表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢の願い  作者: なむそ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

36/53

34.私は、踊れませんの。




扉の前で、足を止めた。


厚い木扉の向こうから、ざわめきが漏れてくる。

抑えられた声、衣擦れの音、笑いを含んだ息遣い。――社交界の呼吸。


係の者が、静かに合図を送る。次だ、と。


私は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

祈りではない。覚悟の確認でもない。


ただ――役を、完全に纏うための間。


群青の裾が、わずかに揺れる。光を拒む色。

それでいて、闇に溶けない色。


「……ネメシア・ルーインハイト公爵令嬢」


名が告げられた瞬間、空気がわずかに張りつめた。

扉が開く。光とともに、視線が流れ込んでくる。


私は、一歩を踏み出した。


靴音が床に落ちた、その一拍。ざわめきは止まらない。

だが、質が変わる。


ひそめられる声。

扇の陰で交わされる視線。値踏みと、警戒と、ほんのわずかな嫌悪。


―――来たわね。

―――あの噂の。

―――近づかないほうがいい。


言葉にならない。けれど、確かに伝わってくる。

祝福ではない注目。好意ではない関心。


私は、背筋を伸ばしたまま進む。

視線を伏せず、笑みも浮かべない。


一歩、また一歩。


近くを通った令嬢が、わずかに距離を取る。

談笑していた輪が、自然に道を空ける。それは礼儀の形をした、無言の線引きだった。


――噂の中心。


その位置に立つというのは、こういうことだ。

誰も公然とは拒まない。誰も正面からは敵対しない。


ただ、近づかない。触れない。関わらない。


私は、そのすべてを受け入れる。


これでいい。むしろ、想定通りだ。


この場で、好かれる必要はない。

後回を解くつもりも、弁明する気もない。


冷えた視線の中で、私は歩く。

噂が作った像を、否定も修正もせず、そのまま纏って。


―――それが、一番安全だから。


視線の端で、淡い色が揺れた。祝福と談笑の中心に立つ、もう一人の令嬢。

私は、そちらを見ない。

ただ、噂の中心として与えられた場所へ、静かに足を運んでいくだけだった。


私は、公爵の傍へと立つ。


公爵は一歩前に出ると、視線が集まりざわめきが自然と静まった。


「――ご列席の皆様」


短く、形式的な呼びかけ。


「本日、我が公爵家のデビュタントに際し、二人の娘を紹介する」


わずかな間。


「長女、ネメシア」


名を呼ばれ、私は一歩前に出て、一礼をする。

やがて、控えめな拍手が一つ、二つ。礼儀としての音が、ばらばらに落ちた。

それ以上には、ならなかった。


それに続く者もいれば、様子を伺ったまま手を動かさない者もいる。

音は広がらない。揃わない。


私は、顔を上げたまま視線を伏せず、動かなかった。


「次女、ルミナ」


続いて、ルミナが前に出て一礼をする。

祝福として、分かりやすい音。場が、それを待っていたかのように。


そして、それはより鮮明になる。


――区別。


同じ場に立ちながら、与えられる温度は違う。


それでいい。


むしろこの空気こそが、私の居場所だ。

噂の中心。距離を取られる位置。誰も、安易に近づかない場所。


私は静かに呼吸を整える。


ここから先は、拍手に迎えられる物語ではない。

けれど――

公爵の承認は、すでに下された。


それだけで、十分だった。


一拍の沈黙。

それを破ったのは、音楽ではなかった。


「――失礼」


澄んだ声が、会場の端から届く。

第三王子、ユリウス殿下が前へ出る。


その姿を見て、ざわめきは起きない。

代わりに、空気が自然と整えられていく。


彼の婚約者は誰であるかなど、今さら確認する必要もなかった。


殿下は迷いなくルミナの前に立ち、手を差し出した。


「最初の一曲を、ご一緒いただけますか?」

「はい」


ルミナが微笑み、手を重ねる。

その瞬間、楽団が演奏を始める。

合図のように、祝祭の旋律が会場を満たした。


―――切り替わった。


先ほどまで漂っていた、探るような空気は消えた。


「お似合いだわ」

「やはり、あの方よね」

「当然だ」


囁きは柔らかく、肯定的で、明るい。

王子と、その婚約者。誰もが理解している正しい並び。


二人は中央へ進み、音楽に身を預ける。

歩調は揃い、動きは自然で祝福される前提の所作。


私はその輪の外に立ったまま、動かない。

踊らない、誘われない。

そして――何も欠けていない。


この場において、私が動かないことは異常ではない。

むしろ、期待通りだ。


光は彼女に集まり、私は視線が避けられる位置にいる。

噂の中心。祝祭から半歩退いた存在。それで、場の均衡は保つ。


音楽が高まるほど、私の立ち位置はより静かに定まっていく。


――これでいい。


私はグラスに手を伸ばし、旋律を遠くのものとして受け流した。


音楽が続く中、視線の重なりが増えていく。

直接近づく者はいないが、完全に無視されてもいない。


その均衡を崩したのは、軽い足取りだった。


「…失礼」


振り向くと、貴族令嬢が立っている。

年は私と近い。派閥色は薄く、どちらにも属していない顔。


―――好奇、だ。


警戒ではない。

噂を確かめに来た者の、無遠慮な興味。


「踊られないのですか?」


声色は柔らかい。

忠告でも、皮肉でもない。


「せっかくの夜ですのに」


私はグラスを置き、相手を見る。

笑わない。だが、威圧もしない。


「ええ」


短く肯定する。

相手は一瞬、言葉を探す。


「ですが、今夜は――」


私は首を傾けもしない。

ただ、静かに遮る。


「必要がありませんので」


声音は穏やかだ。

拒絶ではない。だが、続きが許される余地もない。


沈黙が落ちる。


相手は、踏み込むか引くかを選ばされている。


「……そうですか」


視線が、私の足元からドレス、そして顔へと戻る。

何かを測るような間。


私は、その測定に応じない。

視線を中央へ戻し、音楽に意識を預ける。


―――会話は、終わった。


それがはっきり伝わったのだろう。

相手は小さく一礼し、距離を取った。


周囲の視線が、その様子を見て、わずかに流れを変える。


近づかないほうがいい。

声をかけても、何も得られない。

そう判断されていく気配。


私は、それを引き止めない。


中央では、王子と婚約者が旋律に身を委ねている。

祝福の視線は、そちらに集まり続ける。


私は、光の外に立ったまま、グラスを傾ける。


踏み込ませない。拒絶もしない。

ただ、距離を置く。


それだけで、十分だった。


音楽の輪がひときわ大きくなり、視線が中央へ集まる。


その中で、ふと――

淡い金が、こちらへ向きを変えた。


ルミナだ。


ダンスの合間、あるいは曲の終わり。

祝福の余韻を纏ったまま、こちらを見つけたのだろう。


一瞬、目が合う。


彼女は、何も疑わない表情で微笑んだ。

一歩、こちらへ。


その瞬間、周囲の視線がわずかに動く。

止める言葉はない。

けれど、空気が先に立ちはだかる。


―――そこは、踏み込む場所ではない。


ルミナも、それを感じ取ったのだろう。

歩みが、ほんの少し遅れる。


それでも、彼女は来た。


「お姉様」


呼びかけは柔らかい。

中央の光を連れてきた声。


私は、すぐには答えない。

グラスを置き、視線を上げる。


「楽しそうね」


それだけ言う。

労いでも、距離を縮める言葉でもない。

ただ、事実を述べただけの声。


ルミナは一瞬きょとんとし、それから笑った。


「はい。ユリウス殿下が、とても――」


言葉が続きかけて、止まる。

私が、一歩も近づいていないことに気づいたからだ。


「……お姉様は?」


ただ、確認するような響き。

私は首を振らない。否定もしない。


「私は、ここでいいわ」


静かな断定。

ルミナは、何かを言いかけて――


「ルミナ」


公爵の声だった。

会場のざわめきに埋もれない、低く確かな呼びかけ。

ルミナははっとして振り返る。


「……はい」


一瞬、こちらを見る。

けれど、助けを求める目ではなかった。


役目を思い出した顔。


「すぐ参ります」


そう答え、彼女は小さく頭を下げる。

淡い金の光が、再び中央へ戻っていく。


私はそれを見送らない。

視線を向ける理由が、最初からなかった。


グラスに残る液面が、わずかに揺れて、静まる。


近づかなかった。拒まなかった。

この距離は、誰かが壊さなければ保たれる。

そして――壊す気は、私にはない。


音楽が、ひときわ高まる。

その波の裏で、私は――見た。


柱の影。人の流れから外れ、静かに身を引く背。

誰にも見送られず、誰にも呼び止められない。

ただ一度だけ、淡い桃の方へ向けられた視線。


短く、確かめるような一瞬。

次の瞬間、男は扉の向こうへ消えた。


閉まる音は、旋律に溶ける。

けれど、空気がわずかに欠けたのが、分かった。


私はグラスを置く。


考える前に、身体が動いた。

視線を落とし、群衆の流れを外れる。

誰にも気取られない歩幅で、扉へ向かう。


私は静かに会場を後にした。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ