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悪役令嬢の願い  作者: なむそ


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31/43

29.初めまして、殿下。




真実よりも、噂のほうが足が速い。

とりわけ――人の悪意を含んだ話ほど。


「聞いた?」

「ええ……例の地下牢の件でしょう」

「侍女が一人、処分されたって」


廊下の隅で生まれた声は、壁伝いに広がっていく。

ひそめられたはずの囁きは、いつの間にか形を変えていった。


「ネメシア様が、直々に命じたそうよ」

「やっぱり…ルミナ様への嫉妬が原因なんですって」

「侍女を使って毒を盛らせたけど、失敗して――口封じ」


誰かが息を呑み、誰かが納得したように頷いた。


「……恐ろしい方ね」

「公爵令嬢って、ああいうものなのかしら」


真実かどうかなど、もう誰も気にしていない。

"それらしく聞こえる話"であれば、それで十分だった。


そして、必ず最後に添えられる。


「―――でも、ルミナ様は本当に聖女だわ」


清らかで、誰からも愛される存在。

その立ち位置は、疑われることすらない。


代わりに――


「ネメシア様は……」

「…悪女、よね」


その一言で、すべてが定まる。


噂は、私の知らないところで完成していた。


別邸へ戻る途中、廊下の角で足を止めたのは、偶然だった。


「……ネメシア様、最近は本邸にも戻られないそうよ」

「顔を見たくないって方も多いでしょうね」

「当然よ。あんなことを―――」


それ以上は、聞かなかった。


足音を殺して立ち去る必要もない。

私がそこにいると気づいた瞬間、声は勝手に消える。


――ああ。


私は、胸の奥で静かに息を吐いた。


思ったよりも、早い。けれど、想定通りだ。


侍女を処分した公爵令嬢。

ルミナに嫉妬し、毒を盛らせ、失敗したから切り捨てた悪女。


誰もが納得できる、分かりやすい筋書き。理解しやすい物語ほど、疑われない。


私は、歩みを止めない。

誰かに弁明するつもりもない。誤解を解く気も、名誉を取り戻す意思も。


それらはすべて、最初から手放した。


胸の奥に、微かな痛みはある。けれど、それを後悔と呼ぶには、あまりにも静かだった。


――これでいい。


私が嫌われるほど、ルミナは守られる。

そのために選んだ約だ。今さら、噂一つで揺らぐはずもない。


私はもう、戻らない。

悪女として立つと決めた以上、振り返ることは許されないのだから。


私は、胸にいくつもの思い抱えながら、ある場所へと向かった。

私にとって特別な場所――庭園だ。


屋敷の奥。

人の往来が少なく、噂話も届きにくい一角。

そして――お母様が、最も好んだ花が植えられている場所。


アネモネ。


白、淡い紫、深い紅。

風に揺れるその姿は、決して派手ではないのに、どこか芯の強さを感じさせる。


「……相変わらず、綺麗ね」


小道を歩きながら、自然と足が緩む。

ここに来ると、呼吸が楽になる。


母がこの庭園を好んでいたことは、リサから聞いた。

その話を知ってから、いつの間にか――私自身も、この場所を大切に思うようになっていた。


だからこそ、誰にも見られたくない場所でもある。


――そう、思っていたのに。


「失礼」


低く、落ち着いた声が、花の向こうから聞こえた。


私は足を止め、顔を上げる。


アネモネの群れの向こうに立っていたのは、見覚えのある人物だった。

整った立ち姿、王家特有の金髪。

そして、隠しようのない存在感。


第三王子。

ユリウス・ルーシオン・アルヴェルク。


名前を思い浮かべただけで、胸の奥がわずかに引き締まる。

この人が、ルミナの婚約者。


噂では、温厚で誠実。

政治の場では冷静で、感情を表に出さない――らしい。


けれど、噂ほど当てにならないものはない。

それは、私自身が一番よく知っている。


――見極めさせてもらうわ。


私は裾を軽く摘み、形式通りに一礼した。


「ネメシア・ルーインハイトです。本日は、思いがけずお目にかかりましたね、殿下」


一拍置いて、彼が応じる。


「第三王子ユリウスだ。突然、静かな場所を借りた」


短いやり取り。

だが、それだけで互いの立場は十分に伝わった。


――さて。

ここからが、本番だ。


私が足を止めたまま動かないでいると、ユリウス殿下はゆっくりと視線をこちらに向けた。


探るような目。

値踏みする目ではない。もっと静かで、慎重な――観察する視線。


この人も、あの噂を聞いているのね。


それでも、決めつけてはいない。

澄んだ薄紫色の目が、そう言っていた。


アネモネの花の間を抜け、彼は静かに一礼する。


「…驚かせてしまっただろうか」


先に口を開いたのは、殿下だった。

礼儀正しい声。王子として完璧な距離感。


――噂通りなら、もっと冷たい目を向けられてもおかしくない。

私は、内心でわずかに警戒を強める。


「いえ。こちらこそ…この場所は、あまり人が来ませんので」


探るような言葉。それに、彼は小さく頷いた。


「…よく、ここに来るのか?」


思っていた言葉とは違い、私は一瞬だけ意外に感じた。


「ええ」


私は、足元に咲く深紅のアネモネへと視線を落とす。


「お母様……前公爵夫人が、好んでいた花ですから」


その言葉に、わずかな沈黙が落ちた。


気配が近づく。

いつの間にか、殿下が私の隣に立っていた。


「なるほど」


花を眺めながら、静かに頷く。


「…確かに、貴女の瞳と同じ色だ」


軽さはない。

評価とも、確認とも取れる声だった。


私は、思わず殿下の方を見る。

殿下もまた、私の瞳を見ていた。


一瞬だけ、視線が交わる。


「……噂を、聞いている」


空気が、僅かに張り詰めた。


「…噂、ですか」


私は、わずかに口元を緩めた。


「妹に毒を仕込んだ――そういう話でしょう?」


否定もしなければ、言い訳もしない。


「それとも、もっと酷い内容ですか?」


視線は逸らさず、殿下を見る。


「よろしければ、お聞かせください。殿下が、私をどういう人間だと"噂で"知ったのか」


殿下は、すぐには答えなかった。

アネモネの花弁が風に揺れ、その沈黙だけが長く感じる。


――やっぱり、簡単には言えないわよね。


王子という立場で、誰かの悪評を口にすることの重さ。それを理解しているからこそ、彼は慎重なのだろう。


「…随分、率直だな」


ようやく発せられた声は、低く、落ち着いていた。


「普通は、否定するか起こるか、どちらかだと思っていた」

「噂を前にして、どちらも無意味ですから」


私は、淡々と返す。


「否定すれば言い訳に聞こえる。怒れば、図星だと思われる。なら――受け止めたほうが、まだ誠実でしょう?」


殿下の視線が、わずかに細まった。

感心とも警戒ともつかない、微妙な変化。


「…噂では」


彼は、言葉を選ぶように一拍置いた。


「貴女は、強い執着を持つ人間だと言われている。ルミナ令嬢に対して、歪んだ感情を抱き、それを抑えきれなかった、と」


胸の奥が、静かに冷える。


―――"歪んだ感情"。

なるほど、ずいぶんと都合のいい要約だわ。


「それで?」


促すと、殿下は続けた。


「同時に、こうも聞いた。……その噂を、ルミナ令嬢自信は否定している」


その言葉に、ほんの一瞬だけ、心が揺れた。


―――ルミナが?


驚きは、表に出さない。

けれど、予想外だったのは確かだ。


「彼女は言っていたよ」


殿下の声は、柔らかくなる。


「"姉は、そんなことをする人じゃない"とね」


……そう。

私は、胸の内で静かに痛んだ。


「それで、殿下はどう思われましたか?」


私は、静かに問い返す。


「噂と、ルミナの言葉。その両方を聞いたうえで、今ここに立っている殿下は」


一歩も退かない。

一歩も踏み込まない。


「――私を、どういう人間だと見ていますか?」


アネモネの間を吹き抜ける風が、二人の間を通り抜けた。


これは、裁きではない。

弁明でもない。


――互いに、相手を"測る"時間だった。




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