30.噂で人を判断しない。
ユリウス視点
皇帝から命じられた婚約だった。
第一王子アレクシスには、すでに正式な婚約者がいる。
双子の兄セシルは、彼女が元は平民という理由で、拒絶した。
その結果、残ったのが僕だった。
選ばれた理由に、感情はない。
だが皇帝の命である以上、拒む理由もなかった。
それに――
その婚約が、王都を安定させるためのものだというのなら。
僕が引き受けるのは、当然のことだった。
―――少なくとも、彼女と出会うまでは。
ルミナ令嬢と向かい合って座るのは、これで三度目だった。
柔らかな日差しの差し込む客間。
彼女は相変わらず慎ましく、それでいて不思議と目を引く存在だった。
「今日はありがとう。時間をとらせてしまったね」
そう声をかけると、ルミナ令嬢は少し困ったように笑った。
「いえ。ユリウス殿下とお話できるのは、嬉しいですから」
その言葉に、胸の奥がわずかに緩む。
「……最近、君に関する噂を耳にした」
あくまで何気なく切り出したつもりだった。
けれど、ルミナ令嬢の指先が一瞬だけ止まる。
「毒を盛られた件だ。…姉君が主犯だという話だよ」
視線を向けると、彼女は迷いなく首を振った。
「お姉様は、そんな人じゃありません」
即答だった。
そこに、躊躇いはない。
「私を害するなら、もっと別の方法を取る人です」
「…随分、強く信じているんだな」
「はい」
小さく微笑みながら、ルミナ令嬢はそう言った。
その瞳の強さに、なぜか目を逸らせなくなる。
「ユリウス殿下は……その噂を、どう思われましたか?」
問われて、僕はすぐに答えなかった。
噂は、あまりにも分かりやすい。
嫉妬深い姉。毒を盛られた妹。
民が好むのは、いつだって理解しやすい物語だ。
「……真実かどうかは、わからない」
それは、正直な答えだった。
「だが、噂は噂だと思っている。僕は、自分の目で真実を見極めたい」
「…そうですか」
ルミナ令嬢は、ほっとしたように息を吐いた。
そのわずかな安堵が、なぜか胸に引っかかる。
ふと、彼女の視線が窓の外へ向いた。
「……あ」
ルミナ令嬢が、小さく声を漏らした。
「どうした?」
「…いえ、なんでもありません」
そう言って彼女は、慌てたように視線を窓の外から僕へ戻す。
一瞬だけ、何か見たような――
だが、それを口にすることはなかった。
「…ユリウス殿下。よろしければ、庭園へ行きませんか?」
唐突な提案だった。
「庭園、か」
そう返すと、ルミナ令嬢は一瞬だけ表情を強張らせた。
「……構わないよ」
答えた途端、彼女は小さく微笑んだ。
「ありがとうございます」
立ち上がる動作は控えめで、いつも通り慎ましい。
だが、先程窓の外へ向けられた視線のことが、頭の片隅に引っかかっていた。
―――何を見たんだ?
問い返すこともできた。
けれど、そうはしなかった。
彼女が話さないと選んだのなら、それを尊重するべきだと思ったからだ。
少なくとも、今は。
「…私、少し準備がございますので」
控えめにそう前置きしてから、ルミナ令嬢は続ける。
「お先に、庭園へ向かっていただいてもよろしいでしょうか?」
「…わかった」
そう答えると、ルミナ令嬢は微笑んだ。
「ありがとうございます。すぐに参りますので」
一礼して、彼女は控えめに一歩下がる。
いつも通りの仕草で、婚約者として申し分ない――はずだった。
だが。
彼女が先ほど。窓の外に向けていた視線が脳裏をよぎる。
一瞬だけ、何かを確かめるような目だった。
―――気のせいか。
僕はそれ以上考えないことにして、先に客間を出た。
廊下を抜け、屋敷の奥へ。
人の気配は徐々に遠のき、空気が静まっていく。
やがて、庭園へと続く扉が見えた。
扉を押し開けると、柔らかな風が頬を撫でる。
色とりどりの花が視界に広がり、その中心に――
奥へ続く小道。
人目を避けるように配置された、静かな場所。
誰かが好んで通うには、十分すぎるほど。
「……」
理由は分からない。
だが、なぜか――この小道を進まなければならない気がした。
「まだ、ルミナ令嬢は来ないだろう」
僕はその小道へと足を踏み入れた。
道を進むにつれ、花の香りが濃くなる。
白、淡い紫、そして深紅。
風に揺れるアネモネが、道の両脇に静かに咲いていた。
―――誰か、いる。
最初、目に入ったのは背中だった。
アネモネに囲まれるようにして立つ、一人の女性。
淡い色のドレスが花の間に溶け込み、背筋は真っ直ぐに伸びている。
花を見つめるその姿は、庭園の一部のようで不自然なほど静かだった。
声をかけるべきか、一瞬だけ迷う。
その横顔が、花越しにわずかに見えた時、胸の奥で何かが引っかかる。
―――ああ。
噂の中で、何度も耳にした名。
毒を盛ったとされる姉。
冷酷で、嫉妬深く、悪女だと囁かれる存在。
ネメシア・ルーインハイト。
だが、目の前の背中からは、噂にあるような激しさは感じられない。
あるのは張り詰めた静けさと、どこか覚悟を決めたような気配。
アネモネの花弁が、風に揺れて彼女の足元に影を落とす。
深紅の色は、血を思わせるほど濃いのに、咲き方は驚くほど美しい。
―――奇妙だな。
噂に聞く彼女の姿と、この花の前に立つ後ろ姿が、どうにも結びつかない。
彼女は、まだこちらに気づいていない。
花を見つめたまま、微動だにせず立っている。
誰かを待っているというより――
この場所だけが、彼女を許しているように見えた。
その瞬間、ルミナ令嬢の声が脳裏をよぎる。
―――「お姉様は、そんな人じゃありません」
迷いのない否定。
あの瞳の強さ。
そして今、目の前にある現実。
……噂というものは、あまりにも都合がいい。
人は、花を見る前に名前で決めつけてしまう。
「……」
声を掛ける前にもう一度だけ、彼女とアネモネを見る。
深紅の花に囲まれた背中は、悪女と呼ばれるには――あまりにも静かだった。
―――確かめたい。
噂でも、立場でもなく。
この花の前に立つ彼女自身を。
そう思った時、僕は一歩前へ踏み出していた。
「失礼」
振り返った彼女は、思っていたよりも――静かな人という印象だった。
噂に聞くような、鋭さも、他者を威圧する気配もない。
視線が合った瞬間、逃げも、媚びもない。
ただ、こちらを正面から見返してくる。
……強いな。
それは、攻撃的な強さではない。
誰にも頼らないと決めた人間の強さだ。
少なくとも、噂だけで断じていい存在ではない。
綺麗な礼儀をする彼女を見て、
そう直感している自分に、少し驚いた。




