でもあり、退路でもあった。
「会場ではなく、中庭で。正式なダンスではありません」
私は、視線を上げる。
「練習相手として、踊っていただけませんか?」
"誘い"でも、"役割"でもない。
――口実だ。
逃げ道を用意した、再提示。
私は、すぐには答えなかった。
回廊に流れる音楽が、わずかに強くなる。
中庭は、すぐそこだ。
扉の向こうに、夜と月明かりがある。
「……」
殿下は、待つ。
急かさない。押し切ろうともしない。
だからこそ、厄介だった。
「……卑怯ですね」
私は、静かに言った。
殿下は、微笑む。
「ええ。承知の上で」
私は、小さく息を吐いた。
「……一曲だけです」
「もちろん」
殿下は、迷いなく頷いた。
私は、差し出された手を見る。
ほんの一瞬だけ躊躇い――
重ねた。
「行きましょう」
殿下に言われ、私は導かれるまま歩いた。
扉を押し開けると、夜の空気が流れ込む。
中庭には月明かりと、遠くから届く音楽。
ここなら、誰の視線も集まらない。
私は、殿下と向き合う。
これは、逃げでも、社交でもない。
ただの――練習。
「――では、始めましょう」
殿下が手を差し出す。
私は、少し躊躇したが、そっと手を重ねる。冷たいわけではない、むしろ安心する感触。
一歩踏み出すと、驚いた。
殿下の手が、確かに導く。踊りの経験などないはずなのに、自然と歩幅が揃い、リズムが身体に染み込む。
その立ち姿。背筋を伸ばし、指先まで意識の通った動き。
私は思わず息をのむ。
ここまで綺麗に踊れるのか、と。
「……上手ですね」
小さく呟く。声に出さずとも、心が震えている。
殿下は微笑むだけで、言葉は返さない。
言葉は必要ない。動きがすべてを語っている。
一回転、二回転。
指先が触れ合うたび、足の感覚が正確に重なる。
自然で滑らかで、まるで以前から踊り慣れていたかのようだ。
心の奥で、驚きと感動が湧き上がる。
初めて踊ることが、こんなにも楽しく感じられるとは。
石畳に落ちる靴音が、月光に溶ける。
回廊も会場も、祝祭も、遠くに消えてしまった。
ここには、私と殿下だけ。
動きに身を委ね、呼吸を合わせるだけの静かな時間。
そんな時間も、もう終わりだった。
私と殿下は、最後のステップを踏み込む。
「……」
初めての高揚感に、私は小さく息を吐いた。
そんな私を見て、殿下は微笑む。
「…本日は、楽しめましたか?」
その言葉に私は、頬がわずかに熱くなる。
視線を、逸らす。
「まぁ、まぁね」
そう答え、殿下の手を離した。
そのまま殿下を残し、扉へと向かう。
「……ありがとう、ございます」
小さく呟き、扉に手をかけて中へと戻る。
これが、私のデビュタント――。
誰に祝福されようと、私は私のまま。
だけど、少しずつ、殿下の存在がこの心に紛れ込んでいる気がした。




