31.忘れましょう。
アネモネの花弁が、風に揺れた。
深紅の影が、足元で重なる。
殿下は、すぐには答えなかった。
その沈黙は、私を測るためのものではない。
噂をどう扱うべきか、答えを選んでいる――そんな間だった。
「…正直に言おう」
静かな声だった。
「僕は、噂で人を判断しない」
短い言葉。
けれど、その響きははっきりしている。
「噂は便利だ。誰かを理解した気になれるし、責任を負わずに結論を出せる」
視線が、まっすぐこちらを捉えた。
「だが、それで人を断じるのは、僕のやり方じゃない」
胸の奥が、わずかに波打つ。
否定も、擁護もない。
ただ、自分の在り方を語っているだけ。
「それに……」
殿下は、一拍置いた。
「君の妹の言葉もあるしな。迷いない否定だった」
殿下の声は、淡々としていた。
―――余計なことを。
胸の奥に、熱とも痛みともつかないものが広がる。
守られるつもりは、なかった。
まして、あの子の言葉が誰かの判断材料になるなど。
「だから僕は、噂と、彼女の言葉、その両方を聞いたうえで……」
殿下は、静かに結んだ。
「今はまだ、君を"決めていない"」
その言葉は信じても、疑ってもいない。
距離感が、ひどく誠実に思えた。
「……では」
私は、ゆっくりと息を整える。
「殿下は、これから判断なさるのですね」
一歩も退かず、一歩も踏み込まず。
「噂ではなく、ご自身の目で」
「ああ」
即答だった。
アネモネの間を、風が吹き抜ける。
これは弁明でも、裁きでもない。
――互いに噂を脇へ置き、"人"として向き合おうとしているだけの時間だった。
アネモネの間を抜ける風に、別の気配が混じった。
足音はまだ遠い。けれど、私はそれが誰なのかを迷わず悟る。
――来る。
殿下は、まだ気づいていない。
だからこそ、今だと思った。
「……殿下」
名を呼ぶと、彼は視線をこちらへ向けた。
「そろそろ、失礼いたします」
理由は添えない。
必要がないと、思ったからだ。
殿下は一瞬だけ、何か言いかけるように唇を開き――そして、何も言わずにそれを閉じた。
その沈黙に、妙な誠実さを感じる。
「本日は、お時間をいただきありがとうございました」
深紅のアネモネの前で、私はゆっくりと身を屈める。
動作に迷いはない。形ばかりの礼ではなく、区切りとしての礼。
「ご判断は……殿下のお心のままに」
顔を上げると、殿下の目が静かにこちらを見ていた。
引き止めるでもなく、追うこともなく。ただ、見送る視線。
―――それでいい。
私は一礼して、踵を返す。
背を向けた瞬間、花の香がふっと薄れた。
小道を外れるたび、深紅は視界から遠ざかっていく。
振り返らない。
振り返ってしまえば、この場に留まる理由を…探してしまいそうだったから。
足音が近づく。
控えめで、急がない歩幅。
すれ違う直前、柔らかな声が聞こえた。
「……お姉様」
その声に、足を止めることはしなかった。
立ち止まれば、応じてしまう。
応じれば、ここに留まる理由を与えてしまう。
それは――私が選ぶべき道ではない。
「……失礼」
それだけを、静かに残す。
振り返らず、感情も添えず、ただの挨拶として。
背後で、空気がわずかに揺れた。
驚きか、戸惑いか、それとも――安堵か。確かめる必要はなかった。
小道を外れ、庭園の入口へ向かう。
深紅のアネモネは、もう視界に入らない。
花の香りが完全に途切れたところで、ようやく息を吐いた。
―――これでいい。
私はルミナが守られる世界の、影になる。
それが、私の選んだ立ち位置だ。
背後では、きっと殿下が立ち尽くしている。
そして、彼女が微笑みながら歩み寄るのだろう。
噂が望む通りの構図。
誰も疑問を持たない。正しい並び。
私は、それを壊さない。
足取りを乱さぬまま、屋敷へと戻る。
もう一度、アネモネの庭を振り返ることはなかった。
―――ここで交わした言葉は、いつか殿下自身の中で答えになる。
そう信じるには、十分すぎるほど、静かな時間だったから。
――――――
部屋の扉を閉めた瞬間、外の気配がすべて遮断された。
静寂。
ようやく、私だけの空間だ。
背中を扉に預けることはしない。
そんなことをすれば、弱さを許してしまいそうだったから。
ゆっくりと部屋を横切り、窓辺へ向かう。
カーテン越しに差し込む光は柔らかく、庭園ほどではないが、どこか似た色合いを帯びていた。
私は椅子に腰を下ろし、手袋を外す。
指先が、わずかに冷えている。
―――緊張していたのか。
今さら気づく事実に、内心で自嘲する。
あの程度の会話で、動揺するほど未熟なつもりはなかった。
それなのに。
「……判断しない、か」
小さく呟いた声が、部屋に溶けた。
噂で人を判断しない。
ルミナの言葉も聞いたうえで、なお決めつけない。
それは、とても簡単そうに聞こえて――
実際には、ひどく難しい態度だ。
人は、安心するために噂を信じる。
理解した気になるために、物語を欲しがる。
私自身が、その被害者なのだから。
それを、彼は拒んだ。
正義感ではない。同情でもない。
ましてや、庇護などでは決してない。
「……厄介な人だわ」
思わず、苦笑に近い息が零れる。
――もし彼が、冷たい人間だったなら。
――噂通りの距離で接してくれたなら。
私は、何も考えずに済んだ。
けれど彼は測りながら、線を越えない。
近づかず、離れもしない。
その態度は――
こちらに、考える余地を残してしまう。
椅子に肘を置き、視線を落とす。
深紅のアネモネが、脳裏に浮かぶ。
あの花の前で、彼は私を見ていた。
悪女としてでも、
婚約者の姉としてでも、
噂の主役としてでも…なく。
"ネメシア・ルーインハイト"という、一人の人間として。
―――だから、だめなのよ。
私は、心の中でそう切り捨てる。
知ってはいけない。
理解されてはいけない。
私はもう、役を選んだ。
悪女として立つと決めた以上、誰かに正しく見られることは、不要だ。
……それでも。
もし、ほんの少しでも判断が遅れていたら。
もし、あの場で彼がもう一言、何かを言っていたら。
私は――
あの庭園に、留まってしまったかもしれない。
「……ばかね」
静かな部屋で、そう呟く。
未来を揺らす相手ではない。
揺らしてはいけない相手だ。
それを理解しているからこそ
あの視線が、あの沈黙が、こんなにも後を引くのだろう。
私は立ち上がり、カーテンを閉めた。
光が遮られ、部屋は少しだけ暗くなる。
深紅の花も、薄紫の瞳も、
すべてここにはない。
―――忘れなさい。
自分にそう言い聞かせながら、私は今日という一日を、静かに胸の奥へ押し込めた。
それが、正しい選択だと信じるために。




