34.私は、踊れませんの。
扉の前で、足を止めた。
厚い木扉の向こうから、ざわめきが漏れてくる。
抑えられた声、衣擦れの音、笑いを含んだ息遣い。――社交界の呼吸。
係の者が、静かに合図を送る。次だ、と。
私は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
祈りではない。覚悟の確認でもない。
ただ――役を、完全に纏うための間。
群青の裾が、わずかに揺れる。光を拒む色。
それでいて、闇に溶けない色。
「……ネメシア・ルーインハイト公爵令嬢」
名が告げられた瞬間、空気がわずかに張りつめた。
扉が開く。光とともに、視線が流れ込んでくる。
私は、一歩を踏み出した。
靴音が床に落ちた、その一拍。ざわめきは止まらない。
だが、質が変わる。
ひそめられる声。
扇の陰で交わされる視線。値踏みと、警戒と、ほんのわずかな嫌悪。
―――来たわね。
―――あの噂の。
―――近づかないほうがいい。
言葉にならない。けれど、確かに伝わってくる。
祝福ではない注目。好意ではない関心。
私は、背筋を伸ばしたまま進む。
視線を伏せず、笑みも浮かべない。
一歩、また一歩。
近くを通った令嬢が、わずかに距離を取る。
談笑していた輪が、自然に道を空ける。それは礼儀の形をした、無言の線引きだった。
――噂の中心。
その位置に立つというのは、こういうことだ。
誰も公然とは拒まない。誰も正面からは敵対しない。
ただ、近づかない。触れない。関わらない。
私は、そのすべてを受け入れる。
これでいい。むしろ、想定通りだ。
この場で、好かれる必要はない。
後回を解くつもりも、弁明する気もない。
冷えた視線の中で、私は歩く。
噂が作った像を、否定も修正もせず、そのまま纏って。
―――それが、一番安全だから。
視線の端で、淡い色が揺れた。祝福と談笑の中心に立つ、もう一人の令嬢。
私は、そちらを見ない。
ただ、噂の中心として与えられた場所へ、静かに足を運んでいくだけだった。
私は、公爵の傍へと立つ。
公爵は一歩前に出ると、視線が集まりざわめきが自然と静まった。
「――ご列席の皆様」
短く、形式的な呼びかけ。
「本日、我が公爵家のデビュタントに際し、二人の娘を紹介する」
わずかな間。
「長女、ネメシア」
名を呼ばれ、私は一歩前に出て、一礼をする。
やがて、控えめな拍手が一つ、二つ。礼儀としての音が、ばらばらに落ちた。
それ以上には、ならなかった。
それに続く者もいれば、様子を伺ったまま手を動かさない者もいる。
音は広がらない。揃わない。
私は、顔を上げたまま視線を伏せず、動かなかった。
「次女、ルミナ」
続いて、ルミナが前に出て一礼をする。
祝福として、分かりやすい音。場が、それを待っていたかのように。
そして、それはより鮮明になる。
――区別。
同じ場に立ちながら、与えられる温度は違う。
それでいい。
むしろこの空気こそが、私の居場所だ。
噂の中心。距離を取られる位置。誰も、安易に近づかない場所。
私は静かに呼吸を整える。
ここから先は、拍手に迎えられる物語ではない。
けれど――
公爵の承認は、すでに下された。
それだけで、十分だった。
一拍の沈黙。
それを破ったのは、音楽ではなかった。
「――失礼」
澄んだ声が、会場の端から届く。
第三王子、ユリウス殿下が前へ出る。
その姿を見て、ざわめきは起きない。
代わりに、空気が自然と整えられていく。
彼の婚約者は誰であるかなど、今さら確認する必要もなかった。
殿下は迷いなくルミナの前に立ち、手を差し出した。
「最初の一曲を、ご一緒いただけますか?」
「はい」
ルミナが微笑み、手を重ねる。
その瞬間、楽団が演奏を始める。
合図のように、祝祭の旋律が会場を満たした。
―――切り替わった。
先ほどまで漂っていた、探るような空気は消えた。
「お似合いだわ」
「やはり、あの方よね」
「当然だ」
囁きは柔らかく、肯定的で、明るい。
王子と、その婚約者。誰もが理解している正しい並び。
二人は中央へ進み、音楽に身を預ける。
歩調は揃い、動きは自然で祝福される前提の所作。
私はその輪の外に立ったまま、動かない。
踊らない、誘われない。
そして――何も欠けていない。
この場において、私が動かないことは異常ではない。
むしろ、期待通りだ。
光は彼女に集まり、私は視線が避けられる位置にいる。
噂の中心。祝祭から半歩退いた存在。それで、場の均衡は保つ。
音楽が高まるほど、私の立ち位置はより静かに定まっていく。
――これでいい。
私はグラスに手を伸ばし、旋律を遠くのものとして受け流した。
音楽が続く中、視線の重なりが増えていく。
直接近づく者はいないが、完全に無視されてもいない。
その均衡を崩したのは、軽い足取りだった。
「…失礼」
振り向くと、貴族令嬢が立っている。
年は私と近い。派閥色は薄く、どちらにも属していない顔。
―――好奇、だ。
警戒ではない。
噂を確かめに来た者の、無遠慮な興味。
「踊られないのですか?」
声色は柔らかい。
忠告でも、皮肉でもない。
「せっかくの夜ですのに」
私はグラスを置き、相手を見る。
笑わない。だが、威圧もしない。
「ええ」
短く肯定する。
相手は一瞬、言葉を探す。
「ですが、今夜は――」
私は首を傾けもしない。
ただ、静かに遮る。
「必要がありませんので」
声音は穏やかだ。
拒絶ではない。だが、続きが許される余地もない。
沈黙が落ちる。
相手は、踏み込むか引くかを選ばされている。
「……そうですか」
視線が、私の足元からドレス、そして顔へと戻る。
何かを測るような間。
私は、その測定に応じない。
視線を中央へ戻し、音楽に意識を預ける。
―――会話は、終わった。
それがはっきり伝わったのだろう。
相手は小さく一礼し、距離を取った。
周囲の視線が、その様子を見て、わずかに流れを変える。
近づかないほうがいい。
声をかけても、何も得られない。
そう判断されていく気配。
私は、それを引き止めない。
中央では、王子と婚約者が旋律に身を委ねている。
祝福の視線は、そちらに集まり続ける。
私は、光の外に立ったまま、グラスを傾ける。
踏み込ませない。拒絶もしない。
ただ、距離を置く。
それだけで、十分だった。
音楽の輪がひときわ大きくなり、視線が中央へ集まる。
その中で、ふと――
淡い金が、こちらへ向きを変えた。
ルミナだ。
ダンスの合間、あるいは曲の終わり。
祝福の余韻を纏ったまま、こちらを見つけたのだろう。
一瞬、目が合う。
彼女は、何も疑わない表情で微笑んだ。
一歩、こちらへ。
その瞬間、周囲の視線がわずかに動く。
止める言葉はない。
けれど、空気が先に立ちはだかる。
―――そこは、踏み込む場所ではない。
ルミナも、それを感じ取ったのだろう。
歩みが、ほんの少し遅れる。
それでも、彼女は来た。
「お姉様」
呼びかけは柔らかい。
中央の光を連れてきた声。
私は、すぐには答えない。
グラスを置き、視線を上げる。
「楽しそうね」
それだけ言う。
労いでも、距離を縮める言葉でもない。
ただ、事実を述べただけの声。
ルミナは一瞬きょとんとし、それから笑った。
「はい。ユリウス殿下が、とても――」
言葉が続きかけて、止まる。
私が、一歩も近づいていないことに気づいたからだ。
「……お姉様は?」
ただ、確認するような響き。
私は首を振らない。否定もしない。
「私は、ここでいいわ」
静かな断定。
ルミナは、何かを言いかけて――
「ルミナ」
公爵の声だった。
会場のざわめきに埋もれない、低く確かな呼びかけ。
ルミナははっとして振り返る。
「……はい」
一瞬、こちらを見る。
けれど、助けを求める目ではなかった。
役目を思い出した顔。
「すぐ参ります」
そう答え、彼女は小さく頭を下げる。
淡い金の光が、再び中央へ戻っていく。
私はそれを見送らない。
視線を向ける理由が、最初からなかった。
グラスに残る液面が、わずかに揺れて、静まる。
近づかなかった。拒まなかった。
この距離は、誰かが壊さなければ保たれる。
そして――壊す気は、私にはない。
音楽が、ひときわ高まる。
その波の裏で、私は――見た。
柱の影。人の流れから外れ、静かに身を引く背。
誰にも見送られず、誰にも呼び止められない。
ただ一度だけ、淡い桃の方へ向けられた視線。
短く、確かめるような一瞬。
次の瞬間、男は扉の向こうへ消えた。
閉まる音は、旋律に溶ける。
けれど、空気がわずかに欠けたのが、分かった。
私はグラスを置く。
考える前に、身体が動いた。
視線を落とし、群衆の流れを外れる。
誰にも気取られない歩幅で、扉へ向かう。
私は静かに会場を後にした。




