3話「触れてはいけない温度」
家に戻るまでの記憶が、ほとんどない。
気づいた時には、祐介は自分の部屋にいた。
制服のまま、椅子に座っている。
机の上。
ポケットから出した“氷”が、静かに置かれていた。
照明の光を受けて、内部に細い筋が揺れている。
溶けない。
水も落ちない。
ただ、そこに“在る”。
「……ほんとに、なんなんだよ」
声に出した瞬間、
氷の中の光が、ほんのわずかに強まった。
気のせいだと思いたくなる変化。
でも、昨日から何度も見ている。
祐介は、椅子を引き寄せて腰を下ろした。
逃げる気は、なかった。
指先を、そっと近づける。
触れた瞬間――
ひやり、とした冷たさ。
同時に、胸の奥を撫でるような感覚。
「……っ」
反射的に手を引く。
心臓が、やけにうるさい。
(冷たい。でも……嫌じゃない)
説明できない。
氷なのに、拒絶がない。
もう一度、触れる。
今度は、少しだけ長く。
光が、脈を打った。
部屋の空気が、わずかに変わる。
音が遠くなる。
視界の端で、
“誰かが立っている気配”がした。
振り向く勇気は、なかった。
「……見えてるわけ、ないよな」
そう言い聞かせる。
けれど、
伝わってくる。
言葉じゃない。
声でもない。
――知っている
――覚えている
そんな“向き”だけが、胸に流れ込む。
「……葵、なのか?」
問いかけた瞬間、
氷の光が、すっと弱まった。
否定。
でも、拒絶ではない。
“違う”
“でも、つながっている”
そんな感覚。
祐介は、息を吐いた。
「……そっか」
理由もなく、納得していた。
「じゃあ……お前は、なんだ」
返事はない。
ただ、氷の内部で、
小さな影が揺れた。
花びらのような形。
子どもの字で描いたみたいな、丸い線。
――葵の落書き。
胸が、きしんだ。
「……なんで、そんなの知ってる」
問い詰める声にならない。
氷は、静かに光るだけだった。
その光は、
“思い出させる”ためのものではない。
“そこにあった”と示すだけの光。
祐介は、氷を両手で包み込んだ。
冷たい。
でも、逃げたくならない。
「……なあ」
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。
「俺さ……事故のこと、思い出せないんだ」
答えはないと分かっている。
それでも、言葉は止まらなかった。
「みんな、覚えてないみたいで。
でも……それって、おかしくないか」
氷が、わずかに震えた。
肯定でも、否定でもない。
ただ、“聞いている”。
祐介は、目を閉じた。
「……もし、お前が……
俺に何か見せたいなら」
一拍、間を置く。
「逃げないから」
氷の光が、やさしく揺れた。
それは、約束ではない。
導きですら、まだない。
ただ――
“縁”が、確かにつながった瞬間だった。
その夜、祐介は夢を見なかった。
けれど、
暗闇の中で、氷の温度だけが、ずっと確かだった。




