26.悪という道へ。
残された静けさの中で、私は考えていた。
今回の騒動が起きたのは、私の甘さだ。
公爵令嬢という肩書を持ちながら、私は何も選ばず、何も動かなかった。
父―――公爵の意向に従うだけの、操り人形。
私は、自分の身を守るために「侍女」という立場を選んだ。
目立たず、誰からも恨まれずに、静かに生きていける場所だと思っていた。
けれど、侍女は守られる存在ではない。
使われ、疑われ、切り捨てられる存在だ。
本来ならば―――守る側ですらない。
それでも私は、ルミナに守られてばかりいた。
だからこそ、彼女は狙われた。
私が守られる侍女でいる限り、同じことは、きっと何度でも起きる。
…ならば。
私が、公爵令嬢の立場に戻ればいい。
守るために、嫌われることを選ぶ。
正しさよりも、立場を使う。
「……私が〈悪魔の子〉と呼ばれるのなら」
そう呟き、私は扉へと向かった。
「その役目、引き受けましょう」
ルミナが光の中で生き続けるためなら、私は闇に堕ちて構わない。
―――それが、私の選択だ。
そうして私は決意を胸に、ある場所へと足を向けた。
――――――
公爵の執務室の前で、私は一度だけ足を止めた。
深く息を吸い、背筋を伸ばす。
もう、逃げない。
ノックの音が室内に響く。
「入れ」
低い声に応え、私は扉を開けた。
執務机の向こうに座る公爵は、書類から視線を上げると、私を一瞥しただけで再び目を落とした。
「…ここには来るなと言っているはずだ」
公爵の声は低く、感情を排したものだった。
私は一歩、前へ出る。
「サビーナ様からお聞きになっているはずです。あの事件に、私は無関係だと」
公爵の視線が、わずかに動いた。
「隔離されたのは、形式上の措置でしょう?証拠が出るまで、という理由で」
私は視線を逸らさない。
「ですので私は公爵様に、お願いがあり、こちらへ参りました」
言い切ってから、私は一歩も退かない。
公爵もまた、視線を逸らさなかった。
「……お願い、か」
低く呟くその声に、感情は乗らない。
「ええ」
私は静かに、けれどはっきりと告げる。
「公爵様。―――取引をいたしましょう」
公爵は、すぐには返事をしなかった。
一拍、二拍。
その沈黙の間に、私を値踏みするような視線が走る。
「……条件を聞こう」
ようやく落ちた声は、低く、感情がない。
「何を望み、何を差し出すつもりだ」
取引だと認めたわけではない。
ただ、話す価値があるかを見極めようとしているだけ。
私は、その視線から逃げずに答えた。
「私を、正式に公爵令嬢の立場へ戻してください」
一瞬、空気が張り詰める。
「名だけではありません。公の場に立つ権利、発言権、そして―――裁量を」
私は言葉を選びながらも、退かなかった。
「代わりに、私を汚れ役にしてください」
公爵の手が、机の上で止まった。
「…どういうことだ」
「簡単なことです」
私は静かに告げた。
「例えば、今回の騒動で"公爵令嬢"である私が問題を起こした、と公にすれば――外からは、身内を切ったようにも映るでしょう」
「それが何だ」
「聖女である彼女は、より一層"清らかな存在"として称えられます」
公爵は、しばらく黙っていた。
視線を外さず、私を値踏みするように。
「……で」
低く、重たい声。
「それで、私にどんな利益がある」
問いではない。条件提示を求める声だった。
私は、息を吸う。
「三つ、あります」
指を立てることはしない。
数を示すだけで十分だった。
「一つ。汚点はすべて私が引き受けます。その分、"聖女ルミナ"の純度が上がる。…教会にも王家にも、疑いの余地を残さない。結果として、彼女は"選ばれる側"になるでしょう」
公爵の眉が、わずかに動いた。
「二つ。今回の毒事件ですが―――侍女が独断で動いた、という形ではなく」
私は、言葉を区切る。
「立場を奪われた私が、侍女に命じた。そう公にすれば、処罰されたのは"侍女"ではなく"公爵令嬢"になります。身内であろうと切る。その姿勢を、内にも外にも示せます」
視線を逸らさない。
「最後に三つ。私に公爵様の"仕事"を任せていただきたいです」
「なんだと…!」
公爵が机を拳で叩く。
乾いた音が、部屋に響いた。
「失礼しました。言葉が足りませんでしたね」
一拍置いて、私は続ける。
「…表に出せない方の、仕事です」
公爵の動きが、止まった。
「今まで私に写させていた帳簿。あれが"二種類"ある理由も」
「―――それ以上、言うな」
低い声が、空気を切る。
しかし私は、退かなかった。
「領地に出向いた時、耳にしました」
――最近また税が上がった。
――食事の量を減らしている家が増えた。
「帳簿と、民の声が合わなかった」
だから、調べた。それだけのことだ。
「…知っている、ということか」
「ええ。だからこそ私ならもっと、上手くできます」
公爵の声に、怒りはもうなかった。
「…それを、黙っている保証はあるのか」
公爵の視線が、私を射抜いた。試すような、冷たい目。
私は、わずかに口角を上げた。
「あります」
そう言って、私は一歩前に出る。
「私を―――公爵令嬢として、正式にお戻しください」
一拍、置いてから続ける。
「そうしていただければ、私は言いません」
公爵は、しばらく黙って私を見ていた。
怒りでも困惑でもない―――値踏みする目。
「…一つだけ確認させろ」
低く、抑えた声だった。
「お前は、いつまで味方でいられる?」
試すような、冷たい目。
感情を測るというより、価値を量る視線だった。
「状況が変わっても、立場が逆転してもだ。お前自身が切り捨てられる側になっても―――それでも、こちらに立つと言えるか」
沈黙が落ちる。
この問いは、脅しでも忠告でもない。ただの確認だ。
"使えるかどうか"を見極めるための。
私は、視線を逸らさなかった。
「……公爵令嬢という立場でいる限り」
私は一度だけ息を吸い、言葉を続けた。
「私は公爵家に不利益となる行動は一切いたしません。世間から"悪女"と呼ばれようと、"失敗作"と切り捨てられようと―――
私は喜んで、泥を被ります」
そして、視線をまっすぐに向ける。
「ですから公爵様。私を使うか、黙らせるか……お選びください」
公爵は、しばらく私を見つめていた。
怒りでも、迷いでもない。ただ値踏みする視線。
やがて、ゆっくりと椅子にもたれかかる。
「…いいだろう」
その一言で、空気が変わった。
「ネメシア・ルーインハイト。本日付をもって、お前を正式に公爵令嬢として復帰させる」
淡々とした声。
けれど、それは撤回されることのない宣告だった。
「名のみではない。公の席への出席、発言権、社交への参加。すべて、公爵家の娘として扱われる」
私は、ただ黙って聞いていた。
「―――ただし」
公爵の声が、わずかに低くなる。
「お前は、表に立つ"清廉な娘"ではない。必要とあらば、嫌われ役を引き受ける存在だ」
その言葉に、私は一歩前に出た。
「承知しております」
即答だった。
公爵は、ほんの一瞬だけ口角を上げる。
「では、決まりだ」
机の引き出しから、一枚の書類が取り出される。
封蝋には、公爵家の紋章。
「これより、お前は―――侍女ネメシアではない。公爵令嬢ネメシアだ」
私は、静かに膝を折る。
「―――お受けいたします」
顔を上げたとき、もう迷いはなかった。
―――今度は私が、守る番よ。




