5話「欠けた事実」
朝。
目覚ましが鳴るより少し早く、祐介は目を覚ました。
昨夜の夢は、やはり思い出せない。
ただ、
胸の奥に薄い膜のような違和感が残っていた。
机の上を見る。
氷は、そこにある。
昨日と同じ。
位置も、光も、何も変わっていない。
「……夢じゃない、か」
小さく呟き、身支度を整える。
制服に袖を通しながら、
ふと、胸ポケットに手を入れた。
スマホ。
画面を点ける。
通知は、特にない。
葵からのメッセージも――
当然、来ていない。
分かっている。
分かっているはずなのに、
「……あ」
指が止まった。
“当然”という言葉に、
ほんの一瞬、引っかかりを覚えた。
何が当然なのか。
なぜ、そう思ったのか。
答えは出ない。
祐介はスマホをポケットに戻し、
家を出た。
⸻
通学路。
いつもの交差点を、
今日は遠回りして避ける。
理由は、特にない。
足が、勝手にそう動いただけだ。
学校に着くと、
廊下は朝特有のざわめきに満ちていた。
「おはよー、祐介」
声をかけてきたのは、クラスメイトの澄乃だった。
「おはよ」
短く返す。
澄乃は、少しだけ間を置いてから、
探るように続けた。
「……元気、なさそう?」
「そう?」
「うん。なんか、昨日より静か」
昨日。
その言葉に、祐介の意識がわずかに引っ張られる。
「普通だろ」
そう答えると、
澄乃は苦笑した。
「まあ、そっか」
それ以上、踏み込んでこない。
その距離感が、ありがたかった。
席に着く。
机に肘をつき、
窓の外を見る。
青空。
雲ひとつない。
――あまりにも、普通。
授業が始まり、
ノートを取る。
内容は、頭に入ってくる。
でも、どこかで“置いていかれている”感覚があった。
(……何だ、この感じ)
昼休み。
購買のパンをかじりながら、
何気なく澄乃と雑談をしていたとき。
澄乃が、ふと首を傾げた。
「ねえ、祐介」
「ん?」
「……葵ちゃんのことなんだけどさ」
一瞬、音が消えた。
世界が、ほんの少しだけ静かになる。
「何」
自分でも驚くほど、
声が平坦だった。
澄乃は、言葉を選ぶように続ける。
「事故だったよね。たしか」
祐介は、うなずいた。
「……うん」
それは、事実だ。
葵は事故で亡くなった。
間違いない。
なのに。
「でもさ」
澄乃は、眉を寄せた。
「どんな事故だったっけ?」
その瞬間。
祐介の頭の中で、
“何か”が、きれいに抜け落ちた。
交差点。
車。
音。
そこまでは、思い出せる。
――その先が、ない。
「……」
祐介は、言葉を探した。
探して、
何も見つからなかった。
「……分かんない」
正直に言った。
澄乃は、一瞬驚いた顔をしてから、
気まずそうに笑った。
「え、祐介のお姉さんだよね?」
「妹だ」
「ごめん」
短い沈黙。
澄乃は、話題を変えるように、
パンの袋を丸めた。
「まあ、事故って言っても色々あるしね」
軽く。
あまりにも、軽く。
祐介の胸が、じわりと冷えた。
(……俺だけじゃない)
放課後。
教室を出るとき、
掲示板に貼られた古いプリントが目に入った。
「交通安全週間のお知らせ」
日付は、
葵が亡くなった週と、重なっている。
祐介は、近づいた。
事故の詳細。
注意喚起。
――書いてあるはずだ。
そう思った。
だが、
どこにも、具体的な事故内容は書かれていなかった。
抽象的な文言だけ。
「気をつけましょう」
「注意しましょう」
それだけ。
「……そんなわけ、あるかよ」
小さく呟く。
家に帰る。
靴を脱ぎ、
部屋に入る。
机の上の氷が、
昨日より少しだけ、強く光っていた。
気のせいじゃない。
「……お前、知ってんのか」
問いかける。
氷は、答えない。
でも、
否定もしない。
祐介は、椅子に座り、
額を押さえた。
確実に、葵は死んでいる。
葬儀もした。
骨も、見た。
それなのに。
「……死に方だけが、抜けてる」
ぽっかりと空いた穴。
誰も気にしていない。
疑問にすら、思っていない。
――俺だけだ。
そのとき、
背後の空気が、わずかに揺れた。
昨夜と同じ感覚。
けれど、今回は、
ほんの少しだけ、はっきりしている。
“観測”。
そんな言葉が、頭をよぎる。
「……見てるなら、出てこいよ」
当然、返事はない。
氷が、静かに冷たさを増す。
拒絶ではない。
制止でもない。
――今は、まだ。
そう告げられている気がした。
祐介は、深く息を吐いた。
逃げる気は、もうなかった。




