18話「名前のない余白」
朝の駅前は、いつも通りだった。
人が行き交い、
自動ドアが開閉し、
コーヒーの匂いが、少しだけ風に混じる。
祐介は改札を抜けながら、
胸の奥に引っかかるものを、今日も無視していた。
理由は分からない。
ただ、何かを置いてきた気がする。
それだけだ。
ポケットに手を入れると、
指先に小さな硬さが触れた。
花の形をしたキーホルダー。
安っぽい金属で、
少しだけ塗装が剥げている。
「……なんで、これ持ってるんだっけ」
声に出してみても、答えは返ってこない。
捨てるほど嫌でもない。
大事にしている、というほどの実感もない。
ただ、
手放すのが、なんとなく怖い。
それだけだった。
⸻
昼休み。
同僚が、ふと思い出したように言った。
「そういえばさ、
この前の休み、妹さんの話してたよね?」
祐介は、一拍遅れて頷いた。
「ああ……うん」
名前は、出てこない。
顔も、声も、思い出せない。
けれど、
“妹”という言葉だけが、胸に引っかかる。
「元気そうでよかったよ」
「……そうだね」
分かっているふりをして、笑う。
その瞬間、
胸の奥で、薄く痛みが走った。
――知らないはずなのに。
――失ったはずなのに。
何かを、失ったことだけは分かる。
⸻
帰り道。
夕暮れの交差点で、祐介は足を止めた。
信号待ち。
何の変哲もない場所。
なのに。
胸が、ざわつく。
「……ここ」
理由はない。
根拠もない。
ただ、
ここに立つと、世界が少しだけ重くなる。
ポケットの中で、
キーホルダーが指に当たった。
その瞬間。
「――それ、まだ持ってんだ」
不意に、背後から声がした。
振り返る。
見覚えのない女の子。
白っぽい髪に、ラフな服装。
どこか、浮いている。
「……知り合い?」
「んー、直接は?」
女の子は軽く首を傾げて、笑った。
「でもさ、それ、
ちゃんと“持って帰ってきた”んでしょ」
胸が、強く鳴る。
「……何の話だ」
「んー、説明すると長いし、
今はしなくていいかな」
女の子――ルシェルは、
祐介の手元を一度だけ見て、言った。
「それね、
忘れても、消えないタイプのやつだから」
「……は?」
「大丈夫大丈夫」
軽い調子で、手を振る。
「思い出すかどうかは、祐介次第。
でも――」
一瞬だけ、
真剣な目になる。
「ちゃんと選んだってことだけは、
忘れないでいいよ」
信号が変わる。
人の流れが動き出す。
もう一度瞬きをしたとき、
彼女の姿は、どこにもなかった。
⸻
夜。
部屋で、キーホルダーを机に置く。
眺めていると、
胸の奥に、言葉にならない感情が溜まっていく。
悲しいのか、
寂しいのか、
それとも――安心なのか。
分からない。
けれど。
「……守れた、気はするな」
誰に向けた言葉でもなく、そう呟いた。
キーホルダーは、
何の反応も示さない。
ただの、物だ。
それでも。
祐介は、それを引き出しにしまわなかった。
机の上、
いつでも目に入る場所に置いた。
理由は、分からないまま。
世界は、今日も何事もなく回っている。
事故も、歪みも、奇跡も――
もう、どこにも見えない。
けれど。
確かに何かが、ここにあった。
その感覚だけを残して、
祐介の一日は、静かに終わる。




