32.この気持ちはなんだろうか。
ユリウス視点
庭園には、静けさが残った。
深紅のアネモネだけが、何事もなかったかのように風に揺れている。
先ほどまで、確かに立っていたはずの存在が、嘘のように消えていた。
――ネメシア・ルーインハイト。
噂の名。悪女と呼ばれる女性。
妹に毒を盛ったとされる、冷酷な姉。
けれど。
「……妙だな」
口に出して、ようやく自覚する。
自分が見た彼女は、噂と一致していなかった。
弁明しない。否定もしない。
怒りも、悲嘆も…見せない。
ただ、線を引いて立っていた。
踏み込ませないが、拒絶もしない――そんな距離の取り方。
決めていない。
そう言ったのは、自分だ。
だがそれは同時に、彼女を簡単に切り捨てられなかったという意味でもあった。
噂で人を判断しない。それは信条だ。
だが信条というものは、守られているうちは簡単に思える。
揺さぶられた時にこそ、本当の重さが分かる。
深紅の花の前で見たあの後ろ姿。
あれは、誰かに理解されることを前提にしていない人間の立ち方だった。
「ユリウス殿下?」
ふと、聞き慣れた声が聞こえた。
僕は声のする方を向く。
「……ルミナ令嬢」
名を呼ぶと、彼女は小さく微笑んだ。
庭園に似合う、柔らかな笑み。
「お話は、終わったのですか?」
探る響きはない。
けれど、何も知らないふりをするほど無邪気でもない。
「……ああ」
短く答えた。
それ以上、付け加える言葉が見つからなかった。
彼女の視線が、アネモネの花壇へと流れる。
深紅の花を見て、ほんの一瞬だけ瞬きが遅れた。
「ユリウス殿下」
ルミナ令嬢が、こちらを見上げる。
「…お姉様のこと、どう思われましたか?」
直球だった。
だが、詰問ではない。答えを強要する声でもない。
僕は、すぐに答えなかった。
思った以上に胸の奥へ沈んでいく。
「……判断は、まだだ」
そう答えるしかなかった。
ルミナ令嬢は、少しだけ目を細める。
怒りでも、不満でもない。
「ユリウス殿下は」
彼女は、少しだけ間を置いてから口を開いた。
「……お姉様を、噂通りの人だとは思っておられないのですね」
直球だった。
確かめるような問いでもない。
ただ――
そうであってほしい、と願う声だった。
僕は、否定も肯定もせずに、静かに息を吸う。
「噂は、事実の一部を切り取ったものにすぎない」
そう前置きしてから、続けた。
「少なくとも、今日見た彼女は……誰かを害するために立っている人間には見えなかった」
それは、取り繕った言葉ではない。
あの場で感じたままの実感だった。
ルミナ令嬢の方から、ふっと力が抜ける。
分かりやすいほどの変化に、思わず視線を留めた。
「……よかった」
小さく零れた声。
胸にしまい込んでいた息を、ようやく吐き出したような。
「ユリウス殿下が、そう言ってくださるだけで……」
言葉は途中で止まった。
けれど、そのさきは容易に想像がつく。
―――守られたかったのだ。姉が、噂によって一方的に裁かれることから。
「お姉様は…強い人です」
ルミナ令嬢は、花壇を見つめながら続ける。
「でも、強いからといって、傷つかないわけではありません」
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
強い人間ほど、弱さを見せない。
そして見せないからこそ、理解されにくい。
庭園での彼女の姿が、鮮明に思い出される。
踏み込ませない距離。拒絶しないが、期待もしない立ち方。
――理解されることを、最初から想定していない人間。
「……彼女は」
気づけば、口が動いていた。
「誰かに守られる前提で、生きていない」
ルミナ令嬢は、驚いたようにこちらを見る。
だが、すぐに小さく頷いた。
「……はい」
肯定だった。
その瞬間、胸の奥で何かが静かに軋む。
判断しない、と言った。だがそれは、本当は――
判断できない、に近づいているのではないか。
噂を退けたつもりで、物語を拒んだつもりで
それでもなお、彼女という存在が、確実に心の中へ入り込んできている。
これは、危うい。
王太子としては。
立場ある者としては。
「ユリウス殿下」
ルミナが、柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます」
その礼は、安堵が確かにそこにあった。
僕は短く頷く。
「……当然のことだ」
そう答えながら、自分が"当然"で済ませようとしている感情の正体を、直視しないようにした。
庭園には、もう彼女はいない。
それなのに。
彼女が残した沈黙と距離感だけが、この場に妙な重さを与え続けている。
―――次に会うとき。
その時も、同じ距離でいられるだろうか。
判断しない、という言葉の裏に、これ以上の意味が生まれてしまわないか。
自分自身に初めて問いを向けながら、僕は再び深紅のアネモネから目を逸らした。




