18.覚えることが多くて大変です。
休憩が明けると、セシリア様は部屋の隅に置かれた黒板へ向かう。
使用人用ではなく、学習用として設けられた小ぶりなものだ。
「それでは、次は算術です」
白いチョークを一本取る。
音は、短く乾いていた。
数字が並ぶ。
式は簡潔で、途中を省かない。
「算術は、結果より過程です」
セシリア様は振り返らずに告げる。
「どこで考え、どこで迷ったか。そこに癖が出る」
ルミナは黒板を見つめ、椅子から身を乗り出した。
「この式、どう思いますか?」
指されたのは、答えではなく途中式だった。
「…割る順番、ですね」
「ええ」
ルミナの答えにセシリアは即答した。
「ここを変えるだけで、計算は楽になります」
その手つきに迷いはなく、説明も必要最低限だった。
「では、今度はこちらを。途中までで構いませんから、書いてみてください」
ルミナは素直に立ち上がり、黒板の前へ進む。
チョークを手に取り、迷うことなく式を書き始め―――あっという間に形にした。
「…正解です」
整った式を前に、セシリア様は一瞬だけ目を見開いた。
すぐに表情を戻したものの、その反応を見て、ルミナはわずかに胸を張ったように見えた。
…すごい。
私は素直に、そう思ってしまった。
元々ルミナには、時折どこか計算高いところがあると感じていた。
けれど今、その感覚は―――確信に変わる。
「…どうやら、ルミナ様には簡単すぎたようですね」
そう言って、セシリア様は黒板へ向き直った。
白いチョークが迷いなく走り、数字が次々と並んでいく。
端数を含む収支の計算。単純な足し引きでは終わらない式だ。
「帳簿上、この差分はどう扱うべきでしょうか。切り捨て、繰り上げ、それとも―――」
ルミナは一瞬口を開きかけ、言葉を飲み込んだ。
そして、ちらりとこちらへ視線を向けた。
「……ネメシアなら、どう考えますか?」
その問いに、部屋の空気がわずかに動いた。
「……いいでしょう」
短い一言だったが、それは"発言を許可する"合図だった。
「金額だけを見るなら、処理方法はいくつかあります。ですが―――」
視線を黒板に向けたまま、続ける。
「これは、"何に使われるお金か"で変わります。領民への支払いなら誤差は信頼に関わりますし、内部処理なら次の帳に回す選択もあります」
答えではない。判断の基準だけを、置く。
セシリア様は何も言わず、その答えを引き取るように黒板に書き足した。
「……その通りです」
短く、静かに。
「算術は正確さを競うものではありません。"何を守る数字か"を見誤らないためのものです」
ルミナは小さく頷き、黒板を見つめている。
「算術は正確さを競うものではありません。"何を守る数字か"を見誤らないためのものです」
ルミナは小さく頷き、黒板を見つめていた。
その後も、セシリア様の丁寧な指導は続いた、
ルミナは、心なしかいつも以上に疲れた様子を見せている。
「―――それでは、本日はここまでにしましょう」
セシリア様がそう告げると、張り詰めていた空気が静かにほどけた。
「お疲れ様でした、ルミナ様。初日にしては十分すぎるほどです」
「…ありがとうございます、セシリア先生」
ルミナは深く礼をし、椅子に座り直した。疲労は隠せないが、その目には確かに満たされていた。
セシリア様は黒板を一瞥し、チョークを置いた。
そして、私の方を一度だけ見る。言葉は、なかった。
「では、公爵にご報告に行きます」
セシリア様はそれだけ告げ、部屋を後にした。
足音は静かで、迷いがない。
その背を見送ってから、私は静かに片付けを始めた。
――――――
公爵の執務室は、相変わらず静かだった。
「失礼いたします」
入室の許可を得て、一礼する。
公爵は書類から視線だけを上げ、言葉なく続きを促した。
―――この方は、余計な言葉を好まれない。
「本日の指導は終了しております」
私は事実のみを選び、簡潔に並べる。
「基礎的なマナー。立ち方、歩き方、着座までを確認しました。算術と読み書きについても、年齢相応以上の理解が見られます」
「そうか」
公爵は短く相槌を打った。それ以上の言葉はなかった。
だが、それで十分だった。
「なお―――」
一拍だけ置く。
「算術の応用部分で、侍女のネメシアが示した判断基準は、実務に即したものでした」
私のその言葉に、公爵はようやく書類から手を離した。
「……ネメシアが?」
短い問い。確認であって、疑問ではない。
「問いに対し、正答を出したのではなく、判断基準を示しました。あれは教えられた答えではありません」
それ以上は言わない。私は報告をしに来ただけだ。
「……そうか」
公爵はペンを置き、しばし考えるように視線を落とした。
「特に問題はありません。このまま続行可能です」
「…わかった」
公爵の了承を受け、わたしは静かに執務室を後にした。
――――――
私はルミナを部屋へと見送った後、仕事に向かおうとした。
その途中で、執事に呼び止められる。
「…公爵様が執務室でお呼びです」
その短い伝言だけで、理由は告げられない。
ほんの少し、胸がざわついた。
私はその気持ちを抑え、扉の前に立つ。ノックをし、入室を許された。
「お呼びでしょうか」
公爵は机に向かったまま、こちらを見ない。手元には、数枚の書類が広げられている。
「そこへ来い」
指示はそれだけだった。
近づくと、書類が視界に入る。帳簿、金額、日付。どれも一見して整っている。
「お前には、この仕事を与える」
公爵はそう言って、一冊の帳を差し出した。
「こちらの帳を写せ。原本はここに残す」
「…承知しました」
―――なぜ、私に?
そう思わなかったわけではない。けれど、口にできるはずもない。
「数字は見たままだ。余計な手は加えるな」
「はい」
「写しは、お前が管理しろ」
それだけだった。
理由も、説明もない。
私は帳を受け取り、一礼する。
その紙の重みが、ただの仕事ではないことを、まだ言葉にできないまま。
私はその重みを抱え、自室へと戻った。




