29.初めまして、殿下。
真実よりも、噂のほうが足が速い。
とりわけ――人の悪意を含んだ話ほど。
「聞いた?」
「ええ……例の地下牢の件でしょう」
「侍女が一人、処分されたって」
廊下の隅で生まれた声は、壁伝いに広がっていく。
ひそめられたはずの囁きは、いつの間にか形を変えていった。
「ネメシア様が、直々に命じたそうよ」
「やっぱり…ルミナ様への嫉妬が原因なんですって」
「侍女を使って毒を盛らせたけど、失敗して――口封じ」
誰かが息を呑み、誰かが納得したように頷いた。
「……恐ろしい方ね」
「公爵令嬢って、ああいうものなのかしら」
真実かどうかなど、もう誰も気にしていない。
"それらしく聞こえる話"であれば、それで十分だった。
そして、必ず最後に添えられる。
「―――でも、ルミナ様は本当に聖女だわ」
清らかで、誰からも愛される存在。
その立ち位置は、疑われることすらない。
代わりに――
「ネメシア様は……」
「…悪女、よね」
その一言で、すべてが定まる。
噂は、私の知らないところで完成していた。
別邸へ戻る途中、廊下の角で足を止めたのは、偶然だった。
「……ネメシア様、最近は本邸にも戻られないそうよ」
「顔を見たくないって方も多いでしょうね」
「当然よ。あんなことを―――」
それ以上は、聞かなかった。
足音を殺して立ち去る必要もない。
私がそこにいると気づいた瞬間、声は勝手に消える。
――ああ。
私は、胸の奥で静かに息を吐いた。
思ったよりも、早い。けれど、想定通りだ。
侍女を処分した公爵令嬢。
ルミナに嫉妬し、毒を盛らせ、失敗したから切り捨てた悪女。
誰もが納得できる、分かりやすい筋書き。理解しやすい物語ほど、疑われない。
私は、歩みを止めない。
誰かに弁明するつもりもない。誤解を解く気も、名誉を取り戻す意思も。
それらはすべて、最初から手放した。
胸の奥に、微かな痛みはある。けれど、それを後悔と呼ぶには、あまりにも静かだった。
――これでいい。
私が嫌われるほど、ルミナは守られる。
そのために選んだ約だ。今さら、噂一つで揺らぐはずもない。
私はもう、戻らない。
悪女として立つと決めた以上、振り返ることは許されないのだから。
私は、胸にいくつもの思い抱えながら、ある場所へと向かった。
私にとって特別な場所――庭園だ。
屋敷の奥。
人の往来が少なく、噂話も届きにくい一角。
そして――お母様が、最も好んだ花が植えられている場所。
アネモネ。
白、淡い紫、深い紅。
風に揺れるその姿は、決して派手ではないのに、どこか芯の強さを感じさせる。
「……相変わらず、綺麗ね」
小道を歩きながら、自然と足が緩む。
ここに来ると、呼吸が楽になる。
母がこの庭園を好んでいたことは、リサから聞いた。
その話を知ってから、いつの間にか――私自身も、この場所を大切に思うようになっていた。
だからこそ、誰にも見られたくない場所でもある。
――そう、思っていたのに。
「失礼」
低く、落ち着いた声が、花の向こうから聞こえた。
私は足を止め、顔を上げる。
アネモネの群れの向こうに立っていたのは、見覚えのある人物だった。
整った立ち姿、王家特有の金髪。
そして、隠しようのない存在感。
第三王子。
ユリウス・ルーシオン・アルヴェルク。
名前を思い浮かべただけで、胸の奥がわずかに引き締まる。
この人が、ルミナの婚約者。
噂では、温厚で誠実。
政治の場では冷静で、感情を表に出さない――らしい。
けれど、噂ほど当てにならないものはない。
それは、私自身が一番よく知っている。
――見極めさせてもらうわ。
私は裾を軽く摘み、形式通りに一礼した。
「ネメシア・ルーインハイトです。本日は、思いがけずお目にかかりましたね、殿下」
一拍置いて、彼が応じる。
「第三王子ユリウスだ。突然、静かな場所を借りた」
短いやり取り。
だが、それだけで互いの立場は十分に伝わった。
――さて。
ここからが、本番だ。
私が足を止めたまま動かないでいると、ユリウス殿下はゆっくりと視線をこちらに向けた。
探るような目。
値踏みする目ではない。もっと静かで、慎重な――観察する視線。
この人も、あの噂を聞いているのね。
それでも、決めつけてはいない。
澄んだ薄紫色の目が、そう言っていた。
アネモネの花の間を抜け、彼は静かに一礼する。
「…驚かせてしまっただろうか」
先に口を開いたのは、殿下だった。
礼儀正しい声。王子として完璧な距離感。
――噂通りなら、もっと冷たい目を向けられてもおかしくない。
私は、内心でわずかに警戒を強める。
「いえ。こちらこそ…この場所は、あまり人が来ませんので」
探るような言葉。それに、彼は小さく頷いた。
「…よく、ここに来るのか?」
思っていた言葉とは違い、私は一瞬だけ意外に感じた。
「ええ」
私は、足元に咲く深紅のアネモネへと視線を落とす。
「お母様……前公爵夫人が、好んでいた花ですから」
その言葉に、わずかな沈黙が落ちた。
気配が近づく。
いつの間にか、殿下が私の隣に立っていた。
「なるほど」
花を眺めながら、静かに頷く。
「…確かに、貴女の瞳と同じ色だ」
軽さはない。
評価とも、確認とも取れる声だった。
私は、思わず殿下の方を見る。
殿下もまた、私の瞳を見ていた。
一瞬だけ、視線が交わる。
「……噂を、聞いている」
空気が、僅かに張り詰めた。
「…噂、ですか」
私は、わずかに口元を緩めた。
「妹に毒を仕込んだ――そういう話でしょう?」
否定もしなければ、言い訳もしない。
「それとも、もっと酷い内容ですか?」
視線は逸らさず、殿下を見る。
「よろしければ、お聞かせください。殿下が、私をどういう人間だと"噂で"知ったのか」
殿下は、すぐには答えなかった。
アネモネの花弁が風に揺れ、その沈黙だけが長く感じる。
――やっぱり、簡単には言えないわよね。
王子という立場で、誰かの悪評を口にすることの重さ。それを理解しているからこそ、彼は慎重なのだろう。
「…随分、率直だな」
ようやく発せられた声は、低く、落ち着いていた。
「普通は、否定するか起こるか、どちらかだと思っていた」
「噂を前にして、どちらも無意味ですから」
私は、淡々と返す。
「否定すれば言い訳に聞こえる。怒れば、図星だと思われる。なら――受け止めたほうが、まだ誠実でしょう?」
殿下の視線が、わずかに細まった。
感心とも警戒ともつかない、微妙な変化。
「…噂では」
彼は、言葉を選ぶように一拍置いた。
「貴女は、強い執着を持つ人間だと言われている。ルミナ令嬢に対して、歪んだ感情を抱き、それを抑えきれなかった、と」
胸の奥が、静かに冷える。
―――"歪んだ感情"。
なるほど、ずいぶんと都合のいい要約だわ。
「それで?」
促すと、殿下は続けた。
「同時に、こうも聞いた。……その噂を、ルミナ令嬢自信は否定している」
その言葉に、ほんの一瞬だけ、心が揺れた。
―――ルミナが?
驚きは、表に出さない。
けれど、予想外だったのは確かだ。
「彼女は言っていたよ」
殿下の声は、柔らかくなる。
「"姉は、そんなことをする人じゃない"とね」
……そう。
私は、胸の内で静かに痛んだ。
「それで、殿下はどう思われましたか?」
私は、静かに問い返す。
「噂と、ルミナの言葉。その両方を聞いたうえで、今ここに立っている殿下は」
一歩も退かない。
一歩も踏み込まない。
「――私を、どういう人間だと見ていますか?」
アネモネの間を吹き抜ける風が、二人の間を通り抜けた。
これは、裁きではない。
弁明でもない。
――互いに、相手を"測る"時間だった。




