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悪役令嬢の願い  作者: なむそ


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33/43

31.忘れましょう。




アネモネの花弁が、風に揺れた。

深紅の影が、足元で重なる。


殿下は、すぐには答えなかった。


その沈黙は、私を測るためのものではない。

噂をどう扱うべきか、答えを選んでいる――そんな間だった。


「…正直に言おう」


静かな声だった。


「僕は、噂で人を判断しない」


短い言葉。

けれど、その響きははっきりしている。


「噂は便利だ。誰かを理解した気になれるし、責任を負わずに結論を出せる」


視線が、まっすぐこちらを捉えた。


「だが、それで人を断じるのは、僕のやり方じゃない」


胸の奥が、わずかに波打つ。


否定も、擁護もない。

ただ、自分の在り方を語っているだけ。


「それに……」


殿下は、一拍置いた。


「君の妹の言葉もあるしな。迷いない否定だった」


殿下の声は、淡々としていた。


―――余計なことを。


胸の奥に、熱とも痛みともつかないものが広がる。


守られるつもりは、なかった。

まして、あの子の言葉が誰かの判断材料になるなど。


「だから僕は、噂と、彼女の言葉、その両方を聞いたうえで……」


殿下は、静かに結んだ。


「今はまだ、君を"決めていない"」


その言葉は信じても、疑ってもいない。

距離感が、ひどく誠実に思えた。


「……では」


私は、ゆっくりと息を整える。


「殿下は、これから判断なさるのですね」


一歩も退かず、一歩も踏み込まず。


「噂ではなく、ご自身の目で」

「ああ」


即答だった。

アネモネの間を、風が吹き抜ける。


これは弁明でも、裁きでもない。


――互いに噂を脇へ置き、"人"として向き合おうとしているだけの時間だった。



アネモネの間を抜ける風に、別の気配が混じった。

足音はまだ遠い。けれど、私はそれが誰なのかを迷わず悟る。


――来る。


殿下は、まだ気づいていない。

だからこそ、今だと思った。


「……殿下」


名を呼ぶと、彼は視線をこちらへ向けた。


「そろそろ、失礼いたします」


理由は添えない。

必要がないと、思ったからだ。


殿下は一瞬だけ、何か言いかけるように唇を開き――そして、何も言わずにそれを閉じた。


その沈黙に、妙な誠実さを感じる。


「本日は、お時間をいただきありがとうございました」


深紅のアネモネの前で、私はゆっくりと身を屈める。

動作に迷いはない。形ばかりの礼ではなく、区切りとしての礼。


「ご判断は……殿下のお心のままに」


顔を上げると、殿下の目が静かにこちらを見ていた。

引き止めるでもなく、追うこともなく。ただ、見送る視線。


―――それでいい。


私は一礼して、踵を返す。


背を向けた瞬間、花の香がふっと薄れた。

小道を外れるたび、深紅は視界から遠ざかっていく。


振り返らない。

振り返ってしまえば、この場に留まる理由を…探してしまいそうだったから。


足音が近づく。

控えめで、急がない歩幅。

すれ違う直前、柔らかな声が聞こえた。


「……お姉様」


その声に、足を止めることはしなかった。


立ち止まれば、応じてしまう。

応じれば、ここに留まる理由を与えてしまう。


それは――私が選ぶべき道ではない。


「……失礼」


それだけを、静かに残す。

振り返らず、感情も添えず、ただの挨拶として。


背後で、空気がわずかに揺れた。

驚きか、戸惑いか、それとも――安堵か。確かめる必要はなかった。


小道を外れ、庭園の入口へ向かう。

深紅のアネモネは、もう視界に入らない。


花の香りが完全に途切れたところで、ようやく息を吐いた。


―――これでいい。


私はルミナが守られる世界の、影になる。

それが、私の選んだ立ち位置だ。


背後では、きっと殿下が立ち尽くしている。

そして、彼女が微笑みながら歩み寄るのだろう。


噂が望む通りの構図。

誰も疑問を持たない。正しい並び。


私は、それを壊さない。


足取りを乱さぬまま、屋敷へと戻る。

もう一度、アネモネの庭を振り返ることはなかった。


―――ここで交わした言葉は、いつか殿下自身の中で答えになる。


そう信じるには、十分すぎるほど、静かな時間だったから。




――――――


部屋の扉を閉めた瞬間、外の気配がすべて遮断された。


静寂。

ようやく、私だけの空間だ。


背中を扉に預けることはしない。

そんなことをすれば、弱さを許してしまいそうだったから。


ゆっくりと部屋を横切り、窓辺へ向かう。

カーテン越しに差し込む光は柔らかく、庭園ほどではないが、どこか似た色合いを帯びていた。


私は椅子に腰を下ろし、手袋を外す。

指先が、わずかに冷えている。


―――緊張していたのか。


今さら気づく事実に、内心で自嘲する。

あの程度の会話で、動揺するほど未熟なつもりはなかった。


それなのに。


「……判断しない、か」


小さく呟いた声が、部屋に溶けた。


噂で人を判断しない。

ルミナの言葉も聞いたうえで、なお決めつけない。


それは、とても簡単そうに聞こえて――

実際には、ひどく難しい態度だ。


人は、安心するために噂を信じる。

理解した気になるために、物語を欲しがる。


私自身が、その被害者なのだから。


それを、彼は拒んだ。


正義感ではない。同情でもない。

ましてや、庇護などでは決してない。


「……厄介な人だわ」


思わず、苦笑に近い息が零れる。


――もし彼が、冷たい人間だったなら。

――噂通りの距離で接してくれたなら。

私は、何も考えずに済んだ。


けれど彼は測りながら、線を越えない。

近づかず、離れもしない。


その態度は――

こちらに、考える余地を残してしまう。


椅子に肘を置き、視線を落とす。

深紅のアネモネが、脳裏に浮かぶ。


あの花の前で、彼は私を見ていた。


悪女としてでも、

婚約者の姉としてでも、

噂の主役としてでも…なく。


"ネメシア・ルーインハイト"という、一人の人間として。


―――だから、だめなのよ。


私は、心の中でそう切り捨てる。


知ってはいけない。

理解されてはいけない。


私はもう、役を選んだ。

悪女として立つと決めた以上、誰かに正しく見られることは、不要だ。


……それでも。


もし、ほんの少しでも判断が遅れていたら。

もし、あの場で彼がもう一言、何かを言っていたら。


私は――

あの庭園に、留まってしまったかもしれない。


「……ばかね」


静かな部屋で、そう呟く。


未来を揺らす相手ではない。

揺らしてはいけない相手だ。


それを理解しているからこそ

あの視線が、あの沈黙が、こんなにも後を引くのだろう。


私は立ち上がり、カーテンを閉めた。

光が遮られ、部屋は少しだけ暗くなる。


深紅の花も、薄紫の瞳も、

すべてここにはない。


―――忘れなさい。


自分にそう言い聞かせながら、私は今日という一日を、静かに胸の奥へ押し込めた。


それが、正しい選択だと信じるために。




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