10.ルミナとお話します。
あれから私は、公爵に「下がれ」と言われ、何も言えないまま自室へ戻った。
心を落ち着かせたくて、夜空を見上げる。
夕暮れ時はすでに遠く、星の明かりだけが静かに部屋を満たしていた。
引き出しの奥にしまった箱のことが、ふと頭をよぎった。
私は一度、ためらってから箱を取り出す。
そして、そっと鍵を差し込んだ。
しかし、鍵はまだピクリとも動かない。
―――まだ、その時ではない。
そう、箱そのものに拒まれているようだった。
「……」
私は、ほんの少しだけ心に安らぎを覚えた。
そして、もう一度箱を引き出しの奥へとしまい込む。
すると、扉を叩く音が響いた。
「…私、ルミナです」
聞き覚えのある、少し遠慮がちな声だった。
「少しお話が、あります」
私は一度だけ深く息を吸い、扉へと向かった。
そして、扉を手に掛ける。
「……入っていいですよ」
扉を開けると、先程と同じ装いをしたルミナが一人で立っていた。
付き添いの侍女の姿は、どこにもいない。
私はルミナを部屋の中へと招き入れる。
部屋の真ん中にあるソファに、私たちはテーブルを挟むように向かい合って座った。
「…話とは何でしょうか?」
そう聞くと、ルミナは一瞬だけ視線を泳がせた。
その仕草に、少しだけ緊張しているのが伝わってくる。
「……先程は、私の提案に賛同していただき、ありがとうございます」
そう言って、ルミナは深々と頭を下げた。
あまりに丁寧すぎるその動作に、私は言葉を失い、ただ目を見開くことしかできなかった。
「…やめてください」
「いえ…。ネメシア様にとって、私たちは許されない存在だと、そう思っています」
その言葉に、胸の奥がざわりと揺れた。
どうして、この子がそんな言葉を選ぶのか。
どうして、私の顔色をうかがう必要があるのか。
―――そんなもの、私には決められないのに。
「それでは、なぜ…私を侍女として傍に置こうとしたのですか」
たくさん言いたいことはあった。
けど、喉を通り抜けたのは、それだけだった。
するとルミナは頭を上げて一瞬、言葉を失ったように唇を閉じる。
そして、膝の上で組んだ指先に、ぎゅっと力を込めた。
「……ネメシア様を、助けたかったからです」
澄んだ藍色の瞳は、まっすぐに私を射抜いていた。
「なぜ…」
私には、貴女に助けられるようなことを、何もしていない。
そう思って口にしたはずだった。
けれど、ルミナはゆっくりと首を振る。
「いいえ。していました」
その声は、はっきりとしていた。
「誰にも縋らず、誰にも守られず……それでも、ここに立っていた」
そう言いながら、瞳は優しく私を見つめている。
「……それは、ただ生きていただけです」
私は、そう返すしかなかった。
誇れるようなものじゃない。逃げることもできず、ここに"残されていた"だけだ。
「違います」
ルミナは即座に否定した。
「貴女は生きることをやめなかった。それはとても強い選択だと、私は思ったからです」
その言葉に、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
―――強い?私が?
「…そんなふうに言われたのは、初めてです」
ぽつりとこぼれた声は、自分のものなのに、ひどく他人事のように感じた。
ルミナは、少しだけ頬笑む。
その表情は、年相応の無邪気さとは違う。―――何かを覚悟した人の、静かな笑みだった。
「…なぜ、私がネメシア様を侍女にしたか…のお話でしたね」
そう言って、ルミナは一度ゆっくりと息を整えた。
「それは…ネメシア様の環境を、変えたかったからです」
そう告げると、ルミナは私の部屋へと静かに目を巡らせた。
飾り気のない調度品。
最低限の家具だけ置かれた、ひどく静かな空間。
「ネメシア様は公爵令嬢であるはずなのに、ここには物が少なすぎます」
「それに…」と、ルミナは一度、言葉を切った。
まるで、どこまで踏み込んでいいのか測っているように。
「……周りの人たちの態度が、気に触りました」
そう言うと、ルミナは思い出したように頬を膨らませた。
先程までの落ち着いた表情とは違う、年相応の仕草。
「だって、おかしいじゃないですか!ネメシア様は、何も悪いことをしていないのに…。挨拶をしても視線をそらされたり、話しかけても返事が遅かったり……」
一つ一つ数えるように、指を折っていく。
「特に、公爵様!」
するとルミナはテーブルに両手を置き、身を乗り出した。
「自分の娘なのに、あの冷たい態度!命令だけしておいてあとは知らん顔とか……」
次々と溢れる言葉に、私はただ目を瞬かせていた。
誰かが、こんなふうに私のために怒っていくれるなんて―――考えたこともなかった。
「……ルミナ様」
思わず名前を呼ぶと、ルミナははっとしたように口を閉じる。
そして、少しだけ気まずそうに、身を乗り出した体を元に戻した。
「……ごめんなさい。出すぎたことを言いました」
反省をしているかのような表情をしている。
「……クスッ」
私は百面相のルミナを見て、思わず小さく笑ってしまった。
「…コホン。……それでもルミナ様の侍女になって、改善することはできるのでしょうか?」
久しぶりに浮かんだ笑みが、ひどく居心地悪くて。
私は咳払いをして、無理やり話を戻した。
「そうですね…。まず、食事は私と同じ物を食べれるように手配はしやすいかと…。そして服装の横流し、というより"共有"という形にすれば問題ありません」
さらりと言っているけれど、それは今までの私の生活では考えられないことだった。
「それに、ネメシア様の存在が大きくなります」
私の存在?
「私の傍にいれば、必然的にと虐めてくる人もいなくなるでしょう」
確かに…公爵が選んだ、ルミナの侍女という肩書き。
もし、私をいじめる者がいれば、ルミナが直接叱ることもできる。
彼女なりにいろいろと考えていることが伝わってきた。
私にとっても、この肩書きはプラスになるかもしれない。
「…わかりました。ルミナ様の熱意が伝わりました」
そう言うと、ルミナはぱっと笑みを浮かべる。
「…改めて、よろしくお願いします。ルミナ様」
私はルミナ様に、そっと手を差し出した。
それを見たルミナは少し戸惑いながらも、私の手を握り返す。
「…もし、嫌でなければ、お姉様と呼んでも?」
そう言って、ルミナは少し恥ずかしそうに私から目をそらした。
「ええ…いいですよ」
その表情を見て、私はほんの少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じた。




