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悪役令嬢の願い  作者: なむそ
《日常〜ルミナ誕生会》

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19/96

17.学ぶことも楽しいですね。

 


 数日が経ち、屋敷には公爵家付きの家庭教師が訪れた。

 私を含め、数名の使用人が出迎えに立つ。

 そのすぐ後ろには、公爵とサビーナ様、そしてルミナが控えていた。


 玄関ホールに程なくして現れたのは、落ち着いた色の外套を纏った一人の女性だった。

 年は、四十前後ぐらいだろうか。

 背筋は真っ直ぐで、歩き方に一切の無駄がない。

 派手さはないが、身につけているものはどれも上質で……公爵家に招かれる理由が、一目でわかる。


 ――なんて綺麗なんだろう。


 立ちふるまいだけで目を引いてしまう事実に、私は胸の奥がわずかに高鳴るのを感じた。


「お久しぶりです、公爵」


 低く穏やかな声。


「来てくれて助かる。セシリア・ヴァルデイン」


 公爵にそう言われた彼女の視線は、すっとこちらへ流れた。

 評価でも、警戒でもない。

 ただ、そこに"いる"ことを確認するだけの目。


 一拍置いて、彼女は何事もなかったようにルミナへ向き直る。


「初めまして、ルミナ様。本日より、こちらでご指導を任されましたセシリア・ヴァルデインです。……私のことはセシリアとお呼びください」

「セシリア先生、よろしくお願いします!」


 ルミナが明るく頭を下げると、セシリアはごく薄く微笑んだ。

 その横顔を見ながら、私は悟る。


 ――この人は、屋敷の空気を知っている。私の立場も。


 だからこそ。

 彼女は何も言わず、何も聞かないのだ。


 簡単な挨拶を済ませ、私はルミナの少し後ろを歩き、セシリア様と共に部屋へ入った。

 セシリア様は無言で、一度だけ周囲を見渡した。

 窓の位置、机と椅子の配置、そして光の入り方。

 まるで、これから使う道具を確認するように。


「こちらでよろしいですね」


 それは確認というより、指導が始まる合図だった。

 ルミナが椅子に座ると、セシリアはゆっくりと向かいに立つ。

 私は少し後ろ、指示された通りの位置に控えた。


「では、始めましょう」


 その一言で、空気が変わる。


 先ほどまでの談笑の余韻は、きれいに切り離された。

 声は穏やかだが、曖昧さがない。

 教える側としての距離と、線がはっきり引かれるのを感じた。


「今日は、基礎の確認からです。マナー、算術、読み書き。すべて"公爵令嬢として"不足がないかを見ます」


 ルミナは小さく息を吸い、背筋を伸ばした。


「はい、セシリア先生」


 その様子を見て、私は思う。


 ――この人は甘やかさない。けれど、突き放しもしない。平等で人を見ている。


 そうして静かで、逃げ場のない指導が始まった。


「ではまず、立ってください。学ぶ前に"今の姿"を見せていただきます」


 セシリア様の声は静かだった。

 命じるでもなく、促すでもない。それでも、その場にいる全員が従うことを前提とした声。

 ルミナが椅子から立ち上がる。私は一歩引き、壁際に下がった。


 ――私は、指導を受ける立場ではない。


「力は入れなくて結構です。いつも通りで」


 セシリア様はルミナの姿勢にゆっくりと視線を巡らせる。


「……」


 何も言わない。

 けれど、その沈黙は誰かに"見られている"時間だった。


「ルミナ様」


 名前を呼ばれ、ルミナがぴんと背筋を伸ばす。


「肩の力を少し抜いて。顎は引きすぎない。視線は正面」


 一つずつ、短く。

 ルミナは言われた通りに直し、すぐに姿勢が整う。


「よろしいですね」


 その言葉とともに映るルミナの立ち姿を見て、私ははっきりとした違いを感じた。

 ……これが、公爵令嬢としての立ち振る舞い。

 そして、私の立つ場所との違い。


 ――けれど、私も"公爵令嬢"だ。


 セシリア様は、私には一切視線を向けなかった。

 声も、指示も、何もない。


 けれど私は、目を逸らさなかった。


 ルミナの足の位置。

 体重のかけ方。

 背筋の伸び方と、肩の落とし方。


 ――全部、頭に刻み込む。


「立ち方は、まず"軸"です」


 セシリア様の声だけが、静かに部屋に落ちる。


「軸がぶれなければ、動きは自然に見える。逆に、意識しすぎると不自然になる」


 ルミナは小さく呟きながら、もう一度立ち直す。


 ……なるほど。


 私は無意識に、自分の足元を見る。

 侍女として立つ時の位置。給仕をする時の距離。


 同じ"立つ"でも、求められる意味が違う。


「侍女は、目立たず。令嬢は、在るだけで場を整える」


 そう言われたわけじゃない。でも、見ていればわかる。

 私は教えられていない。

 けれど、学べないわけじゃない。


 ――教わらなくても、盗めばいい。


 私は壁際で静かに息を整え、もう一度ルミナの姿を見た。

 この時間は、ルミナに与えられたものであり、同時に私にとっても"学びの場"だった。


「……それでは、次は歩きましょう」


 セシリア様はそう言って、部屋の中央を指した。


「端から端まで。一度で結構です」


 ルミナは頷き、指示された位置に立つ。


「先ほど言った通り、重心を意識して。足を出そうとしない」


 声は静かだが、逃げ場はない。

 ルミナは一歩、踏み出した。


 最初の一歩は少し硬い。けれど二歩、三歩と進むうちに、動きが整っていく。


「……今の音、聞こえましたか」


 セシリア様の声が、ぴたりと落ちた。


「床を叩く音です。力が下に落ちています」


 ルミナは小さく息を飲み、もう一度歩いた。

 今度は、足音がほとんどしない。


 ……歩き方を工夫するだけで、こんなにも違う。


「よろしい」


 短いその一言に、ルミナは微笑んでいた。

 私は壁際で、足元から目を逸らさずに見ていた。

 重心の移動、歩幅、腰の位置が上下しない理由。


 侍女として身につけた"気配を消す歩き方"とは、似て非なるものだ。これは、"見られる前提"の歩き方。


 ――同じ床を歩いているのに、意味がまるで違う。


「では、座ってください」


 今度は椅子を示される。


「椅子に触れる前に、動作は始まっています」


 ――座る、という行為は、腰を下ろす瞬間だけではない。

 ルミナが椅子の前に立つ。


「背を向けない。視線を落としすぎない」


 ただ座るだけのはずなのに、セシリア様の指示は細かい。


「腰から下ろす意識で。音を立てない」


 ルミナは慎重に動き、静かに腰を下ろした。

 椅子は、微塵も音を立てなかった。


「初めてにしては、上出来です」


 その言葉に、ルミナの表情がほんの少し緩む。

 それは褒められたからというより、張りつめていた糸が許されたような、そんな緩み方だった。


 私はその一連を、息をするのも忘れて見ていた。

 座る前の間。

 裾の扱い。

 膝の揃え方。


 ……知っているはずの動作なのに、こんなにも違う。


「今日はここまでにしましょう」


 微笑みを浮かべたセシリア様がそう告げると、部屋に張りつめていた空気が、音もなくほどけた。


「少し休憩を。無理に詰め込む必要はありません」


 ルミナは深く息を吐き、頷いた。


「ありがとうございます、セシリア先生」


 その声には、疲労と、確かな手応えが混じっている。

 私は壁際のまま、そっと肩の力を抜いた。


 ――休憩は、ルミナのためのもの。


 けれど私にとっても、頭の中を整理する時間だった。

 立つ。歩く。座る。

 どれも知っているはずなのに、知らなかった。

 次に動く時、私はきっと無意識にこの"型"をなぞるだろう。


 教わらなくても、学べる。侍女の時でもそうしてきた。

 そして――ここでも。



 休憩のため、紅茶が用意された。

 セシリア様が席を外したのを確認すると、ルミナはふっと肩の力を抜き私の方を見た。


「……つかれたぁ……」


 さっきまでの凛とした姿はどこへやら。

 椅子に座ったまま、少しだけ前に見を倒す。


「よく頑張りました」


 私がそう言うと、ルミナは小さく笑って、私の袖をつまんだ。


「ねぇ、お姉様……私、ちゃんとできてた?」

「えぇ。とても綺麗だったわ」


 それだけで、ルミナはぱっと表情を明るくする。


「ほんと?じゃあ、頑張ってよかったー」


 その笑顔は、公爵令嬢のものではない。年相応の、無防備な顔。

 私は無意識に一歩、距離を詰めていた。


 ――あ。


 気づいて、足を止める。

 背筋を伸ばし、体重をほんの少しだけかかとに乗せ直す。

 肩の力を抜き、顎を引きすぎない。


 ……さっき見た通りだ。


 誰にも見られていないのに。

 注意も、命令もされていないのに。


 私は、もう"あの立ち方"をなぞっていた。


「お姉様?」


 呼ばれて、はっとする。

 ルミナは、どこか楽しそうに微笑んだ。


「……ふふふ。やっぱりお姉様なら、ちゃんと見てくれると思ってた」


 そう言って、ルミナは意味ありげに微笑んだ。

 子供らしい無邪気さと、どこか計算された色が混じった表情。


「それってどういう――」


 問いかけた、その瞬間。


「あ、先生」


 ルミナの声色が、すっと変わる。

 先ほどまでの柔らかさを一瞬で引き、きちんとした姿勢に戻る。

 扉の方へ視線を向けると、セシリア様が静かに立っていた。


「おまたせしました」


 それだけを告げ、視線は一度ルミナに、そして――私に、かすかに流れる。

 気づいたのは、私だけだったかもしれない。


「では、続けましょうか」


 その一言で、部屋の空気は再び引き締まる。

 私はルミナの後ろに立ち、いつもの"侍女の位置"に戻る。

 けれど、胸の奥には、さっきの言葉が残ったままだった。


 ――ちゃんと見てくれると思ってた。


 それは、ただの信頼か。それとも、もっと先を見据えた言葉だったのか。


 今は、まだ聞かない。

 聞けない。


 けれど確かに、ルミナは私が"見る側"であることを、最初から知っていた。

 その事実だけが、静かに胸に残る。


 私は息を整え、再びルミナの背中を見つめた。




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