4話「声にならないもの」
夜。
祐介の部屋は、机のライトだけが点いていた。
窓の外は静かで、車の音もほとんど聞こえない。
机の上には、あの氷。
拾ってから、ずっとそこにある。
しまおうとも、捨てようとも思わなかった。
――いや、
“できなかった”が正しい。
氷は、相変わらず溶けない。
触れれば冷たい。
けれど、痛みはない。
「……ほんと、夢じゃないんだな」
昨日の出来事を、もう一度なぞる。
交差点。
白線。
一瞬だけ見えた、葵の横顔。
幻覚だと言い聞かせても、
氷の存在だけが現実を主張してくる。
祐介は、椅子から立ち上がり、
窓を少しだけ開けた。
夜風が入る。
冷たいはずなのに、
部屋の空気は、どこか張りつめたままだった。
背後で――
カラン。
小さな音。
振り返る。
氷は、机の上に置いたまま。
落ちても、割れてもいない。
なのに、
確かに“鳴った”。
「……今の、何だよ」
祐介は、ゆっくりと近づく。
氷の内部で、
淡い光が、呼吸のように揺れていた。
一定ではない。
意思があるとも言い切れない。
けれど――
“祐介を待っている”。
そんな距離感。
指先を伸ばす。
触れる直前、ほんの一瞬だけ、ためらいが生まれた。
(……触れたら、戻れない気がする)
何が変わるのかは分からない。
でも、
“何も変わらない世界”に戻れない。
それでも、祐介は触れた。
ひやり、とした冷たさ。
同時に、
胸の奥に、言葉にならない感触が流れ込む。
声ではない。
映像でもない。
ただ、
「そこにいた」という事実だけ。
葵が生きていた日々。
特別じゃない、どうでもいい瞬間。
朝のキッチン。
ソファの端。
適当に結んだ髪。
――全部、“理由のない記憶”。
「……」
祐介は、息を止めていたことに気づき、
ゆっくり吐いた。
涙は、出なかった。
悲しいのかどうかすら、分からない。
「……お前、何なんだよ」
問いかける。
氷は、答えない。
ただ、
“否定しない”。
それだけで、祐介の胸は少し楽になった。
そのとき。
部屋の奥で、
空気が、わずかに歪んだ。
目に見えるほどじゃない。
音もない。
でも確かに、
“誰かが見ている”気配。
昨日も感じた、あの感覚。
祐介は、はっとして周囲を見回す。
「……誰だよ」
返事はない。
ただ、
氷が、静かに光を強めた。
――大丈夫
――まだ、触れない
そんな距離を保つような、曖昧なニュアンス。
祐介は、苦笑した。
「……お前も、よく分かんねぇな」
氷は、何も言わない。
でも、
そこに“在り続ける”。
祐介は、氷をそっと机の引き出しに入れた。
閉める直前、一瞬だけ迷って――
やめた。
「……やっぱ、ここでいい」
机の上。
見える場所。
逃げない、という選択。
ライトを消し、
ベッドに横になる。
目を閉じても、
氷の光が、薄くまぶたの裏に残っている。
その夜、祐介は夢を見た。
――内容は、覚えていない。
けれど、
目覚めたとき。
胸の奥に、
「見られていた」という感覚だけが、はっきり残っていた。




