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ムネモスアトリエ  作者: あむ。
1:青年と氷の結晶

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1話「欠けた日常」

妹がいなくなってから、世界は静かすぎた。


音が消えたわけじゃない。

車は走り、人は喋り、テレビもつければうるさいくらいだ。

それでも――どこか一枚、膜が張られたみたいに、全部が遠い。


朝の食卓には椅子が二つある。

けれど、使われるのはいつも一つだけだった。


「……行ってきます」


返事はない。

分かっているのに、声が勝手に口から出た。


葵がいなくなって、三週間。

事故だった



――なのに。



事故の瞬間を、誰も語らない。

写真も記録も、細かい話も、どこにもない。


自分が一番近くにいたはずなのに。

あの夜、目の前にいたはずなのに。


思い出そうとすると、頭の奥がきしんで、何も掴めなくなる。


学校は相変わらずだった。

授業は進み、テストは来て、友達は気を遣った目で声をかけてくる。


「大丈夫か、祐介」


大丈夫なわけがない。

でも、どう答えればいいのか分からなかった。


放課後。

気づけば足が、家とは逆の方向へ向いていた。


コンビニ前の交差点。

葵が“最後に目撃された場所”。


白線の上に、乾ききらない雨の跡が残っている。

あの夜も、確かに雨が降っていた。


「……葵」


名前を呼ぶ。

当然、返事はない。


拳を握ると、爪が掌に食い込んだ。


(俺が……一緒に行ってたら)


言葉にする前に、思考が途切れる。

そこから先が、どうしても思い出せない。


記憶の形だけが、ぽっかり欠けている。


帰宅すると、リビングの照明がやけに眩しかった。

整った部屋は、生活の温度だけを失っている。


床に落ちていた、赤い花柄のスマホケース。

ひび割れた角に、見覚えがあった。


葵のものだ。


画面を点ける。

途中で止まったメッセージ。


『お兄ちゃん、今日さ――』


それ以上、何もない。


祐介はソファに腰を落とし、目を閉じた。


眠ろうとしたわけじゃない。

ただ、考えるのをやめたかった。


浅い意識の底で――


カラン。


小さな、澄んだ音がした。


冷たい感触が、指先に触れる。

ほんの一瞬だけ。


白い光が揺れた気がした。


祐介ははっと目を開ける。


「……夢か」


リビングには何もない。

いつも通り、静かな夜。


けれど胸の奥に、説明できない違和感だけが残っていた。


(……今の、なんだ)


夢にしては、妙に鮮明だった。


眠気は、もう消えていた。


その夜が――

祐介が、まだ“普通の世界”にいた最後の夜だった。

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