23.ごめんなさい。
年上の侍女に呼び止められたのは、その直後だった。
「ネメシア、悪いけれど紅茶をお願いできる?」
「はい」
私は銀のポットとカップを受け取る。
湯気の立つ液面は澄んでいて、香りはいつもと変わらない。
―――変わらない、はずだった。
「主役の方へ」
そう促され、私は頷いた。
祝宴のざわめきに紛れるように、人の流れに沿ってルミナのもとへ向かう。
「ルミナ様、お茶を」
差し出すと、彼女は嬉しそうに微笑み、受け取った。
「ありがとう、ネメシア」
その声は、いつも通りだった。
ルミナは一口、喉を潤すように口をつける。
「おいしい―――」
ほんの一瞬、動きが止まる。
そして、喉を押さえる仕草。
「……っ」
ルミナの顔色が、急速に落ちる。
血の気が引くのが、目に見えてわかった。
「ルミナ様?」
呼びかけるより早く、彼女の手からカップが滑り落ちる。
床に当たる音が、やけに大きく響いた。
―――おかしい。
香りも、色も。何一つ異常はなかったはずなのに。
ルミナは息を整えようとして、うまくできずにいる。
「…ネ、メシ…ア……」
その声が、かすれていた。
胸の奥が、冷たく沈む。
―――これは、ただの体調不良じゃない。
私は視線を、さきほど紅茶を渡してきた侍女のいた方へ向ける。
―――そこには、もう誰もいなかった。
「ルミナ!!!」
サビーナがいち早く駆け寄り、口元に血をにじませるルミナの身体を支える。
理解が、遅れて追いつく。
あの紅茶に、何かが入っていた。
そう気づいた時には―――
もう、後戻りはできなかった。
「―――何があった」
公爵が現れたのは、悲鳴と混乱が広がり始めた直後だった。
低く、感情のない声。それだけで、周囲は静まり返る。
サビーナが震える声で答えた。
「ルミナが……お茶を飲んだ直後に…」
公爵の視線が、ルミナへ向く。
蒼白な顔、乱れた呼吸、口元に残る赤。
一瞬で状況を理解したのだろう。
公爵は一切声を荒げなかった。
「医者を呼べ。今すぐにだ」
短く、的確に命令。
「それと―――」
その視線が、私へと移る。
「その女を拘束しろ」
空気が、凍った。
「……っ」
私は言葉を失う。
否定も、弁解も、許される余地はなかった。
二人の使用人が、私の両腕を掴む。力は強くない。だが、逃げ場はない。
「…おね、えさま……な、い…」
ルミナのかすれた声が聞こえた。けれど、その声は咳に途切れ、言葉にならない。
私は、ただ彼女を見ることしかできなかった。
―――私が、運んだ。
その事実だけが、胸の奥で重く沈む。
ほどなくして、医師が駆け込んできた。
「毒の可能性が高いです」
医師の手は止まらなかった。
脈を取り、薬を追加し、呼吸を確かめる。
だが、ルミナの顔色は蒼白なままだ。
「…反応が弱い」
医師の声が、わずかに沈んだ。
「毒は抑えていますが、体が耐えきれていない。このままでは―――」
言葉の続きを、誰も求めなかった。
ルミナの胸が、ひくりと大きく上下する。
「…くるし……」
その声は、ほとんど息に近い。
サビーナが、彼女の手を強く握りしめる。
「大丈夫よ、ルミナ。すぐ良くなるわ」
けれど、握り返されることはなかった。
その瞬間だった。
ルミナの身体を、まばゆい光が包み込んだ。
部屋の空気が、ふっと温度を帯びる。
徐々に光は収まり、冷えきっていたはずのルミナの手に、ゆっくりと温もりが戻っていく。
医師ははっと息を呑み、しばらく言葉を失ったままルミナを診ていた。
脈に触れ、瞳を確認し、胸の上下を確かめる。
そして、ゆっくりと息を吐く。
「……毒の反応が、消えています」
その一言に、室内の空気が凍りついた。
「体内から、完全に抜けています。先ほどまであったはずの毒が…ありません」
信じられない、というように医師は小さく首を振る。
「……よか、った…」
サビーナ様は、医師の言葉に張り詰めていた表情をわずかに緩めた。
そして、力の抜けたルミナをそっと抱き寄せる。
「これは…解毒ではありません。治療です。それも、極めて高度な」
医師は公爵に向けて、慎重に言葉を選ぶように説明をしていた。
その意味を、誰もがすぐには理解できないまま―――
ルミナの身体から、ゆっくりと力が抜けていった。
「…ねむ……い……」
掠れた声が、そう零れた。
ルミナは抵抗することなく、サビーナに身を預ける。
その瞼が、ゆっくりと閉じていった。
「力を使い切ったのでしょう」
医師の声は、先ほどまでとは違い、穏やかだった。
「命に別状はありません。ただ…深く眠るでしょう。しばらくは、目を覚まさないはずです」
ルミナは小さく息を整えながら、静かに眠りについた。
まるで、何事もなかったかのように。
―――本当に、よかった。
私は、胸の奥に溜まっていた息を、そっと吐き出した。
そのときだった。
視界の端に、あの年上の侍女の姿が映る。
「……おま―――」
声にしようとした瞬間、頬に鋭い痛みが走った。
頬の痛みが引くより早く、低く抑えた声が室内に響いた。
「黙れ」
その一言で、空気が張り詰める。
公爵はルミナの眠る姿を一瞥し、次に私へ視線を向ける。
その目には、怒りも動揺もない。
ただ、裁く者の目だった。
「紅茶を運んだのは、お前だな」
「…はい」
喉が、ひりいついた。
「毒の有無は未仮定だ。だが、直接手を触れたものは限られている」
公爵は淡々と続ける。
「証拠が揃うまで、ネメシアを別邸へ隔離する」
その言葉に、周囲がざわめいた。
「拘束ではない。ただし、屋敷への出入りは禁ずる。監視はつける。逃亡、接触、私的な行動は一切認めない」
私は、一歩も動けなかった。
「……異論は?」
問われているのに、答えなど最初から決まっている。
「…ありません」
そう口にした瞬間、胸の奥で何かが、静かに折れた。
「連れて行け」
その命令で、侍従が前に出る。
私は最後に、眠るルミナを見た。
白い顔、穏やかな寝息。
さきほどまでの苦しみが嘘のようだ。
―――ルミナ、守れなくて……ごめんなさい。
そう思いながら、私は静かにその場を後にした。




