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悪役令嬢の願い  作者: なむそ


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37/43

35.舞踏は楽しいのね。



音楽とざわめきが重なる会場を抜けると、空気が変わった。


扉の向こうは、夜だった。

石の回廊を渡る風が、肌を冷やす。


背後で扉が閉まる音がして、祝祭は完全に切り離される。


数歩先に、男が立っていた。

先ほど、柱の陰から会場を離れた――あの背中。


互いに近づきすぎない距離で、足を止める。


「―――今はまだ、動いてはいけません」


私の言葉に、男はわずかに息を吐いた。


月明かりが、横顔の線を浮かび上がらせる。

表情は読めない。

ただ、静かな重さだけがあった。


「……わかっている」


短い返答。


「今日は、確かめるためだけに来たのでしょう?」


私は念を押す。

男は、ほんの一瞬だけ視線を伏せた。


「……ああ」


それ以上の言葉はなかった。

けれど、その沈黙が答えだった。


風が、回廊を渡った。

月明かりの下で、ほんの一拍だけ立ち止まり――

それから、ゆっくりと背を向ける。


「……また、会おう」


男は、急ぐ様子も迷う様子もなく足音を立てた。

私は、その背を見送った。

呼び止めもしない。

言葉を探すこともしない。


男の影が、柱の向こうへ消える。

気配が、夜の空気に溶けていく。


それでも私は、視線を逸らさなかった。

完全に姿が見えなくなるまで――

ただ、そこに立っていた。



夜気が、まだ残っていた。


柱の影から一歩離れたところで、私は足を止めた。

会場へ戻る気にはなれなかった。


「――ここにいらしたのですね」


背後から、穏やかな声。


振り返らなくても分かる。

足音が軽く、ためらいがない。


―――ユリウス殿下。


「少し、風に当たっていました」


私はそう答え、ようやく振り向く。

彼は、数歩距離を保った位置で立ち止まった。

踏み込まない。だが、去るつもりもない距離。


「……先ほど、誰かと?」


問いは曖昧だ。断定もしない。否定も誘導もしない。

王子らしい、逃げ道のある聞き方。


「ええ」


否定もしない。説明もしない。

沈黙が流れる。

回廊の奥で、風が石に触れる音がした。


「……デビュタントは、楽しくありませんか?」


気遣いの形をした問い。


「楽しむ前提で過ごしてませんから」


間を置かず、私は答える。


「楽しいかどうかは、重要ではありません」


きっぱりと言い切る。

声は低く、凪いでいる。


殿下は、すぐには言葉を返さなかった。


会場から、音楽が流れ込んできた。

壁を越え、回廊の石に反射しながら、遅れて届く旋律。


祝祭は、まだ続いている。


「では――」


一拍。


「一曲、踊っていただけませんか?」


正式な誘いだった。

軽くない。冗談でもない。


私は、即座に首を横に振る。


「お断りします」


理由は言わない。言う必要もない。

沈黙が落ちる。

だが、殿下は引かなかった。


「……そうでしょうね」


納得したように言ってから、続ける。


「では、言い方を変えましょう」


殿下は、わずかに視線を逸らす。

それは配慮でもあり、退路でもあった。


「会場ではなく、中庭で。正式なダンスではありません」


私は、視線を上げる。


「練習相手として、踊っていただけませんか?」


"誘い"でも、"役割"でもない。

――口実だ。


逃げ道を用意した、再提示。


私は、すぐには答えなかった。

回廊に流れる音楽が、わずかに強くなる。


中庭は、すぐそこだ。

扉の向こうに、夜と月明かりがある。


「……」


殿下は、待つ。

急かさない。押し切ろうともしない。


だからこそ、厄介だった。


「……卑怯ですね」


私は、静かに言った。

殿下は、微笑む。


「ええ。承知の上で」


私は、小さく息を吐いた。


「……一曲だけです」

「もちろん」


殿下は、迷いなく頷いた。


私は、差し出された手を見る。

ほんの一瞬だけ躊躇い――


重ねた。


「行きましょう」


殿下に言われ、私は導かれるまま歩いた。


扉を押し開けると、夜の空気が流れ込む。

中庭には月明かりと、遠くから届く音楽。


ここなら、誰の視線も集まらない。


私は、殿下と向き合う。

これは、逃げでも、社交でもない。

ただの――練習。


「――では、始めましょう」


殿下が手を差し出す。

私は、少し躊躇したが、そっと手を重ねる。冷たいわけではない、むしろ安心する感触。


一歩踏み出すと、驚いた。

殿下の手が、確かに導く。踊りの経験などないはずなのに、自然と歩幅が揃い、リズムが身体に染み込む。


その立ち姿。背筋を伸ばし、指先まで意識の通った動き。

私は思わず息をのむ。

ここまで綺麗に踊れるのか、と。


「……上手ですね」


小さく呟く。声に出さずとも、心が震えている。

殿下は微笑むだけで、言葉は返さない。

言葉は必要ない。動きがすべてを語っている。


一回転、二回転。

指先が触れ合うたび、足の感覚が正確に重なる。

自然で滑らかで、まるで以前から踊り慣れていたかのようだ。


心の奥で、驚きと感動が湧き上がる。

初めて踊ることが、こんなにも楽しく感じられるとは。


石畳に落ちる靴音が、月光に溶ける。

回廊も会場も、祝祭も、遠くに消えてしまった。


ここには、私と殿下だけ。

動きに身を委ね、呼吸を合わせるだけの静かな時間。


そんな時間も、もう終わりだった。

私と殿下は、最後のステップを踏み込む。


「……」


初めての高揚感に、私は小さく息を吐いた。

そんな私を見て、殿下は微笑む。


「…本日は、楽しめましたか?」


その言葉に私は、頬がわずかに熱くなる。

視線を、逸らす。


「まぁ、まぁね」


そう答え、殿下の手を離した。

そのまま殿下を残し、扉へと向かう。


「……ありがとう、ございます」


小さく呟き、扉に手をかけて中へと戻る。


これが、私のデビュタント――。

誰に祝福されようと、私は私のまま。

だけど、少しずつ、殿下の存在がこの心に紛れ込んでいる気がした。




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