20.領地に行きます。
翌朝、私は厨房の責任者に声をかけた。
「次の補充ですが、塩と保存用の油が少し足りません。領地のほうで手配した方が早いかと」
特別なことではない。
この屋敷ではよくある判断だ。
「確かに、この量なら商人を呼ぶより早いね。お願いできるかい?」
「承知しました。帳の確認も兼ねて行ってきます」
それだけで、理由は十分だった。
書類上の手配を整え、必要最低限の荷をまとめる。
外出の名目は、買い出しと帳簿の照合。
侍女として、正しい仕事だ。誰にも疑われない。
馬車に乗り込む直前、私は一度だけ、懐の紙に触れた。
数字を書き留めただけの、あの一枚。
「…見に行くだけ」
誰かに聞かせるわけでもなく、ここの中で繰り返す。
馬車が動き出す。
屋敷の門がゆっくりと遠ざかっていく。
これから向かうのは、補充先の領地。
そして同時に、数字の先にあるものを確かめる場所だった。
街道を離れるにつれ、空気が変わっていく。
舗装は途切れ、馬車の揺れがはっきりと伝わるようになる。
風に混じる匂いも、石と鉄から、土と油へと変わった。
窓の外には、整えられた屋敷とは違う景色が広がる。
畑、倉、働く人の背中。
―――外の世界は、こんな色をしていたのか。
思わず、息が漏れた。
「……綺麗」
やがて、御者が合図を送った。馬車は速度を落とし、門が見える。
「到着です」
私は小さく頷き、裾を整えた。
ここから先は、私が一度も踏み出したことのない場所だ。
門を抜けたところで、声をかけられた。
「…あれ?」
足を止めたのは、近くにいた男性だった。
「初めて見るね。屋敷の人かい?」
不意の問いに、ほんの一瞬だけ間が空く。
声をかけられると思っていなかったからだ。
「はい。補充の件で来ました」
それだけ答えると、相手はおらかに笑った。
「そりゃ大変だ。道、分かるか?」
「……いいえ」
地図を貰ったが実際に来ると、わからない。
私は正直に言うと、男は倉の方を指した。
「迷うからな。この辺は」
その笑い声に、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
「ありがとうございます」
「おう!気をつけてな!」
私は男に頭を下げ、指された倉の方へと足を運んだ。
知らない土地で、知らない人に言葉を交わしたのは、これが初めてだった。
倉の中は、ひんやりとしていた。
外よりも空気が重く、油と木、乾いた土の匂いが混じっている。
私は帳を抱え直し、扉を閉める。
中は整えられているが、屋敷の倉とは違い、実用本位だ。
棚に並ぶ樽、袋、箱。
それぞれに簡素な札が打たれている。
「まずは、塩」
帳を開き、該当の頁を探す。
数字を確認し、視線を棚へ移す。
一つ、二つ、三つ―――
もう一度、最初から。
「……?」
帳の数字と、目の前の数が合わない。一つ、足りない。
見落としかと思い、棚の裏や隣も確認する。
それでも数は変わらない。
「…書き間違い?」
そう思い、頁をめくる。
日付、前回の補充量、出庫の記録。
数字は不自然なほどに、きれいだ。
「次は…油ね」
同じように帳を見て、棚を見る。
…今度は逆だ。帳より在庫が多い。
「おかしい……」
声に出した途端、その言葉が倉に吸い込まれる。
一つだけなら、誤差で済ませられる。
けれど、二つ。しかも方向が違う。
私は帳を閉じ、棚をもう一度見渡した。
「……数字は合ってる」
少なくとも、帳の上では。
けれど、ここにある"物"は、嘘をつかない。
屋敷で写した帳。公爵から預かった、あの帳。
胸の奥が、静かに冷えていく。
「……今は、必要な物だけを持ち帰ろう」
私は塩と油を手に取り、倉の扉を静かに閉めた。
ここで深入りするべきではない。
調べるなら、準備を整えてからだ。
倉を出ると、少し先に小さな市が見えた。
人の声が、思っていたよりも近く感じる。
屋敷の廊下で聞く足音とは違い、重なり合って、途切れなく流れている。
……まだ戻るまでの時間はある。少し見てこようかな。
私は、人の集まる方へと足を向けた。
「安いよ!」
「今日の分だ、早い者勝ちだぞ!」
「そっちは今日取れた果物だ。新鮮だぞ!」
呼び声が飛び交い、人の流れが絶えない。
屋敷の中では聞いたことのない音の密度だった。
歩き出すと、鼻をくすぐる匂いが次々に変わる。
乾いた穀物、土と汗の混じった空気。
一歩進むごとに、別の生活がある。
私は包を胸に寄せ、無意識に歩幅を小さくした。
人と人との距離が、思っていたより近い。
ふと、きらりと光るものが視界に入った。
目を向けると、小さな身飾りが並ぶ店だった。思わず、足が止まる。
「あら、いらっしゃい」
優しそうな女性の店主に声をかけられた。
「こんにちは」
私は一言だけ挨拶をし、並んでいる品々に目を向ける。
「とても綺麗ですね」
自分でも驚くほど、素直な声だった。
「ふふふ、ありがとう。そう言ってもらえると嬉しわ」
私に向けて、こんなふうに屈託なく笑顔を向けてくれる人は、最近ではルミナくらいしかいない。
だからだろうか。
店主の笑顔を見て、胸の奥が少し、むず痒くなった。
「お屋敷の方かしら?」
「そうです」
店主は、私の服装に目を留めた。
「触っても…?」
「ええ、もちろん」
私は目に入った一つの見飾りに手を出した。
小さな金具が、かすかに光を返した。
「軽い…」
思っていたより、ずっと。けれど、その分壊してしまいそうで息を詰める。
「お屋敷の方が買うには、派手じゃないでしょう?」
「はい。……でも」
言葉が続かない。
今私には手持ちがない。
「すみません。今手持ちがなくて…また次の機会でもいいですか?」
そう言った、その時だった。
「……店主、これをください」
私の横から、低い男性の声がした。
驚いて振り向くと、見知らぬ男が立っている。
彼は私の手にある見飾りを、迷いなく指さし、店主へ視線を向けていた。
「そんな…いいですよ!」
慌ててそう言って、私は男性の顔を見た。
その瞬間、胸の奥に小さな違和感が走る。
「……?」
見惚れてしまったのは、たぶんその瞳のせいだ。
視線を外す間もなく、店主が手際よく包み始める。
「はい、お会計済んだよ」
声をかけられて、はっとした。
気づいた時には、もう取引は終わっていた。
「…ありがとうございます」
私は男性から、身飾りを受け取った。
「とっても欲しそうに見ていたからね」
私は改めて、その人を見た。
年齢は四十前後。
日に少し焼けた肌に、飾り気のない服装。けれど立ち姿には、どこか無駄のない落ち着きがある。
―――やっぱり、似ている。
何よりも、瞳だ。
澄んだ、淡い色。光を受けると、わずかに金を含んだ碧。
そして男の笑顔を見て、既視感を感じた。
…ルミナと、同じ。
思わず視線を逸らす。
似ている、と断じるにはまだ早い。
偶然だ。領地なら、同じ色の瞳を持つ人もいる。
そう自分に言い聞かせても、胸の奥のざわつきは消えなかった。
「……お礼をさせてください」
「いや、いいんだ。私が勝手にやったことだからね」
―――このまま、終わらせたくない。
「でも……」
私が引き下がらないと察したのだろう。
男は一瞬、考えるように視線を逸らした。
「……それなら」
小さく息を吐いてから、こちらを見る。
「今度、買い物に付き合ってくれないかな」
「…わかりました」
一瞬だけ間を置いて、私はそう答えた。
素性がわからない相手だ。
慎重に行くべきだという考えも、頭にはある。
それでも、今この人を逃せば、もう二度と会えない気がした。
「では、次に会う約束ということで」
「はい」
短くそう答えると、男は少しだけ安心したように笑った。
「名乗っていなかったね」
男はそう言い、丁寧に一礼する。
「私はアレクシス・ヴァルディオ。侯爵位を預かっている」
―――侯爵。
どうりで、身のこなしに貴族特有の落ち着きがあるはずだと、私は納得した。
それでも、その声色には肩書を誇る気配がない。
「私は…シアです。公爵家に仕えています」
本名を名乗るわけにはいかない。
そう判断して、私は偽名を使った。
「……」
ヴァルディオ侯爵様は、私の礼儀をじっと確かめるように見つめていた。
「…あの」
「いや、なんでもない!」
私の問いかけに、ヴァルディオ侯爵様は我に返ったように答えた。
「それじゃあ、次は―――」
こうして私は、この男と再び会う約束を交わした。
理由はまだ、はっきりしない。
けれど、その背中を見送ったあとも、あの淡い色の瞳だけが胸の奥に残り続けていた。




