33.貴女も、お似合いよ。
朝の屋敷は、いつもより静かだった。
正確には、そう振る舞うことを求められている。
廊下を行き交う足音は多いのに、声は抑えられ、動きは早い。
まるで、この日を刺激してはいけないかのように。
―――今日だ。
私とルミナが、公爵家の令嬢として世に出る日。
かつて〈悪魔の子〉と呼ばれ、存在を消されていた私が、この家の名を背負わされる日でもある。
扉の向こうでは、すでに準備が始まっていた。
布の擦れる音と、侍女たちの息遣い。
私は部屋の中央で、ゆっくり息を整えた。
これは、私が選んだ立場だ。
ルミナを守るために、この家の"表"に立つと決めたのだから。
控えめなノックが、扉を叩いた。
ノックの音に応じる前に、私は一度だけ背筋を伸ばした。
深く息を吸い、吐く。
それだけで、胸の奥に沈んでいた感情が、立ち上がってくる。
「どうぞ」
扉が開き、数人の侍女が一斉に頭を下げた。
その動きは揃っているが、視線は慎重でどこか探るようでもある。
「本日はおめでとうございます、ネメシア様。ご準備を始めさせていただきます」
"様"。
その呼び方に、かつての違和感はもうない。
私は軽く頷き、応じた。
「お願いします」
運び込まれたドレスは、深い群青だった。
夜空を切り取ったような色合いで、光を拒むほどではないのに、軽さを許さない。
私はそれを見て、静かに頷いた。
感情を表に出す必要はない。
社交界が私に何を期待し、何を恐れるか――
それを理解した上で、鏡の前でコルセットを締められながら、この色を纏う。
侍女の一人が、一瞬だけ息を呑んだ。
すぐに表情は整えられたが、その視線が物語っている。
―――悪だ。
そう呼ばれる役を、私は纏う。
「お顔を上げてください」
顎にそっと指が触れ、鏡の中の私と目が合う。
そこに映っているのは、痩せても、怯えてもいない令嬢だった。
感情を表に出さず、視線を逸らさずに立っている。
……悪くない。
髪が整えられ、装飾が加えられていく。
部屋の空気が静かに変わった。
侍女たちの動きが、次第に慎重から丁寧へと変わっていく。
最後に手袋を嵌められ、侍女たちが一歩下がる。
「ご準備が整いました、ネメシア様」
「下がっていいわ」
侍女たちは一礼し、静かに部屋を出ていった。
扉が閉まり、音が遠のく。
残されたのは、私一人。
私は鏡の中の自分を、もう一度だけ見つめた。
この姿で、あの場に立つ。
選ばれる側として、値踏みされる側として。
―――それでも、構わない。
覚悟を固めた、その瞬間。
控えめなノックの音が、扉越しに響いた。
―――誰?
「……どうぞ」
扉が開く。
最初に目に入ったのは、淡い金だった。
光を集めるような色。
群青の部屋には、あまりにも柔らかい輝きだった。
「……お姉様」
聞こえた声に、思考が一瞬遅れた。
ルミナが、そこに立っていた。
群青の私とは、正反対だった。
そのドレスは、彼女という存在を、否応なく浮かび上がらせている。
「…入って」
扉が閉まり、音が断たれた。
淡い金の光が、部屋の中に留まっていた。
私は視線を逸らし、鏡の前に立ち直る。
わざと、背を向けたまま言った。
「……随分と、目立つわね」
声は平坦。
褒めるつもりも、責めるつもりもない。
ルミナは一瞬だけ目を伏せ、それから胸元に視線を落とした。
淡い金のドレスに添えられた、小さな装飾。
「……これですか?」
指先でそっと触れながら、言う。
「ユリウス殿下から、贈られたものです」
その名を聞いても、表情は動かない。
鏡の中で、自分の視線だけが静かに変わる。
―――そう。
庭園での出来事が、脳裏をよぎる。
測るようで、踏み込まない視線。
「……なるほど」
それだけ答え、私は鏡から視線を外した。
似合っているかどうかを口にする気はない。
それは、私の役目ではないから。
「それで」
短く区切り、ルミナの方へ顔を向ける。
「何をしに来たの?」
責める響きではない。
だが、歓迎する声でもない。
純粋な問い。
――理由がなければ、ここへ来る必要はない。
ルミナは、少しだけ戸惑ったように唇を噛んだ。
それから、意を決したように私を見上げる。
「…どうして、お姉様と一緒に、なの?」
「……深い理由はないわ」
そう言って、私は視線を鏡に戻した。
ルミナの方を見れば、余計なものまで拾ってしまいそうだったから。
「あなたが思うような意味は、何もない」
「同じ日に、同じ場所で立つだけのことよ」
声は、意識して平らにする。
柔らかくも、突き放しすぎもしない――
ただ、事実だけを並べるように。
一拍置いてから、付け足した。
「期待されると、困るから」
鏡越しに、淡い金がわずかに揺れたのが見えた。
言葉が、ちゃんと届いた証だ。
ルミナはすぐには何も言わなかった。
唇を噛み、視線を落とす。
「……お姉様は」
掠れた声で、ようやく絞り出す。
「本当に…それだけなの?」
私は答えない。
代わりに、手袋のシワを指先で整える。
肯定も、否定もしない沈黙。
それが、私の答えだった。
それ以上踏み込めば、彼女は傷つく。
踏み込ませなければ、この距離は保たれる。
―――それでいい。
「準備は、もう終わっているでしょう」
話題を切り替えるように、淡々と言う。
「まもなく呼ばれるわ。……先に行きなさい」
ルミナは一瞬、何か言いたそうに口を開き――
それから、小さく息を吸った。
「……お姉様」
呼び止めるような声。
私は振り返らない。
鏡の中で、淡い金だけを捉える。
「そのドレス……」
言葉を探すように、一拍。
「とても、お似合いです」
飾り気のない声だった。
社交辞令でも、慰めでもない。
ただ、見たままを伝えるだけの言葉。
私は、ほんの一瞬だけ指を止める。
けれど、振り返らない。
「そう」
それだけ答える。
褒め言葉を受け取るでも、否定するでもなく。
ルミナは、それ以上何も言わなかった。
「……では」
静かな声とともに、扉が開く。
淡い金の光が、廊下へと流れていく。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
部屋には、群青だけが残った。
扉の向こうの気配が、完全に消える。
私は、ようやく手袋の縫い目から指を離した。
整え終えたはずのシワは、いつの間にか元に戻っている。
―――予想通りだ。
彼女は、理由を求めた。
私は、答えを与えなかった。
それで傷つくほど、ルミナは弱くない。
けれど、私は距離を置く。
鏡に映る自分と視線が合う。
群青のドレスは、感情を映さない色だ。
よく選んだ、と他人事のように思う。
今日という日に、最も相応しい。
褒められたことを、思い出さないようにする。
あれは、受け取ってはいけない種類の言葉だ。
受け取れば、役を下ろしてしまう。
私は悪女でいなければならない。
誰かの理解に救われる立場ではない。
「……」
喉の奥で、何かが引っかかる。
声にはならない。
それでいい。
言葉にならない感情は、存在しなかったことにすればいい。
私は、鏡の前で背筋を伸ばす。
今日、私が立つ場所は決まっている。
誰かの隣でも、中心でもない。
噂が求める位置。
視線が集まり、距離が生まれる場所。
―――そこが、一番安全だ。
扉の外が、わずかに騒がしくなってきた。
招待客が集まり始めた合図。
呼ばれるのは、もうすぐだ。
私は深く息を吸い、吐いた。
一度だけ。
それ以上は、必要ない。
役は、もう身にまとっている。




