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悪役令嬢の願い  作者: なむそ


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35/43

33.貴女も、お似合いよ。




朝の屋敷は、いつもより静かだった。

正確には、そう振る舞うことを求められている。


廊下を行き交う足音は多いのに、声は抑えられ、動きは早い。

まるで、この日を刺激してはいけないかのように。


―――今日だ。


私とルミナが、公爵家の令嬢として世に出る日。

かつて〈悪魔の子〉と呼ばれ、存在を消されていた私が、この家の名を背負わされる日でもある。


扉の向こうでは、すでに準備が始まっていた。

布の擦れる音と、侍女たちの息遣い。


私は部屋の中央で、ゆっくり息を整えた。

これは、私が選んだ立場だ。


ルミナを守るために、この家の"表"に立つと決めたのだから。


控えめなノックが、扉を叩いた。


ノックの音に応じる前に、私は一度だけ背筋を伸ばした。

深く息を吸い、吐く。

それだけで、胸の奥に沈んでいた感情が、立ち上がってくる。


「どうぞ」


扉が開き、数人の侍女が一斉に頭を下げた。

その動きは揃っているが、視線は慎重でどこか探るようでもある。


「本日はおめでとうございます、ネメシア様。ご準備を始めさせていただきます」


"様"。

その呼び方に、かつての違和感はもうない。

私は軽く頷き、応じた。


「お願いします」


運び込まれたドレスは、深い群青だった。

夜空を切り取ったような色合いで、光を拒むほどではないのに、軽さを許さない。


私はそれを見て、静かに頷いた。

感情を表に出す必要はない。


社交界が私に何を期待し、何を恐れるか――

それを理解した上で、鏡の前でコルセットを締められながら、この色を纏う。


侍女の一人が、一瞬だけ息を呑んだ。

すぐに表情は整えられたが、その視線が物語っている。


―――悪だ。

そう呼ばれる役を、私は纏う。


「お顔を上げてください」


顎にそっと指が触れ、鏡の中の私と目が合う。

そこに映っているのは、痩せても、怯えてもいない令嬢だった。

感情を表に出さず、視線を逸らさずに立っている。


……悪くない。


髪が整えられ、装飾が加えられていく。

部屋の空気が静かに変わった。

侍女たちの動きが、次第に慎重から丁寧へと変わっていく。

最後に手袋を嵌められ、侍女たちが一歩下がる。


「ご準備が整いました、ネメシア様」

「下がっていいわ」


侍女たちは一礼し、静かに部屋を出ていった。

扉が閉まり、音が遠のく。

残されたのは、私一人。


私は鏡の中の自分を、もう一度だけ見つめた。

この姿で、あの場に立つ。

選ばれる側として、値踏みされる側として。


―――それでも、構わない。


覚悟を固めた、その瞬間。

控えめなノックの音が、扉越しに響いた。


―――誰?


「……どうぞ」


扉が開く。

最初に目に入ったのは、淡い金だった。


光を集めるような色。

群青の部屋には、あまりにも柔らかい輝きだった。


「……お姉様」


聞こえた声に、思考が一瞬遅れた。


ルミナが、そこに立っていた。


群青の私とは、正反対だった。

そのドレスは、彼女という存在を、否応なく浮かび上がらせている。


「…入って」


扉が閉まり、音が断たれた。

淡い金の光が、部屋の中に留まっていた。


私は視線を逸らし、鏡の前に立ち直る。

わざと、背を向けたまま言った。


「……随分と、目立つわね」


声は平坦。

褒めるつもりも、責めるつもりもない。


ルミナは一瞬だけ目を伏せ、それから胸元に視線を落とした。

淡い金のドレスに添えられた、小さな装飾。


「……これですか?」


指先でそっと触れながら、言う。


「ユリウス殿下から、贈られたものです」


その名を聞いても、表情は動かない。

鏡の中で、自分の視線だけが静かに変わる。


―――そう。


庭園での出来事が、脳裏をよぎる。

測るようで、踏み込まない視線。


「……なるほど」


それだけ答え、私は鏡から視線を外した。


似合っているかどうかを口にする気はない。

それは、私の役目ではないから。


「それで」


短く区切り、ルミナの方へ顔を向ける。


「何をしに来たの?」


責める響きではない。

だが、歓迎する声でもない。


純粋な問い。

――理由がなければ、ここへ来る必要はない。


ルミナは、少しだけ戸惑ったように唇を噛んだ。

それから、意を決したように私を見上げる。


「…どうして、お姉様と一緒に、なの?」

「……深い理由はないわ」


そう言って、私は視線を鏡に戻した。

ルミナの方を見れば、余計なものまで拾ってしまいそうだったから。


「あなたが思うような意味は、何もない」

「同じ日に、同じ場所で立つだけのことよ」


声は、意識して平らにする。

柔らかくも、突き放しすぎもしない――

ただ、事実だけを並べるように。


一拍置いてから、付け足した。


「期待されると、困るから」


鏡越しに、淡い金がわずかに揺れたのが見えた。

言葉が、ちゃんと届いた証だ。


ルミナはすぐには何も言わなかった。

唇を噛み、視線を落とす。


「……お姉様は」


掠れた声で、ようやく絞り出す。


「本当に…それだけなの?」


私は答えない。

代わりに、手袋のシワを指先で整える。


肯定も、否定もしない沈黙。

それが、私の答えだった。


それ以上踏み込めば、彼女は傷つく。

踏み込ませなければ、この距離は保たれる。


―――それでいい。


「準備は、もう終わっているでしょう」


話題を切り替えるように、淡々と言う。


「まもなく呼ばれるわ。……先に行きなさい」


ルミナは一瞬、何か言いたそうに口を開き――

それから、小さく息を吸った。


「……お姉様」


呼び止めるような声。


私は振り返らない。

鏡の中で、淡い金だけを捉える。


「そのドレス……」


言葉を探すように、一拍。


「とても、お似合いです」


飾り気のない声だった。

社交辞令でも、慰めでもない。

ただ、見たままを伝えるだけの言葉。


私は、ほんの一瞬だけ指を止める。

けれど、振り返らない。


「そう」


それだけ答える。

褒め言葉を受け取るでも、否定するでもなく。


ルミナは、それ以上何も言わなかった。


「……では」


静かな声とともに、扉が開く。

淡い金の光が、廊下へと流れていく。


扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

部屋には、群青だけが残った。


扉の向こうの気配が、完全に消える。


私は、ようやく手袋の縫い目から指を離した。

整え終えたはずのシワは、いつの間にか元に戻っている。


―――予想通りだ。


彼女は、理由を求めた。

私は、答えを与えなかった。


それで傷つくほど、ルミナは弱くない。

けれど、私は距離を置く。


鏡に映る自分と視線が合う。

群青のドレスは、感情を映さない色だ。


よく選んだ、と他人事のように思う。

今日という日に、最も相応しい。


褒められたことを、思い出さないようにする。


あれは、受け取ってはいけない種類の言葉だ。

受け取れば、役を下ろしてしまう。


私は悪女でいなければならない。

誰かの理解に救われる立場ではない。


「……」


喉の奥で、何かが引っかかる。

声にはならない。


それでいい。

言葉にならない感情は、存在しなかったことにすればいい。


私は、鏡の前で背筋を伸ばす。


今日、私が立つ場所は決まっている。

誰かの隣でも、中心でもない。


噂が求める位置。

視線が集まり、距離が生まれる場所。


―――そこが、一番安全だ。


扉の外が、わずかに騒がしくなってきた。

招待客が集まり始めた合図。


呼ばれるのは、もうすぐだ。


私は深く息を吸い、吐いた。

一度だけ。


それ以上は、必要ない。

役は、もう身にまとっている。



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