17.5「すこし遡って」
ムネモスアトリエの奥。
空間の端に、一枚の“窓”が静かに開いていた。
映っているのは、祐介の世界。
夕暮れと夜の境目。
あの、事故の起きた交差点。
「……戻ったわね」
ヴェルネシアは、淡々と呟く。
氷――
いや、氷だったものは、すでに“個体”としては存在していない。
それは祐介の掌にある
花の形をした小さなキーホルダーとして、
完全に溶け込んでいる。
「ねぇねぇ、これさ」
梁の上に座ったルシェルが、足をぶらぶらさせながら覗き込む。
⸻
窓の向こう。
祐介は、交差点の中央に立っていた。
車も、人も、音も――
すべてが、一瞬だけ静止する。
世界が止まったわけじゃない。
ズレた部分だけが、立ち止まった。
祐介の胸に、重たい感覚が流れ込む。
知らないはずの感情。
思い出せないはずの温度。
――でも、確かに“そこにあった”もの。
キーホルダーが、微かに熱を持つ。
「……あ」
祐介は、理由も分からないまま、
それを強く握りしめた。
⸻
「来たわね」
ヴェルネシアの声が、少し低くなる。
「氷が保持していた“未完の記録”と、
祐介側に残っていた“欠けた記憶”が――」
窓の中で、重なった。
事故の瞬間。
完全な映像ではない。
音も、光も、輪郭も曖昧。
けれど。
「……ここで、葵は」
祐介の喉が、わずかに動く。
言葉にならない理解が、胸に落ちる。
それは思い出すことじゃない。
真相を知ることでもない。
ただ、
「そうだった」と、世界が納得しただけ。
⸻
ズレていた因果が、静かに収まる。
消えていた“葵という存在の重さ”が、
世界の中に、正しい位置で戻っていく。
周囲の人々の記憶。
記録。
会話。
写真。
――すべてが、無理なく接続される。
その代わり。
祐介の中から、
“妹と過ごした日々の輪郭”だけが、
音を立てずに抜け落ちていく。
⸻
「……歪み、消えたね」
ルシェルが、珍しく静かな声で言う。
「そうね。歪みも、ちゃんと解消されてるわ」
ヴェルネシアは頷く。
「記録は残った。想定内よ」
「氷の役割は、もう終わりね」
窓の中で、
キーホルダーから、最後の光が消えた。
能力も、記録も、そこにはない。
ただの、形見のような小物。
「……でもさ」
ルシェルは、少しだけ口元を緩める。
「自分の記憶削ってまで、
世界を戻したんだよ?」
「えらすぎじゃない?」
ヴェルネシアは、答えない。
ただ、窓を閉じる。
「干渉する理由は、もうないわね」
その言葉で、
ムネモスアトリエは、いつもの静けさに戻った。
氷は、商品ではなくなった。
物語は、更新された。
――そして、
祐介だけが、理由の分からない喪失を抱えて、
明日へ歩き出す。




