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悪役令嬢の願い  作者: なむそ


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22/46

20.領地に行きます。




翌朝、私は厨房の責任者に声をかけた。


「次の補充ですが、塩と保存用の油が少し足りません。領地のほうで手配した方が早いかと」


特別なことではない。

この屋敷ではよくある判断だ。


「確かに、この量なら商人を呼ぶより早いね。お願いできるかい?」

「承知しました。帳の確認も兼ねて行ってきます」


それだけで、理由は十分だった。


書類上の手配を整え、必要最低限の荷をまとめる。

外出の名目は、買い出しと帳簿の照合。

侍女として、正しい仕事だ。誰にも疑われない。


馬車に乗り込む直前、私は一度だけ、懐の紙に触れた。

数字を書き留めただけの、あの一枚。


「…見に行くだけ」


誰かに聞かせるわけでもなく、ここの中で繰り返す。

馬車が動き出す。

屋敷の門がゆっくりと遠ざかっていく。


これから向かうのは、補充先の領地。

そして同時に、数字の先にあるものを確かめる場所だった。


街道を離れるにつれ、空気が変わっていく。

舗装は途切れ、馬車の揺れがはっきりと伝わるようになる。

風に混じる匂いも、石と鉄から、土と油へと変わった。


窓の外には、整えられた屋敷とは違う景色が広がる。

畑、倉、働く人の背中。


―――外の世界は、こんな色をしていたのか。

思わず、息が漏れた。


「……綺麗」


やがて、御者が合図を送った。馬車は速度を落とし、門が見える。


「到着です」


私は小さく頷き、裾を整えた。

ここから先は、私が一度も踏み出したことのない場所だ。


門を抜けたところで、声をかけられた。


「…あれ?」


足を止めたのは、近くにいた男性だった。


「初めて見るね。屋敷の人かい?」


不意の問いに、ほんの一瞬だけ間が空く。

声をかけられると思っていなかったからだ。


「はい。補充の件で来ました」


それだけ答えると、相手はおらかに笑った。


「そりゃ大変だ。道、分かるか?」

「……いいえ」


地図を貰ったが実際に来ると、わからない。

私は正直に言うと、男は倉の方を指した。


「迷うからな。この辺は」


その笑い声に、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。


「ありがとうございます」

「おう!気をつけてな!」


私は男に頭を下げ、指された倉の方へと足を運んだ。

知らない土地で、知らない人に言葉を交わしたのは、これが初めてだった。



倉の中は、ひんやりとしていた。

外よりも空気が重く、油と木、乾いた土の匂いが混じっている。


私は帳を抱え直し、扉を閉める。

中は整えられているが、屋敷の倉とは違い、実用本位だ。


棚に並ぶ樽、袋、箱。

それぞれに簡素な札が打たれている。


「まずは、塩」


帳を開き、該当の頁を探す。

数字を確認し、視線を棚へ移す。


一つ、二つ、三つ―――

もう一度、最初から。


「……?」


帳の数字と、目の前の数が合わない。一つ、足りない。

見落としかと思い、棚の裏や隣も確認する。

それでも数は変わらない。


「…書き間違い?」


そう思い、頁をめくる。

日付、前回の補充量、出庫の記録。

数字は不自然なほどに、きれいだ。


「次は…油ね」


同じように帳を見て、棚を見る。

…今度は逆だ。帳より在庫が多い。


「おかしい……」


声に出した途端、その言葉が倉に吸い込まれる。

一つだけなら、誤差で済ませられる。

けれど、二つ。しかも方向が違う。


私は帳を閉じ、棚をもう一度見渡した。


「……数字は合ってる」


少なくとも、帳の上では。

けれど、ここにある"物"は、嘘をつかない。


屋敷で写した帳。公爵から預かった、あの帳。

胸の奥が、静かに冷えていく。


「……今は、必要な物だけを持ち帰ろう」


私は塩と油を手に取り、倉の扉を静かに閉めた。

ここで深入りするべきではない。

調べるなら、準備を整えてからだ。



倉を出ると、少し先に小さな市が見えた。

人の声が、思っていたよりも近く感じる。

屋敷の廊下で聞く足音とは違い、重なり合って、途切れなく流れている。


……まだ戻るまでの時間はある。少し見てこようかな。


私は、人の集まる方へと足を向けた。


「安いよ!」

「今日の分だ、早い者勝ちだぞ!」

「そっちは今日取れた果物だ。新鮮だぞ!」


呼び声が飛び交い、人の流れが絶えない。

屋敷の中では聞いたことのない音の密度だった。


歩き出すと、鼻をくすぐる匂いが次々に変わる。

乾いた穀物、土と汗の混じった空気。

一歩進むごとに、別の生活がある。


私は包を胸に寄せ、無意識に歩幅を小さくした。

人と人との距離が、思っていたより近い。


ふと、きらりと光るものが視界に入った。

目を向けると、小さな身飾りが並ぶ店だった。思わず、足が止まる。


「あら、いらっしゃい」


優しそうな女性の店主に声をかけられた。


「こんにちは」


私は一言だけ挨拶をし、並んでいる品々に目を向ける。


「とても綺麗ですね」


自分でも驚くほど、素直な声だった。


「ふふふ、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しわ」


私に向けて、こんなふうに屈託なく笑顔を向けてくれる人は、最近ではルミナくらいしかいない。

だからだろうか。

店主の笑顔を見て、胸の奥が少し、むず痒くなった。


「お屋敷の方かしら?」

「そうです」


店主は、私の服装に目を留めた。


「触っても…?」

「ええ、もちろん」


私は目に入った一つの見飾りに手を出した。

小さな金具が、かすかに光を返した。


「軽い…」


思っていたより、ずっと。けれど、その分壊してしまいそうで息を詰める。


「お屋敷の方が買うには、派手じゃないでしょう?」

「はい。……でも」


言葉が続かない。

今私には手持ちがない。


「すみません。今手持ちがなくて…また次の機会でもいいですか?」


そう言った、その時だった。


「……店主、これをください」


私の横から、低い男性の声がした。

驚いて振り向くと、見知らぬ男が立っている。

彼は私の手にある見飾りを、迷いなく指さし、店主へ視線を向けていた。


「そんな…いいですよ!」


慌ててそう言って、私は男性の顔を見た。

その瞬間、胸の奥に小さな違和感が走る。


「……?」


見惚れてしまったのは、たぶんその瞳のせいだ。

視線を外す間もなく、店主が手際よく包み始める。


「はい、お会計済んだよ」


声をかけられて、はっとした。

気づいた時には、もう取引は終わっていた。


「…ありがとうございます」


私は男性から、身飾りを受け取った。


「とっても欲しそうに見ていたからね」


私は改めて、その人を見た。

年齢は四十前後。

日に少し焼けた肌に、飾り気のない服装。けれど立ち姿には、どこか無駄のない落ち着きがある。


―――やっぱり、似ている。


何よりも、瞳だ。

澄んだ、淡い色。光を受けると、わずかに金を含んだ碧。

そして男の笑顔を見て、既視感を感じた。


…ルミナと、同じ。


思わず視線を逸らす。

似ている、と断じるにはまだ早い。


偶然だ。領地なら、同じ色の瞳を持つ人もいる。

そう自分に言い聞かせても、胸の奥のざわつきは消えなかった。


「……お礼をさせてください」

「いや、いいんだ。私が勝手にやったことだからね」


―――このまま、終わらせたくない。


「でも……」


私が引き下がらないと察したのだろう。

男は一瞬、考えるように視線を逸らした。


「……それなら」


小さく息を吐いてから、こちらを見る。


「今度、買い物に付き合ってくれないかな」

「…わかりました」


一瞬だけ間を置いて、私はそう答えた。


素性がわからない相手だ。

慎重に行くべきだという考えも、頭にはある。

それでも、今この人を逃せば、もう二度と会えない気がした。


「では、次に会う約束ということで」

「はい」


短くそう答えると、男は少しだけ安心したように笑った。


「名乗っていなかったね」


男はそう言い、丁寧に一礼する。


「私はアレクシス・ヴァルディオ。侯爵位を預かっている」


―――侯爵。

どうりで、身のこなしに貴族特有の落ち着きがあるはずだと、私は納得した。

それでも、その声色には肩書を誇る気配がない。


「私は…シアです。公爵家に仕えています」


本名を名乗るわけにはいかない。

そう判断して、私は偽名を使った。


「……」


ヴァルディオ侯爵様は、私の礼儀(カーテシー)をじっと確かめるように見つめていた。


「…あの」

「いや、なんでもない!」


私の問いかけに、ヴァルディオ侯爵様は我に返ったように答えた。


「それじゃあ、次は―――」


こうして私は、この男と再び会う約束を交わした。

理由はまだ、はっきりしない。


けれど、その背中を見送ったあとも、あの淡い色の瞳だけが胸の奥に残り続けていた。





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